教会歴史
神のようになる


神のようになる

西洋の宗教においても東洋の宗教においても同様に見られる最も一般的なテーマの一つは,神は親としての役割を持ち,人間が神の子供であるということです。数十億の人々が親としての神に祈り,平和を促すためにすべての人々の兄弟愛について語り,神の子供たち一人一人には大きな価値があるという深い確信をもって,疲れたり問題を抱えたりしている人々に手を差し伸べています。

しかし,異なった宗派の人々はまったく違う方法で神と人間との親子関係を理解しています。ある人々は「神の子」という言葉は,神を信じ,父親の導きを受け入れるかのように神の導きを受け入れる人々のためにのみ取っておかれた名誉ある称号だと理解しています。多くの人々は,神と人類との関係が親子であるという説明を,神の被造物に対する神の愛を表す隠喩としてや,神からの支えや守りに対する依存関係として理解しています。

末日聖徒はすべての人々をまったく完全な意味で神の子供として考えています。すなわち,すべての人はその起源,特質,可能性を神から受け継いでいると考えています。人は皆,永遠の本質を持っており,「天の両親から愛されている霊の息子,娘です。」1人は皆,神となる可能性を持っており,その神性と一致した生活を送るか,それに反した生活を送るかを選ばなくてはなりません。イエス・キリストの贖罪を通して,すべての人々が「完成に向かって進歩して,最終的に……神聖な行く末を実現する」可能性があるのです。2ちょうど子供が時間をかけて両親から受け継いだ特質を伸ばすことができるように,人は天の御父のようになるために神から受け継いだ特質を伸ばすことができるのです。

神の子供たちが持つ神性を養いたいと神が望んでおられるのは,神の特質の一つであり,そのことに思いを馳せる時,教会の会員は,何よりも霊感を受け,動機付けられ,謙虚な気持ちになります。神との愛にあふれた親子関係や導きは,自発的で従順な神の子供一人一人が御父の完全と栄光を受ける助けとなります。このような知識は,末日聖徒が同胞である人間を理解する方法を変えます。男女を問わず神のような高みに上る可能性があるという教えは,現代のほとんどのキリスト教会が理解していることを明らかに超えていますし,聖書の教えに基づいた末日聖徒の憧れ,すなわち,神が生きておられるように生活し,神が愛されるように愛し,愛する天の御父がその子らに望むすべてのことに備えるという憧れを表しています。

人間の神のようになる可能性について聖書はどのように語っているでしょうか。

幾つかの聖書の聖句は人間が神のようになることができるということを示唆しています。人間が神の形にかたどられたことは創世記第1章の中で強調されています。「神はまた言われた,『われわれのかたちに,われわれにかたどって人を造〔ろう。〕』……神は自分のかたちに人を創造された。すなわち,神のかたちに創造し,男と女とに創造された。」3アダムとエバが「善悪を知る木」の実を取って食べてから,神は二人が「われわれのひとりのように……なった」とおっしゃり4,神に近づく過程がすでに進行中であることを示唆しています。旧約聖書の後半で,詩篇の一節は次のように宣言しています。「わたしは言う,『あなたがたは神だ,あなたがたは皆いと高き者の子だ。』」5

新約聖書の聖句もこの教義を教えています。イエスが「あなたは人間であるのに,自分を神としている」という神への冒涜を理由に非難されたとき,主は詩篇の次の言葉を用いて答えられました。「あなたがたの律法に,『わたしは言う,あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。」6山上の垂訓において,イエスは弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」と命じられました。7同様に,使徒ペテロは,わたしたちは「神の性質にあずかる者」となる可能性があるという救い主の「尊く,大いなる約束」に言及しました。8使徒パウロは,わたしたちは「神の子孫」であると教え,「わたしたちが神の子で〔あり,〕もし子であれば,相続人でもある。神の相続人であって,……キリストと共同の相続人なのである」ことを強調しました。9黙示録には「勝利を得る者には,わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど,わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」というイエス・キリストからの約束が含まれています。10

