2018年ディボーショナル
主のまことの生ける教会が持つ特徴


主のまことの生ける教会が持つ特徴

パトリック・キアロン長老との夕べ

ヤングアダルト対象のワールドワイド・ディボーショナル,2018年5月6日・ブリガム・ヤング大学アイダホ校

妻のジェニファーに心から感謝しています。彼女は,彼女自身が教えるとおりに生活しています。彼女は自分が何者であるかを知っており,そのことを喜んでいます。そして彼女はどこにいても,大胆に人々にそのことを分かち合っています。わたしが教会に入って2年後に彼女に出会えたことに心から感謝しています。わたしにとって彼女はこれまでも,これからも最高の模範です。

世界各地の会場で皆さんが集まっていることを考えると胸が躍ります。ランドン兄弟のすばらしい開会のお祈りに感じた御霊がともにあって,皆さんが必要な事柄を受けられるように祈ります。皆さんが御霊を求めているなら,きっと得られるでしょう。もし,何か特別なことを求めているなら,それを得ることができるでしょう。このようにわたしたちが集うとき,またこのような機会に備えるときに,そのような力がもたらされます。集いの中にそのような力がもたらされます。癒しを求めているなら,癒されますように。慰めを求めているなら,慰められますように。平和を求めているなら,平和が得られますように。試験のための助けを求めているなら,ほとんどのセメスターにおいては少しばかり早いかもしれませんが,その時期が来れば,助けが得られますように。

皆さんが御霊の促し,すなわち,自分へのメッセージを受けたなら,現在の習慣がどのようなものであれ,それに戻るのではなく,受けた促しに従って行動する力と確信を得られるよう祈ります。もし皆さんが変わる時が必要で,力と信仰の更新を必要とするならば,それがあなたにとっての賜物になるでしょう。

わたしは15,6歳のとき,思春期にありがちな,とても自己中心的で,感情的に不安定で,自分に自信が持てず,傷つきやすい時期を過ごしました。そういう気持ちはその後も多少続きましたが,いちばんひどかったのは10代のころです。自分を見失い,自意識過剰で,不器用でした。荒涼としたイングランド沿岸にある全寮制の学校にいたことも一つの要因でした。両親が遠く離れたサウジアラビアに住んでいたからですが,学校面では,スネイプ先生のいるホグワーツ魔術学校の方がまだましだったでしょう。

沿岸沿いは悪天候のことが多く,特にある年の冬は,アイルランド海から秒速20キロ以上の強風が吹き付ける大嵐に見舞われました。大波が防波堤に砕け散り,決壊した所もありました。そして周囲にある約5,000軒の家屋が水に浸かり,停電して,人々は家の暖房や照明がないまま孤立して,食べ物も底を突きかけていました。

水が引き始めると,わたしたちは学校から派遣されました。それほどの規模の自然災害を目にしたことがなかったわたしは,間近で経験して驚きました。あらゆる所が水と泥に浸かり,洪水の被害を受けた人々の顔は青白く,やつれていました。何日も眠れずにいたのです。わたしはほかの生徒たちと一緒に働きました。水に浸かった持ち物を乾かせるように上の階に上げ,洪水で使い物にならなくなったカーペットを引きはがしました。水を含んだカーペットがとても重かったことと,家の悪臭がひどかったことを覚えています。

次に感銘を受けたのは,助ける側と助けを受ける側の間に生まれた仲間意識でした。困難な状況の中で,価値ある目的のために一致して働いた人々の間に生まれるすばらしい,優しい気持ちです。隣人を助けようと一所懸命だったとき,いつもの圧倒されるような不安感はまったく影をひそめていたことに,あとになって気づきました。

残念ながら,その気づきは長く続きませんでした。人を助けることがわたしの憂鬱と自己執着への特効薬だと知っていたら,わたしはずいぶん変わったと思います。そうならなかったのは,その気づきが深く刻まれず,その出来事について深く思い巡らすことを怠ったからです。それが分かったのはあとになってからです。恐らく皆さんも自分の人生でこの真理に気づいたことでしょう。それがいつどのように起こったのか考えてみるとよいかもしれません。

