年次放送
喜びに満たされる


喜びに満たされる

宗教教育セミナリー・インスティテュート年次訓練放送

2年前,教会教育委員長であるキム・B ・クラーク長老が,第3ニーファイから,火に包まれた天使と子供たちについて教えてくれました。宗教教育者として,わたしたちもその聖なる火に包まれるべきであると教えてくれたのです。1皆さん御存じのように,モルモン書には天からの火に包まれた人たちについての記録がもう一つあります。リーハイとニーファイは牢屋に投げ込まれました。記録にはこう記されています。

「彼らは……まるで燃える火の中にいるかのようであった……。

神の聖なる御霊が天から降って,……彼らはあたかも火で満たされたかのようにな〔った〕。」2

さらにこう記されています。「また彼らは,言いようのない,栄光に満ちた喜びに満たされた。」3

わたしが今日お伝えしたいのは,宗教教育者として,わたしたちは火に包まれるだけでなく,喜びに満たされなければならない,ということです。教室で生徒は「幸福の計画」について学ぶべきです。しかし,それに加えて,わたしたちの中にこの計画が機能しているという証拠,すなわち福音に従った生活が喜びをもたらすものであるという証拠を目にするべきでもあるということです。命の木の夢の中で,リーハイは家族に手招きし,来て「人を幸せにする好ましい」4実を食べるように言いました。リーハイの招きには力と真正さがありました。経験に基づいて語ったからです。自らその喜びを味わい,感じた経験があったからです。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう語っています。「この御業の中で幸福になるということはとても大切です。この教会には暗い顔をした人が大勢います。この福音が喜びの福音であることを理解していないからではないかと思います。」5わたしたちもヒンクレー大管長が語った幸福な生活を送ることができます。そのためには御霊を受けて生活し,聖文に記されているように,「幸福に」6暮らす必要があります。

わたしが宗教教育者として「幸福に」暮らすのに役立った原則を,皆さんが検討できるように,幾つか紹介したいと思います。奥深い,あるいは目新しい考えではありませんが,もっと喜びをもって暮らし,教えるうえでだれかの役に立てばと思います。宗教教育を本業として働く人だけでなく,ある期間,セミナリー・インスティテュートで「召された」宗教教育者として奉仕する人のためにも話します。

何年も前のこと,わたしはスペンサー・W・キンボール大管長の語った言葉を耳にし,思い悩みました。次のような言葉でした。「今日という日に,しっかりと幸福になりましょう。今日,幸福でなければ,いつまでたっても決して幸福になれないからです。」7

そんなはずはない,と思いました。悔い改めはどうなるのだろう,今日幸福でなければ,その状況を変えるために何もできないということだろうか,と考えたのです。このことについて深く考えました。キンボール大管長は次のように言いたかったのだと思います:今日幸福でなくて,状況が変わりさえすれば幸福になれると思っているとしたら,決して幸福になれないだろう。なぜなら幸福は自分が置かれた環境に左右されるものではないからである。ある作家はこのことを次のように表現しています。

「わたしたちは,ほかの状況,例えば,休暇中,別のパートナー,異なる職業,家庭,そして環境だったら,何とかしてもっと幸福な,もっと満ち足りた生活が送れるのにと思い込む傾向があります。しかし,そうではないのです!

実際には,現実否定的な思考習慣がある場合……あるいは,現実とは違う状況をいつも望んでいるような場合,こうした傾向はどこまでもつきまとってくるのです。8

レーマンとレムエルの場合も,幸福は環境,特に,自分たちが快適でいられる環境と関係があると思い込んでいました。荒れ野を旅したときのことについて,二人はこう言っています。

「〔我々の妻〕は荒れ野で子を産み,ただ死ななかっただけであらゆる苦しみに遭った。妻たちは,このような苦難に遭うくらいなら,エルサレムを出る前に死んだ方がましだった。

見よ,我々は,長年の間荒れ野で苦しんできたが,その間に自分たちの財産や受け継ぎの地を欲しいままにして,幸せに暮らせたかもしれない。」9

幸福は,自分が住んでいる場所,受けている割り当て,一緒に働く相手,受け持つ生徒,あずかったことのない機会とは関係がないということをわたしは学びました。だからと言って「ふさわしい態度で臨む」ならば,問題はすべて解決し,人生はばら色になると言っているわけではありません。わたしたちが置かれる状況の中には,胸を締めつけられるような,またほとんど耐えられないようなものもよくあります。しかし,わたしは証します。そのような状況に置かれたとしても人生に喜びをもたらす天与の心の持ち方や物の見方があるのです。