これらの聖句は様々な方法で解釈することができます。しかし,それらの聖句をジョセフ・スミスが受けた啓示という澄んだレンズを通して見ることにより,末日聖徒はこれらの聖句を人間の神から受け継いだ特質や神のようになる可能性を率直に表すものであると理解しています。ほかの多くのキリスト教徒は同じ聖句をはるかに比喩的に読み取っています。なぜなら,彼らは新約聖書に述べられた時代の後,時間の経過とともに発展した教義上の解釈というレンズを通して聖書を学ぶからです。

キリスト教の歴史上,どのように神性についての考えが移り変わってきたでしょうか。

末日聖徒の信条は,現代の多くのキリスト教徒よりも,最も初期の時代のキリスト教徒にとってなじみがあるように聞こえたことでしょう。多くの教会の創設者たち(初期のキリスト教社会において影響力のある神学者や教師)は,人は神になることができるという考えを肯定的に話しました。現代のある学者は,キリストの死後,最初の数世紀における「神格化の教義の普遍性」,すなわち,人間が神になることができるという教えについて言及しています。11およそ紀元202年に亡くなった教会の司祭であるエイレナイオスは,イエス・キリストが「主が主であられるようにわたしたちも主のようになる可能性をもたらすために,そのたぐいない愛を通して,われわれのように身を落とされた」と教えました。12アレクサンドリアのクレメント(およそ紀元150-215年)は「神の言葉は人となった。人がどのように神となることができるのかを人から学ぶことができるようにするためである」と書いています。13大バシレイオス(紀元330-379年)もこの概念,すなわち,「神のようになる」だけでなく「すべてのものの中で最も偉大な神になる」ということを価値あるものとして教えました。14

初期の教会の創設者たちが神になることについて話したとき,それがまさしく意味していたことはいろいろと解釈できます。15しかし,神格化に関する教えはローマ時代後期にさらに異議が唱えられるようになり,中世までにはほとんど使われなくなったことは明らかです。神格化についての教えに対する教会の神父による初めての異議は5世紀に起こりました。166世紀までには,「神になる」ことについての教えは,偽ディオニシウス・アレオパギタ(およそ紀元500年)(訳注-『ディオニシオス文書』(Corpus Areopagiticum)の著者とされている。この著者はアテネの官員「アレオパゴスのディオニシオス」と区別をつけるため,「偽」という名前をつけて呼ばれるようになった。)が行った定義に見られるように,もっと限られた範囲のものとなります。すなわち,「神格化とは……それが可能である程度まで神と似たものとなり,神と一体化することである。」17

なぜこれらの信条は目立たなくなっていったのでしょうか。世界の創造についての視点が変化したことが,人間の可能性に対する見方がさらに限定的な見方へと徐々に変わっていった一因となったのかもしれません。天地創造についての最も初期のユダヤ人やキリスト教徒の解説は,神がもともと存在している物質から世界を組織されたことを前提としており,このような生命を保つ秩序を形成するうえでの神の慈しみを強調しています。18しかし,2世紀における新しい哲学的な考えの導入は,神はエクス・ニヒロー,すなわち「無から」宇宙を創造されたという教義を発展させることとなりました。これは最終的にはキリスト教界における天地創造についての支配的な教えとなりました。19神の力を強調するため,多くの神学者たちは神が創造しないかぎり何も存在することはできなかっただろうと主張しました。神は初めに完全に御独りであったと主張することがキリスト教界において重要なこととなりました。

無からの創造は,神と人間との間に感じられた隔たりをさらに広げました。人間の魂は世界が創造される前から存在していた,あるいは,人間の魂は神の特質を受け継ぎ,将来にわたってそのすべてを成長させることができるという教えのいずれも,それほど一般的ではなくなりました。20人類の道徳的腐敗や創造主と被造物との間の計り知れない隔たりがますます強調されるとともに,キリスト教の3大派の一つである東方正教の中心的教義として残ったにもかかわらず,少しずつ,神格化という概念が西洋におけるキリスト教からは消えていきました。2122