総大会におけるミニスタリングの勧め

総大会の間,自分自身,このことについて考えていました。数週間前の歴史的総大会のすぐあとで,このように皆さんにお話しできることをとても感謝しています。そのとき感じた印象,平安,エネルギーがまだ冷めていないからです。

救い主のようにミニスタリングを行うよう繰り返し呼びかけられたことが大会の焦点でした。しかも,それを愛ゆえに,わたしたちが皆,天の御父の子供であると認めることから始めるようにという教えでした。数えられ評価されるから奉仕するのではありません。天の御父を愛しており,,友人が主を見いだし主のもとに戻る道にとどまるよう助けるという,より高く,気高い目的があるから奉仕するのです。わたしたちはイエスがなさるように愛をもって隣人に奉仕し,真の意味で人々の生活を改善し,重荷を軽くするよう努力しています。与える側と受ける側の両者が喜びと充足感を得られるのは,わたしたちが自分の無限の価値と,神のわたしたち一人一人に対する永遠の愛を知り,それを感じるからです。

ネルソン大管長はこのようにまとめています。「主のまことの生ける教会の特徴は,組織として導かれて神の子供一人一人とその家族に仕えるよう常に努力が図られることです。主の教会に属するわたしたちは主の僕として,主がなされたように,個人に対して仕え,教え,導きます。また,わたしたちは主の御名により,主の力と権能と愛にあふれた優しさをもって仕えます。」1

総大会の教えについて思い返すと,ミニスタリングを行うようにという呼びかけにこたえるならば,わたしたちは人に思いを向けることができ,信仰と自信と幸福が増し加えられ,自己中心な考えとそれに伴うむなしさや憂鬱を克服することができることをわたしは知っています。もっと若いときにこれに気づいていたらと思います。でも,年を重ねるにつれて,この偉大な真理をよりよく学ぶことができたことに深く感謝しています。

このようなミニスタリングの益と祝福

このような奉仕,ミニスタリング,あるいは弟子たることのすばらしさは,様々な方法で人々を助けるだけでなく,自分の心配,恐れ,不安,疑いを取り去ることでわたしたち自身も変われることにあります。最初,奉仕は自分の問題から注意をそらしてくれるだけですが,すぐにもっと高潔で美しいものに変わります。気づかぬうちに,光と平安を感じ始めるのです。心が鎮まり,温かくなり,慰められます。そして,ほかの方法では得られない喜びに気づかされます。このような賜物は,人を助けるという自分の行いに匹敵するどころか,はるかに豊かに与えられます。

スペンサー・W・キンボール大管長はこう説明しています。「聖文で述べられている豊かな生活とは,ほかの人々に対する奉仕を増し,わたしたちの才能を神と人類にささげることによってもたらされる霊的な祝福のことです。」2「人に仕えるとき,わたしたちはいっそう価値のある人物になります。—自分の中に見いだすものが多いので,実際に自分自身を『見いだす』のが容易になるのです。」3

ミニスタリングを行うときに経験する変化の例と行わないときとの比較

新任の宣教師が自分のことで思い煩うのをやめて,「だれを,どのように助けることができますか」と尋ねたら,このような変化を経験できるはずです。自分のことを考えるのをやめ,人々をキリストのもとに導くという自らの目的に立ち返るのです。宣教師にとって,これは簡単なことではありません。初めての場所で知らない人に会い,慣れない食べ物や習慣,難しい言語に戸惑うあまり,外に目を向けて奉仕するのがとても難しいことがあります。しかし,そうするときにすべてが変わります。心配するのをやめ,すべきことを始め,目の前にある任務に無心に取り組むことによって,伝道と人生に,平安と目的意識のあるまったく新たな側面を発見するのです。

悲しいことに,宣教師が帰還し,教育,就職,あるいは個人や家族の問題などといった人生の次の段階の問題に取り組み始めると,これと逆のことが起こりがちです。宣教師は,自分に囚われていないとき,あるいはヒンクレー大管長が言うように,我を忘れて業に取り組むときに最も幸せだと学んで18か月または2年を過ごします。彼らが伝道から帰還して伝道前の生活に戻るときに,以前のような自己中心的な習慣の多くも戻ってしまうことがよくあります。特に,自分のことに夢中になり,自分の言動や外見,そして人が自分をどう思っているかを気にする生活に戻ってしまうのです。

