1970年以来,十二使徒定員会の会員として奉仕してきたボイド・K・パッカー会長は,妻のドナ・スミス・パッカー姉妹をあとに残し,7月3日に死去しました。
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は,献身的な指導者という言葉では語り尽くせない偉大な人物を失いました。十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカー会長が亡くなったのです。これ以上ないほどに複雑なテーマですら分かりやすく教えることのできる卓越した教師を,失いました。
パッカー会長は天の御父に仕え,天の御父の子供たちを教えることに生涯をささげました。自身の子供を始め,セミナリーで教え,さらには中央幹部として世界中で教え導く業を行いました。パッカー会長は救い主を教師の模範として仰ぎました。1975年に著した書籍Teach Ye Diligentlyには,こう書かれています。
「救い主がこう宣言されたことを念頭に置いてください。『あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。』(3ニ―ファイ27:27)……
ためらうことなく認めますが,わたしの願いは救い主のように教えることです。わたしの能力をはるかに超えたことではありますが,救い主が理想であることに変わりはありません。……
救い主のようになりたいという大きな志は,わたしたちの誰が持ってもおかしくはないのです。」1
若くしてパッカー会長は,完全かつ揺らぐことのない生涯の忠誠を神に誓いました。2その誓いを実践し,他のイエス・キリストの弟子たちにとって霊的な指標となる受け継ぎを残したのです。世の人々は,ボイド・K・パッカー会長が貢献した事柄を全て知っているわけではありませんが,霊感の源であられる神は知っておられます。
青年時代
ボイド・ケネス・パッカーは,1924年9月10日,アイラ・ワイト・パッカーとエマ・ジェンセン・パッカーの間に生まれました。11人きょうだいの10番目です。勤勉と福音の原則への従順が,当たり前のこととして実践されている家族でした。アイラは,ユタ州ソルトレーク・シティーから北へ約60マイル(約100キロメートル)離れたところにあるブリガムシティーに自動車修理工場を持つ熟練工でした。両親とも,農家の出身でした。エマは子供のころから大自然と野外活動を愛しました。この愛は息子ボイドの人生に引き継がれます。ボイドの野外活動や自然,動物に対する愛は,彼が生み出した芸術作品の多く,中でもその細やかで手の込んだ鳥の彫り物に現れています。
パッカー会長の先祖は開拓者で,父方はイギリス人,母方はスカンジナビア人です。パッカー会長の家の玄関のドアと孫たちの家のドアに付いている真ちゅう製のドアノッカーは,パッカー会長が制作したくびきをかけた雄牛の彫り物にならって作られています。パッカー家の一人一人にとって,その彫り物は二つのことを象徴しています。一つは開拓者の先祖,もう一つは救い主のくびきを負う意志と信仰です(マタイ11:29-30参照)。3
「子供時代,わたしは自分の家が貧しいと思ったことがあります。」短い自伝の中で,パッカー会長はこう語っています。「でも,あとになってそれは間違っていたことが分かりました。確かにお金はなかったのですが,生活の中の最も大切な面では,常に裕福だったのです。」4
5歳のとき,ボイドはポリオにかかりました。当時,病気は肺炎と診断され,目に見える大きな後遺症はないまま回復しました。しかし,後にポリオが再発して,ボイドは苦労することになります。
第二次世界大戦が起こったため,ボイドは伝道に出ることができませんでした。1943年,彼は合衆国陸軍航空隊に入隊し,1944年,パイロットとして卒業しました。爆撃機を操縦する訓練を受け,終戦後は1年近く日本に駐留しました。操縦士として従軍していた頃,痛みを感じたのでレントゲン写真を撮ったところ,ひざと腰の骨が変形していました。これは,子供の頃患った病気がポリオだったことの証拠です。(晩年は,そのポリオの後遺症のため,車椅子を使用することになります。)