どのようにして神格化についての考えが末日聖徒に導入されたのでしょうか。

無から創造されたことと,「体や器官や感情をお持ちでない」存在としての神という,ウェストミンスター信仰告白の神の定義の両方を,英語圏のプロテスタントのほとんどの人が受け入れていました。この英語圏のプロテスタントが多数派を占める社会で,最も初期の末日聖徒が生まれました。23彼らはイエス・キリストの教導の業の後の最初の数世紀におけるキリスト教の信条の多様性について,または,神格化に関する初期のキリスト教の文書について,恐らくほとんど,または何も知りませんでした。しかし,ジョセフスミスが受けた啓示は,当時一般に広まっていた概念や教えられていた教義とは異なっており,ある人々にとっては,神の特質,創造,人間についての議論を再開させるものでした。

初期のジョセフ・スミスに対する啓示は,人間が神の形に造られていることと,神がその子供たちを心の底から気にかけておられることを教えています。モルモン書の中で,ある預言者は「主の指を見た」ので,人間の肉体的な姿がほんとうに神の形に造られていたことを知り,驚きました。24ほかの初期の啓示では,エノク(聖書の中で「神とともに歩……んだ」人25)は神がその創造物のために泣かれたことを目の当たりにしました。エノクが「どうしてあなたは泣くことがおできになるのですか」と尋ねたとき,エノクは人間の苦しみに対する神の憐れみは主の愛に欠くことのできないものであることを学びました。26ジョセフ・スミスも,神がその子供たちに,神が御自身に受けられたのと同じように栄光を受けた存在となることを望んでいらっしゃることを学びました。神が宣言されたように,「見よ,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である」のです。27

1832年,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは来世についての示現を経験しました。示現の中で二人は,正しい者も正しくない者も等しく全人類の復活を通して不死不滅を受けますが,「信仰によって勝利を得,……約束の聖なる御霊により結び固められている」者だけが神の栄光のすべてを受け,「神々,すなわち神の子」となるということを学びました。28別の啓示によってすぐに次のことが確認されました。「聖徒たちは小羊の栄光をもって満たされ,彼らの受け継ぎを得,小羊と等しい者とされる」のです。29末日聖徒は昇栄という用語を,天の御父の子として完全な受け継ぎを受けるという輝かしい恩恵について説明するのに使います。それはキリストの贖罪を通して,福音の律法と儀式に従うことによって得られるものです。30

それぞれの人が持つ将来の可能性というこの特筆すべき見方には,啓示によって与えられた人間の過去についての教えが伴いました。ジョセフ・スミスは啓示を受け続けるうちに,それぞれの人間の心の中心を成す光や英知は「創造されることも,作られることもなく,実にそうすることのできないものである」ことを学びました。神はそれぞれの人の霊の父であり,「分離しないように結合した霊と元素〔のみが〕,満ちみちる喜びを受ける」ので,神は人が肉体を受け,地上での経験を通して満ちみちる喜びに向かって進歩するための計画を提示しました。その後の地上での誕生が,個人の生涯の始まりではありません-「人もまた初めに神とともにいた」のです。31同様に,ジョセフ・スミスは無からの創造という概念を完全に否定し,物質世界は永遠の根源を持っていると教えました「地,水,その他-これらすべては永遠から元素の状態で存在した」と1839年の説教でジョセフは述べています。32神は既存の要素から宇宙を組織されました。

ジョセフ・スミスはその生涯の最後の2年間,神から受け継いだ特質と昇栄というテーマの啓示を受け続けました。1843年7月に記録されている,永遠の結婚を伴う昇栄に関わる啓示の中で,主は永遠の結婚の聖約を含め,聖約を守る人々は「すべての高い所と深い所」を受け継ぐであろうと宣言しておられます。「それで,彼らは神々となる。彼らには終わりがないからである」と,この啓示は述べています。彼らは「とこしえにいつまでも子孫が……続く」のです。33