外に目を向けて人を助けることで確実に光と平安と喜びがもたらされるように,自己への執着は疑いと不安と憂鬱をもたらします。

2か月ほど前,眠ろうとしても眠れず,何時間も横になっていたことがあります。とうとうベッドから出て家の周りを少し歩き,それからベッドに戻ってもう一度眠ろうとしました。それでも寝つけなかったとき,急に斬新なことを思いついたのです。「自分のことを考えるのをやめなさい。」それから,「だれを助けられるだろう」という質問が心に浮かびました。わたしは横になったままで熱心に祈りました。「今だれを,どのように助けられるでしょうか」と。すると,連絡して励ますべきだと感じる友達が浮かんできました。大したことではありませんでしたが,翌朝,わたしはそのとおりに行い,多少人の役に立てたのではと思います。確かなことは,わたしがそのように祈り,だれを助けたらよいか知らせてくださいと祈ったときに,それまで感じられなかった平安を見いだし,ようやく眠りにつくことができたのです。

救い主のミニスタリングの模範

救い主は「よい働きをしながら,」4すなわち,いつも助けの必要な人を探し,「抑えつけられている人々をことごとくいやしながら,」巡回されました。5主は,人々がものの見方を変え,ひいては人生を変えることができるように,絶えず祝福し,教え,導かれました。主がペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネに,ついて来るよう招かれたとき,「彼らはすぐに網を捨てて,イエスに従った」とあるとおり,瞬時に方向転換し,主に的を絞ったことが心に残ります。6

後に,はりつけの刑が終わり,救い主が最も残酷な方法で彼らから取り去られたとき,彼らは馴染みのある漁師の仕事に戻りました。あるとき,獲物が取れないでいると,復活された救い主が彼らの前に現れました。「すると,イエスは彼らに言われた,『舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば,何かとれるだろう。』彼らは網をおろすと,魚が多くとれたので,それを引き上げることができなかった。」7ここから,主がまったくその力を失っていないことが分かるだけでなく,彼らの方向性と焦点が誤っていたということがよく分かります。岸辺で一緒に魚を食べていたとき,救い主はペテロに,御自分を愛しているかと3度尋ねられました。その度に,ペテロは次第に心を痛めながら,愛していますと答えます。ペテロが答える度に,イエスはペテロに御自分の羊を養うように言われました。

救い主はなぜペテロに御自分を愛しているかと3度尋ねられたのでしょうか。ペテロは以前,イエスに従うように召され,すぐに漁をやめて従いました。しかし,イエスが取り去られたときペテロは嘆き悲しみ,自分を見失って,唯一できる,漁に戻ったのです。今回は,イエスはペテロに御自身の言葉をよく聞き,その招きの重要性を理解してほしいと望んでおられました。主はペテロに,彼らと物理的に行動を共にできなくなった今,復活されたキリストの弟子となり,従うとはどういうことかを理解してもらいたかったのです。主はペテロに何を望まれたでしょうか。主の羊,子羊を養うことです。主が必要としておられたのはそれでした。主からの優しく単刀直入な召しに気づいた先任使徒のペテロは,恐れず果敢に,残りの人生を教導の業にささげたのでした。

皆さんに当てはめる

福音の回復により,今日地上に再び使徒の頭が与えられています。ネルソン大管長はイエスの羊を養うように皆さんとわたしを招いています。限りなく明瞭で愛に満ちたその招きを総大会で聞き,わたしたちは感動し霊感を受けましたが,果たして変わったでしょうか。今わたしたちが直面するチャレンジは,周りに気をそらすものが多く,対応を迫る重要性の低いものが多々ある中で,どのようにこの招きにこたえて行動を起こし,生活を変えるかということです。

ミニスタリングを行うという招きに対して,「何から始めたらいいか」と尋ねるかもしれません。まず,祈りましょう。ネルソン大管長はわたしたちにこうチャレンジしています。「個人の啓示を受ける霊的な能力をさらに伸ばすように,強くお勧めします。なぜなら,主はこう約束しておられるからです。『求めれば,啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受けて,数々の奥義と平和をもたらす事柄,すなわち喜びをもたらし永遠の命をもたらすものを知ることができるようになるであろう。』〔教義と聖約42:61〕」8