従軍中は,福音を学ぶ十分な時間に恵まれ,モルモン書を何回も読みました。この書物は「自分の生涯に最も力強い影響を与えた唯一無比のもの」と彼は言っています。5ボイドは,ある夜,太平洋に浮かぶ小さな島の誰もいない壕で,福音が真実だという個人的な証を得ました。このときのことについては何度も語っています。壕から出たボイドは,違う人物になっていました。はっきりと知ったからです。信念や希望であったものが,一点の曇りもない確信へと変わったのです。はっきりと知ったのです。6
宣教師となる方法も見つけました。ボイド・K・パッカーは,1940年代中頃に,福音を日本に再び紹介する仲立ちとなった末日聖徒の軍人の一人です。佐藤龍猪兄弟を教会に導くために御手に使われたのです。この兄弟の翻訳の業により,多くの日本人が母国語で聖典に親しみ,神殿の儀式を受けられるようになりました。
結婚と家族
復員したボイドは,ユタ州オグデンのウィーバーカレッジ(現ウィーバー州立大学)に入学しました。そしてこの大学でドナ・スミスに出会い,1947年7月27日,ローガン神殿で結婚したのです。その後,二人の間にはアラン,ケネス,デビッド,ローレル,ラッセル,スペンサー,ゲール,キャサリーン,ローレンス,エルドンの10人の子供が生まれます。
パッカー会長は,家庭生活の成功は妻のおかげだといつも言っています。妻は精力的で,「彼女が持っている,人を発奮させる能力は大変なものです」と言っています。7
パッカー会長が彼女から受けた影響については,長年の友人であり,七十人第一定員会会員であるA・セオドア・タトル長老(1919-1986年)が分かりやすく説明しています。彼とパッカー会長はともに教会教育システムで教師や教育長として働きました。
パッカー会長のある著作の前書きで,友人であるセオドアはこう書いています。「パッカー会長には他の誰にも利用できない霊感の源が一つあります。それはドナです。……ドナは10人の子供を産み,夫が『特別な証人』として召されたために,子供たちを育てる責任の大半を担いました。彼女はまさしくパッカー会長の恋人であり,友人であり,そして内助の功を発揮する者なのです。」8
パッカー会長とパッカー姉妹は,すばらしい一致の模範です。息子のアランはこう語っています。「父を見たら,母が分かります。母を見たら,父が分かります。二人は一体であり,一致しています。もちろん,特に家庭の中で,二人はお互いに影響し合いました。
父は,父親としての役割を最優先していたので,時間を割いて子供たちと一緒に過ごしてくれました。彫刻をしたり,絵を描いたりしているときに,子供が自分もやりたいと言えば,やらせてくれました。息子のアランは振り返ってこう言っています。「父は手を止めると,絵の具の付いた絵筆を渡し,一緒に作業をさせてくれました。そうこうしているうちに子供が興味を失うと,……修復作業に取りかかりました。ですから幾層かの絵の具の下には,子供たちが描いた跡が少し残っているのです。」9
若い父親だった頃,ボイドは地元の教会で働く召しを受けて教会で奉仕し,またブリガムシティーの市会議員として地域社会でも奉仕しました。同じ頃に,ボイドは教会教育システムの職員になりました。ウィーバーカレッジから準学士号(1948年),ユタ州立大学からは学士号(1949年)を受けています。またユタ州立大学から修士号(1953年),ブリガム・ヤング大学から博士号(1962年)を受けました。
1955年,ボイドは教会教育システムでセミナリー・インスティテュートの教育長補佐に任命されました。1961年10月,その職務を果たしているときに十二使徒補佐に召されました。37回目の誕生日を迎えた直後のことです。十二使徒補佐だったときにニューイングランド伝道部の伝道部会長としても奉仕し,その高潔な人格と能力を生かして,民間および業界の指導者の間に多くの教会の支持者を作りました。
これらの召しの重責にもかかわらず,パッカー会長は常に家族を最優先しました。息子のアランはこう言っています。「父はいつも……家族は永遠の組織であり,最優先すべきものだということを知っていました。事務所に電話をかけると,秘書はそのような指示を受けていて,いつ電話をかけても,どの集会に出席していても,必ず父につないでもらえました。ちょっと挨拶をするためだけでも,父につないでもらえたのです。先任使徒が何人か同席しているような集会を中断させたのではないかと思い,少々恐縮ではありましたが,いつでも応対するというのが,父の指示だったのです。」10