翌年の4月,「今ほど神との関係が近くなったことはない」と感じたので,34ジョセフ・スミスは教会の総大会のために集合した聖徒たちに神の特質と人類の将来について話しました。ジョセフは大会の中で,1か月前に思いがけなく亡くなったキング・フォレットという名の教会員の死について思いをはせました。ジョセフが話すために立ち上がったとき,風が吹いていました。そこでジョセフは聴衆に,自分の話に「心からの注意」を払い,メッセージを伝え終えるまで風が静まり,「主がわたしの肺を強めてくださるように祈る」よう求めました。35

「神はどのような御方なのですか。」とジョセフは尋ねました。人間は知る必要がある,とジョセフは主張しました。なぜなら「神の性質を理解しなければ,人は自分自身を理解することができ」ないからです。36その言葉で,預言者は何世紀にもわたった混乱により神と人類との間に作られた隔たりを取り除きました。人間の特質とは根本的に神なのです。神「はかつてわたしたちのようでした」し,「神がかつて世に送られたすべての霊」は神と同じように「成長することができます。」ジョセフ・スミスは次のように教えました。すなわち,世界が形作られるずっと前から,神は「御自身が」これらの存在の「中にいることを」ご覧になり,「ほかの者たちも御自分のように進歩する特権にあずかるように律法を定めることがふさわしいとお考えになったのです。」37神とともに「昇栄」できるようにするためです。38

ジョセフは集まった聖徒たちに言いました。「あなたはどのようにして自ら神……となるかを学ばなければなりません。」39そのためには,聖徒たちは神を敬うことを学ぶか,あるいはさらに神のようになる必要があります。その過程は継続し続けるものであり,忍耐,信仰,継続的な悔い改め,福音の戒めに対する従順,そしてキリストへの信頼を必要とするでしょう。はしごを登るように,一人一人が「福音の第一の原則」を学び,時が来たときに「福音の最後の原則を学ぶ」ことができるまで,この世の知識の限界を超えて継続する必要があります。40「すべてがこの世で理解されるのではありません」とジョセフは言いました。41「すべてを理解するためには,死後,長い時間がかかるでしょう。」42

それが,預言者が総大会で語った最後の時になりました。3か月後に,暴徒がカーセージの監獄を襲撃し,ジョセフとその兄ハイラムが殉教したのです。

ジョセフ・スミス以降,神から受け継いだ特質について,教会ではどのようなことが教えられてきたでしょうか。

キング・フォレット説教として知られるその説教以来,教会の中では,人間は昇栄に向かって進歩し神になることができるという教義が教えられてきました。教会の第5代大管長であるロレンゾ・スノーは,よく知られている対句を作りました-「人が現在あるがごとくに神もかつてあり,神が現在あられるごとくに人もなり得るのである。」43この対句の前半部分についてはほとんど明らかにされておらず,結果的にほとんど教えられていません。このテーマについて尋ねられたとき,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は1997年に記者に対して次のように語りました。「そのテーマはわたしたちがあまり多くは知らない,ある非常に深遠な神学に関連しています。」人間の神のようになる可能性を信じる信条について尋ねられたとき,ヒンクレー大管長は次のように答えました。「そうですね,人は神のようになることができます。わたしたちは永遠の進歩を信じています。とても強く。」44

教会の指導者であり詩人であるエライザ・R・スノーは,完全かつ絶対的な意味で,わたしたちが神の子であるという教義を喜びました。「御父と呼ぶべく みたまにならう」とスノー姉妹は書きました。「知の鍵受くまで 理を知らざりし」末日聖徒はまた,神との親子関係には天の父だけでなく天の母が含まれているという知識によって心を動かされてきました。その真理を述べるに当たり,エライザ・R・スノーはこう尋ねました。「み親はひとりか」そしてはっきりと答え,こう続けています。「永遠の真理は告ぐ 天に母ありと」45その知識は末日聖徒の信条に重要な役割を果たしています。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は次のように書いています。「わたしたちの神学はまず天の両親から始まります。わたしたちの最大の望みは天の両親のようになることです。」46