天の御父に,どのようなことをだれに行うべきか尋ねてください。思いやりの行いは,どんな些細なものであっても,わたしたちの目を外に向け,祝福をもたらします。どれほど取るに足りないことと思えても,受けた印象にはすべて従ってください。行動に移してください。だれかにサプライズで優しい携帯メールを送ること,何らかのメッセージを送ること,一輪の花やクッキーを贈ったり,優しい言葉をかけることかもしれません。もしかしたら,前ほど体が自由にならなくなった人のために庭の片付けや洗濯をすること,車を洗う,草を刈る,雪かきをする,あるいは問題を抱えている友人の話を聞いてあげることかもしれません。

ジーン・B・ビンガム姉妹はこう説明しています。「隣人への奉仕と『見なされる』ために,立派で大それたことをしなければならないと,わたしたちは時に考えますが,ささやかな奉仕の行いこそ,人々だけでなく,自分にも大きな影響をもたらす可能性を秘めているのです。」9

皆さんは時間がない,大した役には立てないと思い込んで最初の一歩を踏み出せずにいるかもしれません。しかし,小さなことにも大きな力があるのです。

教会から遠ざかり気味で,かつての信仰や希望をを失いつつある友人を心配しているなら,奉仕活動やミニスタリングに誘ってみてください。困っている人への有意義な奉仕に携わるほど,神の事柄に心を向け,主の愛を再発見させるのに適したものはありません。

奉仕とミニスタリングの目的

なぜ奉仕をし,ミニスタリングを行うのか,常に思い起こす必要があります。わたしたちは天の御父の子供であり,様々な経験を通して学び成長するために地上にいます。それは,より完全な状態で御父のもとに戻るためです。内だけを見ず,外に目を向けて仕え合うことは,わたしたちがここにいる目的の大切な部分なのです。実のところ,それがミニスタリングの中心を成すものです。外に目を向け,困っている人にミニスタリングを行うとき,その過程で自分と自分の問題を忘れられるという奇跡が起きます。

ネルソン大管長は皆さんとわたしに,より高く,より清い奉仕のパターンを示しています。実行すれば,それがどれほど心を満たし,開放し,穏やかにしてくれるか,また人々の生活を変え,慰めを与えるための助けとなれるかが分かるでしょう。

皆さんが神殿でエンダウメントを受けて,伝道を終えるとき,こう言いたい誘惑に駆られるかもしれません。「やっと終わった。18か月または2年間,専任宣教師として頑張ったのだから,今度はほかの人が奉仕する番だ」と。結婚にも同じことが言えるかもしれません。「結婚したんだから,ちょっと休憩しよう」と。しかし,このような業には休憩はありません。それは生活の一部だからです。通常の活動からは休みを取ったり,ジョセフ・スミスが言ったように「弓からつるをはずし,」英気を養うために休暇を取ったりするかもしれません。10しかし,主がわたしたちを愛し,御自分の羊を養われたように,周りの人を愛するという聖約の責任に休みはありません。

わたしはそのような奉仕を受ける側になったこともありますし,だれかのために神の御手に使われる者となり平安と喜びを感じたこともあります。

幼い息子の命を救おうと戦ったときの経験を妻のジェンが話してくれました。息子が亡くなったとき,わたしたちは立ち直れないかもしれないと思いました。当時わたしたちは家族,友人に加え,あまり知らない人からもたくさんの優しさと愛にあふれた奉仕を受けました。仲の良かった夫婦はその間,絶えずミニスタリングを行ってくれました。一緒に祈ったり,わたしたちのために祈ったり,祝福や食事や慰めの言葉を与え,ときには黙って一緒にいてくれました。悪い知らせが届いたとき,わたしたちが疲れ切っていたとき,そして悲しみに打ちひしがれていたときに,なぜか彼らがいつも現れるのです。長年にわたり,彼らにとってそれが生活の一部であることを行動で示してくれました。彼らはひそかに,そして常に仕えます。