アルマ書の一節にこうあります。「アンモンと彼の同僚たちがニーファイの地を旅したことと,その地で受けた苦しみ悲嘆苦難計り知れない喜び,……についての話は,以上のとおりである。」10悲嘆と喜びは互いに相いれないものではありません。教師として召されていますが,ほかの召しであったらよかったのにと思っている人がいるかもしれません。教師として雇用されていますが,ほかの割り当てであったらよかったのにと思っている人がいるかもしれません。そう思うのはかまいませんが,忘れないでください。幸福はあなたの願いが現実となることとは関係ないのです。幸福とは,旅の過ごし方であって,目的地ではないのです。幸福とは目的地だと考えながら人生を送るとしたら,決して幸福にはなれないでしょう。

どのような境遇に置かれても幸福を見いだすにはどうすればいいでしょうか。答えをすべて知っているわけではありませんが,大切な答えを一つ紹介します:感謝は,「幸福に」暮らすことと大いに関係があります。ディーター・F・ウークトドルフ管長はこのように教えています。

「つまり,物事 に対して感謝するよりも,どのような状況にあろうと,自分の置かれた状況 にあって 感謝することに意識を向けるということです。……

このような感謝の精神は,周りで起こっているあらゆることを超越します。……氷で覆われた冬の風景の中でも,夏の気持ち良い暖かな季節と同じように美しい花を咲かせます。……

自分の置かれた状況 にあって感謝するとは,神への信仰を行いに表すことです。……

真の感謝は,希望証の表れです。」11

もっと喜びをもって暮らし,教えるうえで,わたしにとって役に立った原則をもう一つ紹介しましょう。仕事を始めて数年たったころ,わたしはセミナリー・インスティテュートをやめる決心をしました。そう決心するに至ったのは,自分がほかの教師のように優れた教師ではないと思ったからです。魅力的で,知識が豊富で,ユーモアがあり,自信に満ちた教師がたくさんいました。わたしは自分の中にそのような特質を見いだすことがほとんどできなかったのです。結果的に,わたしはセミナリー・インスティテュートをやめませんでしたが,心の葛藤は続き,自分の個性で,青少年を効果的に教え,助けることができるかどうか疑問に思いました。

わたしたちの独特な個性について,ジェフリー・R ・ホランド長老の妻であるパトリシア・ホランド姉妹はこう語っています。

「天の御父は,ありのままの,成長の途上にあるわたしたちを必要としておられます。天の御父は意図的にわたしたちを互いに異なる者とされました。たとえ不完全なところはあっても,御父の目的を果たすことができるようにするためです。ほかの人たちがしていること,あるいはほかの人たちから期待されていると自分が思うことに自分を合わせなければならないと感じるときほど惨めなことはありません。逆に,気兼ねすることなく本来の自分でいられるとき,また天の御父とわたし自身がわたしに期待することをしようと努力しているときほど幸福なことはありません。

何年もの間,わたしは,たくましく,快活で,話し好き,そしてエネルギッシュなジェフ・ホランドタイプの人たちと,いつも静かな,内省的で思慮深いパット・ホランドを比較するのに必死でした。幾つかの失敗で疲れ果てた結果,快活でない人が快活にしても喜びは得られないということを学びました。それはまったく相反することなのです。わたしは自分を欠陥のある人間と思うのをやめました。……そうすることでわたしは解放され,自分のやり方や個性を受け入れ,喜ぶことができるようになりました。……

主はどこかで,どうにかして,わたしの個性は主から授かった使命と才能にぴったりと合うよう創造されたという『メッセージをわたしが理解できるよう助けてくださいました。』……わたしは本来の自分でいるためのエネルギーの源が数えきれないほどあることに気づきました。しかし,模倣することに躍起となっているときは,落胆と疲労を感じ,流れに逆らって泳ぎ続けるような苦悩を経験しました。神がわたしたちのために備えられた計画に逆らうとき,わたしたちはこの世界と神の王国から,自分にしかできない貢献の機会を奪い取ることになるのです。」12

本来の自分でいるために,二つのことについて注意します。第1に,「わたしはそういう人間なのです」といった態度で生活することを提案しているわけではありません。ラッセル・M・ネルソン会長はこう言っています。「イエス・キリストの福音はまさに変化を可能にする福音なのです。」13わたしは熱心に,自分が変わるための方法,また目標達成のために自分の個性と努力をより効果的に連携させるための方法について指導者に意見を求めるべきです。さらに大切なことは,わたしは主に似た者となるようキリスト御自身から命じられているということです。わたしは廊下の向こうにいるほかの教師のようになる必要はありません。わたしの個性が,御霊の賜物によって強められるとき,わたしはセミナリー・インスティテュートの業に,他に類のない貢献ができます。