人類の神から受け継いだ特質と昇栄への可能性は総大会の説教,教会機関誌,その他の教会の資料の中で繰り返し教えられてきました。「神から受け継いだ特質」は,教会の若い女性のプログラムにおける8つの基本的価値観の一つです。人類の神との親子関係,神から受け継いだ特質,神になるという可能性についての教えは「家族-世界への宣言」の中で際立たせて取り上げられています。神から受け継いだ特質と昇栄は,教会においてきわめて重要で愛されている教えです。

昇栄についての信条は末日聖徒を多神教者とするでしょうか。

人によっては,人間が神となるために努力すべきだという教義は,いろいろな神が出て来る古代パンテオンのイメージを思い浮かべるかもしれません。そのような考えは末日聖徒の教義とは相容れません。末日聖徒は神の子供たちがいつでも神を礼拝することを信じています。わたしたちの進歩成長が,わたしたちの父や神としての神の存在を変えることは決してありません。確かに,わたしたちの栄光に満ちた神との永遠に続く関係は,神がわたしたちに望んでおられる「満ちみちる喜び」の一部となるでしょう。

末日聖徒はさらに神が根本的に一致しておられることを強く信じています。父なる神と,御子イエス・キリスト,そして聖霊が別個の存在でありながら,目的と教義において一致していることを信じているのです。47末日聖徒はこのような観点から,次の弟子たちのためのイエスの祈りを古くから理解しているのです-「父よ,それは,あなたがわたしのうちにおられ,わたしがあなたのうちにいるように,みんなの者が一つとなるためであります。すなわち,彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり……ます。」48

人間は神の慈しみと調和せずに生活するなら,神の栄光にまで成長することはできません。ジョセフ・スミスは次のように教えました。「天の力は義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできない〔。〕」人間が神の無私の目的や標準を放棄する場合,「天は退き去り,主の御霊は深く悲しむ」のです。49高慢は進歩成長と相容れませんし,不一致は昇栄したものの中にはあり得ません。

末日聖徒は昇栄に関して何を信じているのですか。

実在するということについての人間の概念は死すべき世の中では必然的に限界があるため,宗教は永遠の栄光という展望を十分明確に伝えることに苦闘します。使徒パウロが書いているように,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。50この限界が,救いのイメージを大衆文化の中で表現する際に,簡単に漫画のように見せてしまっています。例えば,救いについての深い安らぎと圧倒的な喜びを表す聖文の表現は,多くの場合人間が死後,雲の上に座ってハープを演奏するというよく知られているイメージで描かれます。同様に,末日聖徒の昇栄についての教義は,度々メディアによって自分の惑星を受け取る人々という漫画のようなイメージに矮小化されてしまっています。

雲やハープは永遠の喜びのイメージとしてはほとんど満足できるものではありません。とは言え,霊感あふれる音楽が永遠の救いの喜びの小さな実例となり得ることは,ほとんどのクリスチャンが同意してくれることでしょう。同様に,自分の惑星を受け取るという風刺的描写に賛成する末日聖徒がほとんどいない一方で,ほとんどの人が神の創造の業を見て呼び起こされる畏敬の念は,永遠にわたって創造するというわたしたちの可能性を示唆していることに同意することでしょう。

末日聖徒は現世での生活においては神聖なものの視点から昇栄を想像する傾向があります。末日聖徒は子供を産み育てることの喜びとその子供たちに対して抱く強い愛情の中に,周りの人々に心優しい奉仕の手を差し伸べたくなる衝動の中に,宇宙の美しさと秩序に驚嘆する瞬間の中に,そして,神聖な誓約を交わしそれを守ることで感じるしっかりと地についた感覚の中に,神となることへの可能性を見ています。教会員は将来得るものをイメージするよりも,現在持っている関係や,その関係がどのように清められ向上させられるかという観点から昇栄について想像します。聖典が教えているように,「ここでわたしたちの間にある交わりが,そこでもわたしたちの間にある。ただし,その交わりには,わたしたちが今享受していない永遠の栄光が伴う」のです。51