十二使徒定員会に召される
1970年,デビッド・O・マッケイ大管長の死去に伴い,彼は十二使徒定員会会員に召されました。彼の定員会における奉仕は,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長が新しい大管長として支持されたときから始まりました。定員会を管理するというパッカー長老のその後の召しも,新しい大管長の支持と時を同じくして与えられています。1994年6月,ハワード・W・ハンター大管長が,トーマス・S・モンソン大管長を大管長会第二顧問として留任したとき,次の先任使徒であったパッカー長老は十二使徒定員会会長代理となりました。そして2008年2月,モンソン大管長が大管長となった後,定員会会長に任命されました。
パッカー長老が十二使徒定員会会員に召されたことを伝える1970年の記事には,自らの人生設計について語った彼の言葉が引用されています。
「何年も前に,わたしは人生の基本的な目標,すなわち自分がなりたいもの,したいことを幾つか決めました。まず良い父親になりたいと思いました。……生計を立てることや趣味,人とのつき合いも,その理想にかんがみて検討しなければなりませんでした。やがて父親の務めを果たすための最善策は福音の実践であるということが分かりました。……家庭は福音の中心,わたしの人生の中心を成すものです。……
わたしが次に掲げた目標は,良い人になりたい,……ふさわしくありたいということでした。特に,地上の父親にとっても,天の御父にとっても良い息子でありたいと思いました。良い子を授かりたければ,まず自分が良い子にならなければならないと考えました。人は,自らがもう一人のふさわしい人間となるときに,天の御父の栄光に貢献するとわたしは思います。自分は喜んで差し出していないのに,それと同じものをいただくのはおこがましいと感じてきました。」
パッカー長老は,こうした目標を追及する際に活用できる手段についても,語っています。「教会には,わたしたち全員が活用できる偉大さがあるとわたしは思います。わたしたちは,主の方法を用いればもっとすばらしい祝福が得られるのに,いつも自分のやり方で事を成そうとするために,それが活用できていないのです。……御父が近くにおられるならば,どうして詳細に,現実的な問題について,地上の父親に相談するのと同じくらい頻繁に,御父と相談しないのでしょうか。?」11
中央の教会指導者として奉仕することにより,パッカー会長は主の御手の中にあって何年もの間,訓練を受けることになりました。その仕え,教え,導く業は,幾つもの世代と大陸に及びました。
ある女性は,10代だった1860年代に,パッカー長老がアイダホ州南東の町のパイオニアタバナクルで話すのを聞きました。そのときに聞いた話が,自分の人生に与えた影響について振り返り,次のように言っています。パッカー長老は聴衆の中の若人たちに,帰宅したら両親に愛を伝え,その犠牲に感謝するようにと言いました。彼女の家では,そのように両親に愛を伝えることはめったにありませんでした。同年代の人たちの家もそうでした。パッカー長老のメッセージがきっかけとなって,彼女は両親が小さな農場から得られる収入で,たくさんの子供たちを育てるために,どれほど身を粉にして働き,自らを捨てて犠牲を払っているか考えました。その結果,それまでに経験したことのないような,開拓者の先祖と霊的な受け継ぎに対する感謝の思いがわいてきたのです。
1970年代初頭のドイツで,パッカー会長は妻とともにミュンヘンからベルリンまで列車で夜通し移動しなければなりませんでした。教会の割り当ての一つを果たすためです。二人の若い宣教師が彼らを列車まで連れて行ってくれました。列車が動き出したとき,若い長老の一人が,窓越しにパッカー会長にドイツ通貨は持っているかと尋ねました。持っていないとパッカー会長が言うと,その宣教師は,列車を追いかけながら,20マルク紙幣を手渡したのです。
数時間後,その20マルク紙幣は,彼らの旅を安全に終えるために不可欠なものであることが分かりました。東ドイツ政府で認めていない古いタイプのパスポートを持っていたパッカー姉妹を列車から降して拘束することもできた東ドイツ兵士の心づもりが,その紙幣のおかげで変わったのです。
