YAウィークリーから
間違った場所でつながりを探していましたが、答えはずっとわたしの手元にありました
自分の孤独の問題への答えは知っていましたが、それが見えていませんでした。
末日聖徒イエス・キリスト教会の中で育っていたとき、わたしは孤独でした。
高校でたった一人の会員だったので、周りのみんなから切り離されたような気がしました。それまで教会について聞いたことのある人はあまりいなかったので、話す機会はそう多くないように感じていました。拒まれるのが怖くて、さらに孤立してしまうのではないかと思い、教会について話したくないときもありました。
多くの友人が自分よりずっと幸せそうに見えたとき、わたしは福音に対して憤りを感じるようになりました。
彼らはとても楽しそうにパーティーをしているようで、わたしは仲間外れにされたように感じました。わたしはいつも彼らの誘いを断っており、彼らの友情と幸せを拒んでいるように感じていたのです。
それである日、彼らの誘いを断らなくなりました。
的のかなたに目を向ける
この友人たちと遊ぶことがどんどん増えていきました。ようやくコミュニティーの一員になったような気がして、やがて教会に行くのをやめてしまいました。
しかし、しばらくすると、燃え尽き症候群になり、かつてないほど孤独を感じるようになりました。自分がニコチン中毒になり、生活をコントロールできなくなっているのを感じました。
自分の問題が何なのか理解していませんでした。ようやく望んでいた友人とつながりを得たのに、なぜ彼らのように幸せになれなかったのでしょうか。
そのころ、友人の一人が愛する人を亡くしました。その人と話し、助けようとする中で、わたしは救いの計画について自分が知っていることすべてを思わず口にしてしまい、いつか愛する人にまた会えると説明しました。
……何ということでしょう。
わたしは自分が何を言っているのか信じられませんでした。わたしは何年もの間、福音について考えていませんでした。
しかし、自分が学んだこの真理を説明するときに希望を感じ、自分の信仰が完全に失われたわけではないことに気づきました。
わたしはまだ持っている自分の信仰のかけらについて深く考えました。わたしは、イエス・キリストに従い、人々に仕え、福音の喜びと約束を得ようと努力している、志を同じくする人々と交わる場所を教会がいつも提供してくれていたことについて考えました。
十二使徒定員会のデール・G・レンランド長老は次のように教えています。「わたしたち〔は〕『的のかなたに目を向ける』傾向があります。わたしたちはこの傾向から離れ、自分の生活の中でイエス・キリストを見失わないように、そして主が授けてくださる多くの祝福を認識できるようにしなければなりません。わたしたちには主が必要です。」
わたしは、自分が幸福を求めていた場所が間違っていたことに気づきました。
あなたは独りではない
この経験の後、わたしはイエス・キリストを再び知ることができるよう、宣教師と会うようになりました。彼らはわたしがもっと福音に携われるよう助けてくれました。わたしはもっと祈り、自分の神聖な本質を再発見することに集中するようになりました。ニコチンも断ちました。自分の生活を変えようと努力しているとき、神がわたしとともにいてくださることが分かりました。
時がたつにつれ、ワードのほかのキリストの弟子たちとのつながりに気づくようになりました。それから、自分の信仰について友達に話したり、質問に答えたりするようになり、幸せな気持ちになりました。
わたしが過去に感じた孤独の多くは、わたしの自信のなさに起因していました。しかし、周りに合わせようとすることから、自分らしくあり、神の息子であること、そして信仰を分かち合うことに焦点を変えるにつれて、福音に完全に従って生活することに喜びと帰属感を見いだしました。
十二使徒定員会のディーター・F・ウークトドルフ長老は、次のように約束しています。
「神はさらに与えられるものをお持ち〔です〕。……もっと高くて深い喜び、すなわちこの世が与えるどんなものをも超越した喜びです。心の痛みを乗り越え、悲しみを打ち砕き、孤独を和らげてくれる喜びです。
これとは対照的に、この世の幸せは長続きしません。そうできないのです。この世のすべてのものは本来、必ず古くなり、朽ち、くたびれ、腐ります。しかし、神の喜びは永遠です。神は永遠であられるからです。」
わたしはもう自分が教会員であることで疎外感を感じることはありません。イエス・キリストに焦点を当てることで、肩の重荷が取り除かれ、息ができるようになりました。主に従うとき、自分はほんとうに独りではないことに気づきます。聖約の祝福、聖霊の賜物、そしてキリストのすべての約束のおかげで、わたしは主がわたしとともにいてくださることを知っています。
この真理がわたしの生活にもたらす永続する喜びは、主の存在なしにわたしが求めたつかの間のどんなものよりも大きいのです。