昇栄についての教えは末日聖徒の信条全体にとってどれほど大切ですか。

人間が神から受け継いだ特質を持ち,神となり得る将来があるという教えは,末日聖徒が根本的な教義を理解する方法を形作ります。恐らく最も重要なのは,神から受け継いだ特質を信じる信仰はイエス・キリストの贖罪に対してさらに深く感謝する助けとなることです。多くのキリスト教神学者が人間の堕落を強調することによって救い主の贖罪の重要性を表している一方で,末日聖徒は贖罪によって可能となる人間の壮大な可能性という観点からキリストの贖罪の重要性を理解しています。キリストの贖いは罪からの赦しと死に打ち勝つことを与えるだけでなく,不完全な関係を修復し,成長を阻害する霊的な傷を癒し,個人を強め,キリストの特質を伸ばせるようにもするのです。52末日聖徒は永遠の栄光への確かな希望を得ることができるのはイエス・キリストの贖罪を通してのみだということ,また,主の贖いの力はイエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,バプテスマ,聖霊の賜物を受け,キリストの模範と教えに従い最後まで堪え忍ぶことによってのみ完全に効力を発揮することを信じています。53それゆえ,神のようになり,神の完全な栄光に入る人々は,「自らの血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた,新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされた」人々であると述べられています。54

人間の神のようになる可能性に対する自覚も,例えば,神から授かった戒めの重要性や,神殿の役割,個人の道徳的な選択の自由の神聖さなど,末日聖徒の福音の原則についての理解に影響を与えます。人間は実際に神の子供であるという信仰も末日聖徒の行動と態度を変化させます。例えば,不特定多数との,また婚前における性行為が許容される社会にあってさえ,末日聖徒は人間の性的な親密さにおける神から授かった生殖の力と絆の力に深い畏敬の念を保ち,これらの神聖な力の使用において高い標準を固く守り続けています。研究によると,天の父母への強い確信と神になるために努力するという決意の部分的な結果として,末日聖徒は結婚や親子関係に非常に高い優先順位を置いていることが示唆されています。55

結論

すべての人は愛にあふれた天の父母の子供であり,自らの中に神となる可能性を持っています。神の無限の愛により,神はその子供たちが主イエス・キリストの贖罪を通して,神の恵みにより,自らが持つ永遠の可能性をはぐくむよう勧めておられます。56天の御父のようになるという人間の永遠の可能性の教義はイエス・キリストの福音の中心であり,忠実な末日聖徒の心の中に愛と希望と感謝の気持ちを呼び起こすものです。

  1. 「家族-世界への宣言」『リアホナ』2010年11月号,129

  2. 『家族-世界への宣言』

  3. 創世1:26-27

  4. 創世2:17;3:22

  5. 詩篇82:6

  6. ヨハネ10:33-34

  7. マタイ5:48マタイ5:48の「完全」という言葉は「すべて」または「完成する」という言葉にも翻訳が可能である。これは,はるかな目的と継続的な努力という意味を含んでいる(ラッセル・M・ネルソン「完成への道」『聖徒の道』1996年1月号,96参照)。

  8. 2ペテロ1:3

  9. 使徒17:29;ローマ8:16-17

  10. 黙示3:21

  11. ノーマン・ラッセル,The Doctrine of Deification in the Greek Patristic Tradition(2004年),6

  12. エイレナイオス,“Against Heresies”アレクサンダー・ロバーツおよびジェームズ・ドナルドソン編,The Ante-Nicene Fathers: Translations of the Writings of the Father Down to A.D. 3251977年),1:526

  13. クレメント,“Exhortation to the Heathen”ロバーツとドナルドソン,Ante-Nicene Fathers,2:174

  14. 聖大バシレイオス,“On the Spirit”フィリップ・シャフとヘンリー・ワース編,A Select Library of Nicene and Post-Nicene Fathers of the Christian Church,第2シリーズ(1994年),8:16

