『青少年の強さのために』
落胆しているときに
2025年3月号


落胆しているときに

物事が思いどおりにいかないとき,教義と聖約が助けてくれます。

今にも泡をはじきそうな針を持つ手

イラスト/ルシアナ・アブラオ

落胆したことがありますか。わたしはあります。実は,先週落胆したばかりです。まじめな話,涙が出るほどでした。

主はジョセフ・スミスに,「苦難の中で忍耐強くありなさい。あなたは多くの苦難を受けるからである」と言われました。思わず息を飲みます。この感覚,好きではありません。

でもありがたいことに,聖句はこう続いています。「しかし,それに耐えなさい。見よ,わたしはあなたの生涯の最後まで,あなたとともにいるからである。」(教義と聖約24:8,強調付加)よかった。大きく息を吐きましょう。

この言葉について考えるとき,これまでわたしが落胆を経験する度に,主がともにいてくださったことが分かります。幾つか例を挙げましょう:

役が得られなかったとき……

15歳のとき,学校で演劇のオーディションを受けました。主役のオーディションに挑戦したのですが,結果として,役を得ることはできませんでした。

さらに悪いことに,先生はすでに小さな役をすべて配役し終えていたので,わたしにはまったく役がありませんでした。先生はわたしを「生徒ディレクター」にしてくれましたが,申し訳なく思って,新しい役を追加してくれました。わたしはセリフのない修道女として,約30秒間舞台に立つことになりました。

もちろん,わたしは泣きました。

……主はわたしを強めてくださいました

振り返ってみると,その落胆の時期を乗り越えるのを救い主が助けてくださったことが分かります。主は,わたしが良い態度を保ち,もっと謙遜さを育めるよう,わたしを強めてくださいました。結果的に,わたしは9年生の演劇で楽しい時間を過ごすことができました。

「わたしたちの力の限りすべてのことを喜んで行おう。そして願わくは,その後,わたしたちがこの上ない確信をもって待ち受けて,神の救いを目にし,また神の腕が現されるのを見ることができるように。」(教義と聖約123:17,強調付加)

スポーツで思うようにいかなかったとき……

高校最後の年,わたしはテニスの学校代表(つまり一軍)チームに入りたいと思いました。チームに入るには,自分のすぐ上のランクの子を倒さなければなりませんでした。でも彼女との試合で,わたしは負けてしまいました。

落胆しましたが,わたしは二軍チームでプレーしました。二軍チームの決勝トーナメントで,わたしは1位にランクされました。でも,どうでしょう。決勝戦で負けてしまいました。わたしは泣きました。再び。

後にわたしはまた落胆することになります。良い成績を取り,スポーツも頑張ったことで賞をもらったのですが,その賞が取り消されることになったのです。どうやらその賞は代表チームでプレーした人だけがもらえるものだったようです。

……それは「つかの間」にすぎませんでした

当時,テニスはわたしの生活の大きな部分を占めていたので,その落胆はとても大きなものに感じられました。わたしが気づいていなかったのは,救い主がいつもわたしとともにいて,わたしを助けてくださっていたということです。それらの大きな落胆は,たとえ永遠に続くように感じられたとしても,そうはなりませんでした。

「あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。」(教義と聖約121:7-8,強調付加)

落胆をうまくかわそうとしたとき……

時には,落胆を完全に避けようとしたこともありました。13歳のとき,わたしは生徒会の一員になれなかったことがありました。もう一度挑戦すればきっと楽しかったでしょうが,そうしませんでした。再び落胆するのが怖くて諦めたのです。

……わたしは「恐れては」いけませんでした

落胆のさなかにあっても,わたしは主がともにいてくださることを覚えておく必要がありました。物事が思いどおりにいかないこともありますが,主はわたしたちが心地良くない感情と向き合い,新しいことに挑戦するのを助けてくださいます。

「あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない。」(教義と聖約6:36-37,強調付加)

伝道が計画どおりにいかなかったとき……

高校卒業後,わたしは伝道に出ることにしました。でも予期せぬ健康上の問題があって,予定していた時期に出られませんでした。

忍耐しなければなりませんでしたが,最終的にメキシコ・グアダラハラ東伝道部に召されました。そこで多くのすばらしい人々を教え,何人かがバプテスマを受けるのを助けました。しかし,わたしが信仰を持ち,従順であり,熱心に働いても,だれ一人として教会に活発にとどまることはありませんでした。

……わたしは神の御心を信頼しました

多くの場合,人生の出来事はわたしたちのコントロールが及びません。健康上の問題をすぐに解決することはできませんでした。福音に従って生活するよう人に強制することもできません。でも,わたしは主の時と方法を信頼することができます。

「それゆえ,あなたがたの思いがひたすら神に向いたものとなるように,自らを聖めなさい。そうすれば,あなたがたが神を見る日が来る。……それは神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従って起こる。」(教義と聖約88:68,強調付加)

先週,落胆したとき……

わたしはもう大人です。それでも,やはり落胆することはあります。実は先週,ライティングカンファレンスに行ってきました。わたしは自分の文章にかなり自信を持っていましたが,ほかのライターたちから幾つかの残念なフィードバックをもらいました。

……主はわたしとともにいてくださいました

今は,さらにもう少し主を信頼するよう努めています。落胆は人生の一部です。あなたが何か間違ったことをしているという意味ではないのです。

では,初めの聖句に戻りましょう。確かに,わたしたちは「多くの」苦難や落胆を経験するかもしれません。でもそのすべてを通じて主がわたしとともにいてくださることを知っています。そして,主はあなたとともにいてくださるでしょう。

「苦難の中で忍耐強くありなさい。あなたは多くの苦難を受けるからである。しかし,それに耐えなさい。見よ,わたしはあなたの生涯の最後まで,あなたとともにいるからである。」(教義と聖約24:8,強調付加)