世界規模の教会の教導の業

この数年ドイツに住み,教会のヨーロッパ地域で奉仕していたときに,この原則が驚くほど効果的に応用されているのを目にしました。中東の過酷な戦闘と荒廃から逃れるためにすべてを失った何千人もの難民を助けようと,教会員とほかの宗教の友人たちが手を差し伸べたのです。難民たちは,わずかな所持品を入れた小さなバッグを手に,時には何千キロも歩いてやって来ました。必要を抱えた兄弟姉妹,主の子羊たちを目にした教会員たちは,すべてを失った難民を助け,衣服や食べ物や雨露をしのぐ場所を与え,彼らを慰めたのです。そうした結果,援助した人々が変わりました。彼らは祝福され,それまで経験したことのない,あるいは自己中心的でありふれた日常のために薄れてしまった,光とエネルギーと喜びを感じることができたのです。人々はこのすばらしい救助活動を世界中で続けています。

難民の抱える問題は非常に切迫していて明らかでしたが,わたしたちの周りにも,目につきにくい問題を抱えて助けが必要で,わたしたちが助ける必要のある人々がいます。わたしたちの教導の業と奉仕は世界の反対側である必要はありません。多くの意味で,近場の方がよいのです。

これを実践している教会に籍を置いていることを誇りに思います。昨年だけで,貧困で苦しんでいる人々のために食物を育て,収穫し,配達するために,ボランティアが700万時間以上を奉仕し,教会は清潔な水が手に入らない50万の人々に水を提供しました。また,41か国で4万9,000人の人々に車椅子を寄贈しました。医療ボランティアが40か国において,人々の視力の回復に努め,9万7,000人の眼科の医療従事者の訓練をし,38か国で3万3,000人の医療従事者が妊婦と新生児のケアの訓練を受けました。言うまでもなく,近年のヘルピングハンズの活動では,数十万人の教会員が何百万もの時間を寄付しています。彼らは大小の災害に見舞われた人々と町の復興を助けるために素早く奉仕しています。

もし皆さんの近くにあるなら,最近教会から提供されている「JustServe(ジャストサーブ)」というサービスは,奉仕の機会を探すのに最適です。すでに地元の地域で何百万時間も働いている35万人のボランティアが登録しています。

これは行動する教会です。そういう教会なのです。それが皆さんの役目です。それをわたしたちの決定的な特徴にしなければなりません。これが喜びと平安を見いだす方法なのです。なぜなら,これこそ救い主の模範に従うための,最高で,最善の,最も明白な方法の一つだからです。

M・ラッセル・バラード会長はこう述べています。「簡単で小さなことによって偉大なことが成し遂げられます。金の小さな粒も時間をかけて蓄えれば大きな宝になるように,小さくて簡単な親切な行いや奉仕も,積もり積もって,天の御父への愛に満ちた人生,主イエス・キリストの業への献身的な働きに満ちた人生,互いに助け合う度に感じる平安と喜びに満ちた人生になるのです。」11

3種類の奉仕

ここで,わたしたちが参加することのできる奉仕を大きく3つに分けてみたいと思います。

第1に,教会の責任として割り当てられたり,頼まれたりする奉仕です。この奉仕については総大会のすばらしく霊感されたお話の中で採り上げられました。この種類の奉仕は数量化するのではなく,割り当てを受けた相手について考え,祈り,助けることを大切にするよう努力します。

第2に,わたしたちが自ら選んで行う奉仕です。これは第1の奉仕の延長線上にあるもので,わたしたちがより意図的に自分を忘れて外に目を向けるとき,自然に日々の行動やふれあいの中で起こるものです。形式上の割り当てなどなく,キリストに従うという望みによって触発され,周りの人々に,より優しく,思いやりを示すところから始まります。親切や何気なく示す寛容さにより,温かく意義深い関係が築かれます。

第3は,公共の奉仕です。皆さんの年齢でも,教育委員会や慈善団体,また地方自治体や政府で奉仕することができます。男女を問わず,このような奉仕に参加するようお勧めします。適切なら,奉仕,個人と町の育成を視野に入れて政治にも参加してください。町や国や大陸を分断し,破壊をもたらす政治的部族主義は避けましょう。今は,自分の選挙区やもっと広い地域にいる問題を抱えた人々を癒すという大義を共有する,ほかの政治家とともに活動しましょう。社会のあらゆる分野が公正であるように,皆さんは調和と理性の声となることができます。このような意義深い市民活動に皆さんのエネルギーを注ぐ必要が高まっているのです。