  15. 教会の創設者たちの考えと末日聖徒の教えとの間には類似点と同様に恐らく重要な違いもある。末日聖徒によって理解されている昇栄と,現代の東方正教会が理解している神格化についての,教会の創設者による声明との類似点と相違点の考察については,ジョーダン・バジャ,“Partakers of the Divine Nature: A Comparative Analysis of Patristic and Mormon Doctrines of Divinization,” Occasional Papers Series,第3巻(2002年)を参照。maxwellinstitute.byu.eduで入手可能。

  16. ウラジーミル・ハルラモフ,“Rhetorical Application of Theosis in Greek Patristic Theology”マイケル・J・クリステンセンとジェフリー・A・ウィッタング編,Partakers of the Divine Nature: The History and Development of Deification in the Christian Traditions(2008年),115参照。

  17. ラッセル,Doctrine of Deification,1で引用;強調付加

  18. 2世紀の教会の創設者であるジャスティン・マーターは次のように語った。「神は初めに,神の慈しみにより,人のために,まだ組織されていない物質からすべてを創造されたとわたしたちは教えられてきた。」(The First Apology of Justin,ロバーツとドナルドソン,Ante-Nicene Fathers,1:165;フランシス・ヤング,“‘Creatio Ex Nihilo’: A Context for the Emergence of the Christian Doctrine of Creation,” Scottish Journal of Theology44,第1巻〔1991年〕:139-151も参照;マーカス・ボックミュール,“Creation Ex Nihilo in Palestinian Judaism and Early Christianity,” Scottish Journal of Theology66,第3巻〔2012年〕:253-270)

  19. 無からの創造という概念を生んだ2世紀の背景に関する情報については,ゲルハルト・メイ,Creatio Ex Nihilo: The Doctrine of ‘Creation out of Nothing’ in Early Christian Thought(2004年)を参照

  20. テリル・L・ギブンズ,When Souls Had Wings: Pre-Mortal Existence in Western Thought(2010年)を参照

  21. 西洋のキリスト教内での神格化という教義への小規模な復興は,ケンブリッジプラトン学派と呼ばれる17世紀のイギリスの聖職者・学者のグループ内で発生した。(ベンジャミン・ウィチカット,“The Manifestation of Christ and the Deification of Man” CA・パトリディーズ編,The Cambridge Platonists〔1980年〕,70)

  22. “The Place of Theosis in Orthodox Theology”の中で,アンドリュー・ラウスは東方正教を「創造から神格化へ導く,より大きな範囲」に注目しているものだと説明し,また,カトリックとプロテスタントの神学は全体を見ずに「堕落から贖いまでの,より小さな範囲」を部分的に注目してきたように感じると述べた(クリステンセンとウィッタング,Partakers of the Divine Nature,35)。

  23. Westminster Confession of Faith,2章(1646年)ウェストミンスター信仰告白は英国国教会の教義,礼拝,統治の基準となるものとして1646年のウェストミンスター議会によって策定された。その内容は,それが書かれたとき以来,多数のプロテスタント教会の礼拝の指針となってきた。

  24. エテル3:6教義と聖約130:22モーセ6:8-9も参照。神の具現化についてのジョセフ・スミスの教えに関しては,デビッド・L・ポールセン,“The Doctrine of Divine Embodiment: Restoration, Judeo-Christian, and Philosophical Perspectives,” BYU Studies35,第4巻(1995-1996年):13-39を参照。byustudies.byu.eduで入手可能。

  25. 創世5:22

  26. モーセ7:31-37参照。このイメージの深遠な意味については,テリル・ギブンズとフィオナ・ギブンズ,The God Who Weeps: How Mormonism Makes Sense of Life(2012年)を参照

  27. モーセ1:39

  28. 教義と聖約76:53,58

  29. 教義と聖約88:107

  30. ダリン・H・オークス「ほかに何ものをも神としてはならない」『リアホナ』2013年11月号;ラッセル・M・ネルソン。「救いと昇栄」『リアホナ』2008年5月号参照;信仰箇条1:3も参照

  31. 教義と聖約93:29,33

  32. ジョセフ・スミスの所感が語られたのは1839年8月8日以前である。アンドリュー・F・エハットとリンドン・W・クック編,The Words of Joseph Smith: The Contemporary Accounts of the Nauvoo Discourses of the Prophet Joseph(1980年),9;josephsmithpapers.orgでも入手可能。