外国を訪れようとしていた使徒に20マルク紙幣を手渡したこの若い宣教師こそ,約30年後に十二使徒定員会でパッカー会長とともに奉仕することになるデビッド・A・ベドナー長老でした。この話の要点は,パッカー会長によれば,主に仕えるとき,主の御手がともにあるので,自分に与えられた割り当てを果たすことができるかどうか心配する必要はないということなのです。12ボイド・K・パッカー会長の働き方に倣う人は誰でも,主の御手がともにあることを知りました。
パッカー会長が友として仕え,教え,導く業に携わるとき,周囲にいる末日聖徒はその愛を感じることができました。グアテマラ・モモステナンゴステークにあるマヤ高原の狭い丘陵地に小さな集会所があります。1980年代中頃にパッカー長老が奉献した集会所です。ここに集う会員は,パッカー会長の力強い証に心から感動したことをなつかしく思い起こしています。また,この主の使徒が自分たちの集う場所を歩いたときに感じたその愛を,今でも覚えています。
教師であり証人
十二使徒定員会でボイド・K・パッカー会長とともに奉仕した中央幹部は,この使徒の持つ福音の原則を教える能力とそれらの原則に従う確固たる信念を知るようになりました。「パッカー長老は,まさしく真の教師です。」こう語るのは,大管長会で顧問として奉仕したジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)です。「確かに十二使徒は皆教師なのですが,彼はその十二使徒の中の教師なんです。」ファウスト管長はさらに,パッカー会長が指導的立場にあって示す,聖文への愛と聖文の利用の仕方は,教会全体の方向づけにも影響を与えたとも言い添えています。13
ラッセル・M・ネルソン長老の語るところによると,十二使徒定員会で何かの問題について討議するとき,パッカー長老はモルモン書の中からその問題に関連した教えを探し出し,解決策を見つけるための手立てとすることがよくあったとのことです。「モルモン書なくしては,パッカー長老も今のような預言者とはなれなかったことでしょう。彼こそ傑出した聖見者です。」ネルソン長老はまた,パッカー長老が聖文に基づいて語る教えには,「深い理解力」が表れているとも言っています。「この人物の懐の深さを十分に理解した人はいません。」14
パッカー会長は,優れた知性と多種多様な経歴を持つ12人の男性が,教会の諸事の導き方について意見を一致させるのは難しいかと尋ねられたことがあります。それに対して,パッカー会長は次のように説明しました。十二使徒定員会会員は,「この地上に住むどの男性も共有していないようなことを共有しています。」彼らは,この定員会全体に課せられた責任を果たすために,その優れた個人的才能と能力を持ち寄り,その後は,自分の意志を神から授かる霊感に全会一致で従わせるのです。「わたしたちはそれぞれ個性的で固い意志がありますが,皆一つなのです。」15
晩年パッカー会長が使徒として伝えた証は,どこかしら緊迫感が増し,より単刀直入になっていくようでした。パッカー会長の証の声は,教会にあって信頼できる不変のもの,ためらうことの一切ない証人の言葉でした。彼の言葉を聞く人は,ボイド・K・パッカーは知っているということを難なく理解することができました。
2008年4月の総大会でモンソン大管長が支持された後,パッカー会長はそのときに起きた事柄について報告しました。その報告は,パッカー会長が教会の召しを尊んでいることと,その召しが神から来るものであるという確信を示すものでした。「何が行われるかはっきりしており,ためらいはありませんでした」と言っています。「その神聖な集会において,トーマス・スペンサー・モンソンが教会の十二使徒定員会により教会の大管長として支持されました。」この過程は何ら新しいものではないとパッカー会長は説明しました。「この管理の規範は,主御自身が定められました。」16
2010年,パッカー会長は母校であるなつかしい小学校の敷地に建てられるユタ州ブリガムシティー神殿の鍬入れ式を行うために,故郷のブリガムシティーを訪れました。その2年後には,同神殿の奉献式を管理しました。
