「3月13-19日 マタイ11-12章;ルカ11章:『あなたがたを休ませてあげよう』」『わたしに従ってきなさい—個人と家族用:新約聖書 2023年』
「3月13-19日 マタイ11-12章;ルカ11章」『わたしに従ってきなさい—個人と家族用:2023年』
3月13-19日
マタイ11-12章;ルカ11章
「あなたがたを休ませてあげよう」
ダリン・H・オークス管長は次のように教えています。「聖文は過去の啓示であり,現在の啓示に対して心が開かれていなければ理解することができません。……聖文を研究することで,男性も女性も啓示を受けることができます。」(“Scripture Reading and Revelation,” Ensign, Jan. 1995, 7)
印象を書き留める
様々な形で,パリサイ人と律法学者はエホバを礼拝することを重荷としていました。永遠の真理よりも厳格な規則を強調することも少なくありませんでした。休息の日であるはずの安息日に関する規則は,それ自体が重荷となっていました。
そこへ,エホバ御自身が,御自分の民の中においでになりました。主は彼らに,宗教の真の目的は重荷を作ることではなく,重荷を取り除くことであると教えられました。安息日を尊ぶことを含めて,神がわたしたちに戒めをお与えになるのは,わたしたちを抑圧するためではなく,祝福するためであることを教えられました。そうです。神のもとに至る道は細くて狭いものですが,主はわたしたちがその道を一人で歩く必要はないと告げるために来られたのです。「わたしのもとにきなさい。」主はそう呼んでおられます。何らかの理由で「重荷」を感じているすべての人に,主の横に立ち,自分自身を主につなぎ,主と重荷を分かち合うよう,主は招いておられます。主は「あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と約束しておられます。一人で進み続けようとしたり,この世的な解決策に頼ったりする選択肢に比べて,主の「くびきは負いやすく,〔そ〕の荷は軽い」のです。(マタイ11:28-30)
個人の聖文研究のためのアイデア
イエス・キリストに頼るとき,主はわたしを休ませてくださる。
わたしたちは皆,重荷を負っています。自分の罪や間違いからもたらされる重荷もあれば,ほかの人の選択に起因する重荷もあります。また,だれのせいでもない,地上における人生の一部としての重荷もあるでしょう。苦難の理由が何であれ,イエスはわたしたちが御自分のみもとに来るよう心から願っておられます。わたしたちが自らの重荷を負い,平安を見いだすのを助けるためです(モーサヤ24章も参照)。デビッド・A・ベドナー長老は次のように教えています。「聖約を交わし守ることにより,人は主イエス・キリストとつながります。」(「容易に重荷に耐えられるように」『リアホナ』2014年5月号,88)このことを念頭に置いたうえで,上の聖句に記されている救い主の言葉をよりよく理解するために,次のような質問について深く考えてください:わたしは自分が交わした聖約によって,どのように救い主に,また救い主とつながるのだろうか。キリストのもとに行くためには,何をする必要があるだろうか。どのような意味で,救い主のくびきは負いやすく,その荷は軽いのだろうか。
読むときに,ほかにどのような疑問が思い浮かぶでしょうか。その疑問を記録し,今週,聖文や預言者の言葉の中から答えを探してください。あなたの疑問に対する答えの幾つかは,上に紹介されているデビッド・A・ベドナー長老のメッセージの中にあるかもしれません。
ジョン・A・マキューン「キリストのもとに来る—末日聖徒として生きる」『リアホナ』2020年5月号,36-38;ローレンス・E・コーブリッジ「道」『リアホナ』2008年11月号,34-36も参照してください。
「安息日に麦を食べる弟子たち」James Tissot画
「安息日に良いことをする」
パリサイ人の教えは多くの点で救い主の教えと異なっていましたが,安息日をどのように尊ぶかということについては特にそうでした。マタイ12:1-13を読みながら,安息日に関する自分の態度や行いが,救い主の教えにどれだけ沿ったものであるかについて考えてみましょう。そのために,次のような言葉について深く考えるとよいでしょう。
これらの教えは,あなたの安息日の過ごし方にどのような影響を与えるでしょうか。
マルコ2:23-3:5;「福音トピックス」「安息日」の項,topics.ChurchofJesusChrist.orgも参照してください。
わたしの言葉や行いは,わたしの心の中にあるものを反映している。
救い主がパリサイ人を特に非難された点の一つは,彼らは自分たちが義にかなっているように見せかけつつ,その意図は純粋ではないことでした。マタイ12:34-37およびルカ11:33-44にある,パリサイ人に対する救い主の警告を学びながら,わたしたちの心と行いの関係について深く考えましょう。あなたにとって「良い倉」とはどういう意味でしょうか(マタイ12:35)。わたしたちの言葉はどのようにわたしたちを義としたり,あるいは罪に定めたりするでしょうか(マタイ12:37参照)。目が「澄んで」いるとはどのような意味だと思いますか(ルカ11:34)。救い主の力によってどのように「明る〔く〕」なることができるかについて深く考えてください(ルカ11:36)。
アルマ12:12-14;教義と聖約88:67-68も参照してください。
家族の聖文研究と家庭の夕べのためのアイデア
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マタイ11:28-30。家族がこの聖句に記されている救い主の教えを視覚化できるよう助けるために,最初は一人,次はだれかに助けてもらいながら,交代で何か重いものを引っぱってもらいます。わたしたちが負う重荷にはどのようなものがあるでしょうか。キリストのくびきを負うとは,どういう意味でしょうか。この概要の最後にある写真が,くびきとは何かを説明するのに役立つでしょう。
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マタイ12:10-13。イエスが安息日に人を癒された話を読みながら,わたしたちはどのように救い主によって「良く」していただくかについて,家族で話し合うとよいでしょう。どうすれば安息日を自分たちにとって癒しの日にできるでしょうか。
これらの節に記されている救い主の模範に倣い,家族で「安息日に良いことをする」(12節)方法のリストを作ってみましょう。人に奉仕する機会を含めることを忘れないでください。リストをとっておき,先々の日曜日に参照するとよいでしょう。
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ルカ11:33-36。「明る〔い〕」(34,36節)の意味について,家族にどのように教えたらよいかを深く考えましょう。物を使ったレッスンが役立つかもしれません。また,救い主の光をわたしたちの生活や家庭,世界にもたらす方法について話し合うのもよいでしょう。アイデアについては,ChurchofJesusChrist.orgにあるビデオ「闇の中に輝く光」を参照してください。
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ルカ11:37-44。家族で一緒に食器を洗いながら,この聖句について話し合ってみるのはどうでしょうか。ボウルやコップなどの外側だけを洗うのはなぜよくないのかということについて話をすることができるでしょう。そこから,外面的な行いだけでなく,内面的な思いや感情においても義にかなっている必要があるという話に結びつけることができます。
子供を教えるためのそのほかのアイデアについては,『わたしに従ってきなさい—初等協会用』の今週の概要を参照してください。
賛美歌の提案:「いともやさし」『賛美歌』70番
個人学習を改善する
一貫して取り組む。聖文を研究することが難しく思えたり,望んでいたほどの影響力がないように感じられたりする日があるかもしれません。諦めないでください。デビッド・A・ベドナー長老は次のように教えています。「一見取るに足りないことを一貫して行うことで,意義深い霊的な実が得られるのです。」(「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」『リアホナ』2009年11月号,19)
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:29)写真/©iStockphoto.com/wbritten