  33. 教義と聖約132:19-20

  34. ウィルフォード・ウッドラフの日記,1844年4月6日,教会歴史図書館,ソルトレーク・シティー

  35. 講話,1844年4月7日,ウィリアム・クレイトンによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。キング・フォレット講話は,神から受け継いだ特質と昇栄について知られているジョセフ・スミスの最も詳しい考察を説明するものではあるものの,説教が行われた当日には風が吹いていたことと,説教を書き写す技術に限界があったため,説教中のジョセフ・スミスの正確または完全な言葉遣いが記録されたという確信を持てない状態にあることに注意するのは重要である。4人の目撃者の部分的な報告や初期に出版された記事は,不完全ながら,ジョセフ・スミスがその説教の際に教えたことの記録をわたしたちに与えており,また,ジョセフが教えたことは聖文の多くの聖句の意味について洞察を与えている。しかし,残存する説教の文章は聖典には含められず,それ自体,教義的な標準として扱うべきではない。ウィラード・リチャーズ,ウィリアム・クレイトン,トーマス・ブロック,ウィルフォード・ウッドラフの報告については,1844年8月15日号のTimes and Seasons,およびJoseph Smith Papersウェブサイトの“Accounts of the ‘King Follett Sermon’”参照。

  36. 講話,1844年4月7日,ウィラード・リチャーズによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能,つづりは現代の用法に修正。

  37. 講話,1844年4月7日,ウィリアム・クレイトンによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。

  38. 講話,1844年4月7日,ウィルフォード・ウッドラフによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能,つづりは現代の用法に修正。

  39. 講話,1844年4月7日,ウィリアム・クレイトンによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。

  40. 講話,1844年4月7日,トーマス・ブロックによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。

  41. 講話,1844年4月7日,ウィリアム・クレイトンによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。

  42. 講話,1844年4月7日,ウィルフォード・ウッドラフによる報告,josephsmithpapers.orgで入手可能。

  43. エライザ・R・スノー,Biography and Family Record of Lorenzo Snow(1884年),46。聖典に含められたことがないこの対句は,少しずつ違う様式で作られている。ほかの様式のものについては,The Teachings of Lorenzo Snow,クライド・J・ウィリアムズ編(1996年),1-9参照

  44. ドン・ラッティン,“Musings of the Main Mormon,” San Francisco Chronicle,1997年4月13日;デビッド・バン・ビーマ,“Kingdom Come,” Time,1997年8月4日号,56

  45. 初めは詩として出版されたが,後に有名な賛美歌となった。(エライザ・R・スノー,“My Father in Heaven,” Times and Seasons,1845年11月15日号,1039;「高きに栄えて」『賛美歌』180番;ジル・マルベイ・ダー,“The Significance of ‘O My Father’ in the Personal Journey of Eliza R. Snow,” BYU Studies36,第1巻〔1996-1997年〕:84-126も参照,byustudies.byu.eduで入手可能。)末日聖徒が考える天の母については,デビッド・L・ポールセンとマーティン・プリード,“‘A Mother There’: A Survey of Historical Teachings about Mother in Heaven,” BYU Studies50,第1巻(2011年):70-97参照,byustudies.byu.eduで入手可能。

  46. ダリン・H・オークス「背教と回復」『聖徒の道』1995年7月号,90

  47. 教義と聖約130:22参照

  48. ヨハネ17:21

  49. 教義と聖約121:36-37

  50. 1コリント2:9

  51. 教義と聖約130:2

  52. アルマ7:11-12参照

  53. 2ニーファイ31:20信仰箇条1:4参照

  54. 教義と聖約76:69

  55. “Mormons in America—Certain in Their Beliefs, Uncertain of Their Place in Society,” Pew Research, Religion and Public Life Project,2012年1月12日,pewforum.orgで入手可能。

  56. モロナイ10:32-33;『聖句ガイド』「恵み」の項