式の間中,パッカー会長は持ち前の謙遜さを示しました。「ブリガムシティーに神殿を建てるべきだと提案したのはわたしではありません。その案を提示したのは中央幹部の兄弟たちでした。わたしはそれに反対しなかっただけです。同じことが奉献式にも言えます。その責任を割り当てたのはわたしではありません。割り当てていただいたことをうれしく思います。感謝しています。」17
常に改善を目指して努力
生涯を通じて,パッカー会長は常に改善を目指して努力していました。パッカー会長は自身を含めた現代の十二使徒について,「ごく普通の人」であり,なぜこの神聖な職務に召されたのだろうかと不思議に思うことがあると述べています。「わたしには多くの点で,この召しを果たすに必要な条件が欠けています。努力しても至らない所が多々あるのです。召された理由を説明できる事柄,この召しを果たすに必要な条件はただ一つです。ペテロや,それ以来聖任されてきた全ての人々と同様,わたしには証があるということなのです。
神はわたしたちの御父であることを知っています。神は御子イエス・キリストをジョセフ・スミスに紹介されました。イエスはキリストであることをわたしは知っています。このことをわたしは皆さんに宣言します。主は生きておられ……贖いを行われたことを知っています。主について証します。」18
何年も前に,太平洋に浮かぶ小さな島で個人的な証を受けた後で,彼は何かお返しがしたいと思いました。イエス・キリストの弟子たる決意を形にして表したかったのです。
パッカー長老はこう振り返ります。「わたしと主の間にこの形を確立することが非常に大切になっていました。自らの選択の自由をいずれの方向に傾けたか主に知っていただきたかったのです。わたしは天の御父の前に出て言いました。『わたしはどっちつかずではありません。わたしを望み通りにしてください。わたしはいつでもあなたの役に立ちたいと思っています。わたしをどのようになさってもかまいません。わたしから何かを取り上げる必要もありません。すでにささげているからです。わたしは持てる全て―わたし自身をあなたにささげているからです。』」19
注
- ボイド・K・パッカーTeach Ye Diligently(1975年),18,19
- ルシール・C・テート,Boyd K. Packer: A Watchman on the Tower(1995年),62参照
- ドン・L・サール,“Elder Boyd K. Packer: Disciple of the Master Teacher,”Ensign,1986年6月,8参照
- ボイド・K・パッカー,ドン・L・サール,“Elder Boyd K. Packer,” 9で引用
- ボイド・K・パッカー,ドン・L・サール,“Elder Boyd K. Packer,” 10で引用
- テート,Boyd K. Packer,60参照
- ボイド・K・パッカー,ドン・L・サール,“Elder Boyd K. Packer,” 11で引用
- A・セオドア・タトル,ボイド・K・パッカー著Teach Ye Diligently,序文,viii–ix
- アラン・パッカーとのインタビュー,2015年5月1日
- アラン・パッカーとのインタビュー,2015年5月1日
- ボイド・K・パッカー,ジェイ・M・トッド,“Boyd K. Packer of the Council of the Twelve,”Improvement Era,1970年5月号,4,5
- ボイド・K・パッカー「20マルク紙幣」 『リアホナ』2009年6月号,20-22参照
- ジェームズ・E・ファウスト,サール,“Elder Boyd K. Packer,” 13で引用
- ラッセル・M・ネルソン, サール,“Elder Boyd K. Packer,” 13で引用
- ボイド・K・パッカー,ドン・L・サール,“Elder Boyd K. Packer,” 13で引用
- ボイド・K・パッカー「十二使徒」『リアホナ』2008年5月号,83
- ボイド・K・パッカー,ゲリー・アバント,“Rooted in Heritage of Brigham City’s Pioneers,”Church News,2012年9月2日付,3
- ボイド・K・パッカー「十二使徒」86,87
- ボイド・K・パッカー, テート,Boyd K. Packer, 62で引用