ニュースを読むと,世界は悪化の一途をたどっているように思うかもしれません。一人一人の毎日の行いによって,わたしたちは自分や周りの人々の世界を変えることができます。皆さんが近所の人々に奉仕し,彼らと一緒に地域で奉仕するとき,助けたいという思いを共有する友人ができます。それは文化や信条の違いを超えた強い友情となるでしょう。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはこう言っています。「愛は,お互いを見つめ合うことではなく,ともに同じ方向を見つめることである,と人生は教えている。同じ大義に向かって励む以外,友情などあり得ない。物質的に満たされている現代でさえ,それは変わらない。そうでなかったら,砂漠で最後のパンくずを分かち合うときに感じる幸福感をどう説明できるのか。」12

結び

救い主のようにミニスタリングを行うという呼びかけに皆さん一人一人が応じるなら,皆さんは変わり,自己中心からよりいっそう無私無欲になります。救い主の方法でミニスタリングを行うことに喜びを見いだし,自分を無力と感じることから来る不安と疑念と憂鬱から解き放たれるでしょう。

この話を聞ききながら,だれかの名前や目標が頭に浮かんだかもしれません。これは御霊からの招きです。以前にもこれを受けたかもしれません。手を差し伸べ,見守り,高めるようにしてください。この招きにこたえることを選び,今日自分に何ができるか祈ってください。そうすることによって自分とミニスタリングの相手が受ける祝福を理解し感じるとき,それを日課にしたいと思うはずです。

最高で最善のミニスタリングは,イエス・キリストの福音の光と希望,喜びと目的を,神のすべての子供たちに紹介し,彼らが帰路を見いだせるように助けることです。神の子供たちを助け,彼らに仕え,ミニスタリングを行うことは,福音の実践を表しています。これを生活の一部とするとき,特別な充足感を感じ,これまで感じられなかった平安と喜びを見いだすことができるようになるのです。

ネルソン大管長の教えを繰り返します。「主のまことの生ける教会の特徴は,組織として導かれて神の子供一人一人とその家族に仕えるよう常に努力が図られることです。主の教会に属するわたしたちは主の僕として,主がなされたように,個人に対して仕え,教え,導きます。7また,わたしたちは主の御名により,主の力と権能と愛にあふれた優しさをもって仕えます。」13

救い主は,主の偉大な終わりのない贖いの賜物を通して,究極の癒しを皆さんやわたしに授けるために,そのように生きられたのです。主がなさるようにミニスタリングを行うことによって,主の真の弟子になるよう努力するとき,よりいっそう進んで,より効果的に,生ける救い主に従うことができますように。

イエス・キリストの御名によって,アーメン。

  1. ラッセル・M・ネルソン「神の力と権能によるミニスタリング『リアホナ』2018年5月号,69

  2. スペンサー・W・キンボール「豊かで満ち足りた人生」『聖徒の道』 1979年6月号,4参照

  3. スペンサー・W・キンボール「豊かで満ち足りた人生」1979年6月号,3参照

  4. 使徒10:38

  5. 使徒10:38

  6. マタイ4:20,強調付加

  7. ヨハネ21:6

  8. ラッセル・M・ネルソン「教会のための啓示,わたしたちの人生のための啓示『リアホナ』2018年5月号,95

  9. ジーン・B・ビンガム「ミニスタリングー救い主のように」『リアホナ』2018年5月号,104

  10. See William M. Allred, in “Recollections of the Prophet Joseph Smith,” Juvenile Instructor, Aug. 1, 1892, 472

  11. M・ラッセル・バラード「愛ある奉仕を通じて喜びを見いだす『リアホナ』2011年5月号,46-49

  12. アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ,Airman’s Odyssey(1939),195

  13. ラッセル・M・ネルソン「神の力と権能によるミニスタリング『リアホナ』2018年5月号,69