二つ目の注意です。新しい割り当てを受けるために初めて中央本部を訪れたとき,当時の教育長であったポール・V・ジョンソン長老から彼のオフィスに招かれ,幾つかの指示と助言をもらいました。特に印象に残っているのは,「自分に制限を設けないように」という言葉です。わたしはその意味が分かりました。主が御業を成し遂げるためにわたしを最も効果的に用いられる方法があるのに,わたしが主に代わって制限を設けると,わたしの成長と奉仕の機会に制限を設けることになるかもしれないということです。

残念ながら,わたしは警告されたまさにそのことに陥ることになりました。教育長から任された管理の責任を全力を尽くして果たそうと努めましたが,心の中でこうつぶやいてしまったのです。「わたしは管理者ではない。わたしは教師だ。わたしのいるべき場所は教室であって,会議室ではない。」それから長く苦痛に満ちたプロセスの末,わたしはやっと理解しました。教えることに対するわたしの見せかけの望みは,個人的な必要を満たしたいという望みを隠す覆いにすぎなかったのです。生徒や聖文のために時間を費やすことは,とてもやりがいがあります。会議に出席し,様々な方針について話し合うことに一日を費やしても,そのようなやりがいを感じることはあまりありません。しかし,それは重要なことではないのです。わたしはこの業に,個人的なやりがいや満足感のために携わっているのでしょうか。それとも神の栄光と目的にひたすら目を向けて携わっているのでしょうか。

わたしは皆さんが,かつてのわたしよりも賢明で,自分自身にも,また自分が神に用いられる方法にも制限を設けないようにと望んでいます。救い主が繰り返し教え,実践されたように,御父の御心に従うことによってもたらされる特別な幸福があります。

この従うということに関連して,わたしは宗教教育者として「幸福に暮ら〔す〕」のに役立つもう一つの提案を紹介します。わたしたちのほとんどは天の御父の御心に従いたいと心から望んでいるはずです。従うということは,ワードであれ,ステークであれ,セミナリー・インスティテュートであれ,主の業を導くために主がお使いになる人に従うよう求められるときに,より大きなチャレンジとなります。これまで働いてきた中で,指導者の行動あるいは納得のできない方針が原因で気分を害した非常に有能な教師たちを知っています。不当な行為が実際に起こったのであれ,そう思ったのであれ,これらの教師は,自分の幸福と引き換えに,自分の傷をかばい,広げたのです。彼らの傷は苦々しい思いへと変わり,ほかの人々,特に,管理する立場にいる人々との争いへと発展しました。

ニール・A・マックスウェル長老はこう記しています。「教会における生活〔さらに加えるならばセミナリー・インスティテュートにおける生活〕とは,様々な指導者との遭遇を意味します。必ずしも賢明で,成熟していて,器用とは限らない指導者です。はっきり言って,老朽化したドアノブのように,滑らかでない指導者もいます。しかし,互いに磨き合うことで,結果的に,つやが出ることもあります。そのような状況で紛れもなく重要なのは,忍耐と,潤滑油としての愛です。」14

宗教教育者にとって「忍耐と,潤滑油としての愛」がどれほど大切か,いくら強調してもしすぎることはありません。この二つの特質は,幸福を見いだし,御霊によって教えるうえで不可欠なのです。

ボイド・K・パッカー会長はこう述べています。「大管長や中央幹部は支持するが,自分のワードのビショップは支持できないと言う人は思い違いをしています。自分の所属しているワードのビショップやステーク会長を支持しない人は,結局は大管長を支持していないことになるのです。」15

時間の関係でこれ以上は話せませんが,この言葉には宗教教育者,ならびに彼らの指導者との関係に当てはまる原則があると思います。皆さんの中で,管理者に対して,また特定の指導者あるいは方針に対して悪感情を抱いている人,もしくはそのような指導者から関心を示してもらえなかったり,過度の関心を示されたりしたことで気分を害している人がいたら,どうかそのような感情は自分自身の幸福のために捨ててください。赦さない人,周囲の人々に不平不満を言いふらす人,あるいは争いを助長する人は,決して幸福を得ることができません。

では,最後の提案です。亡くなるほんの数時間前に,救い主は使徒たちの足を洗い,こう言われました。

「しかし,主であり,また教師であるわたしが,あなたがたの足を洗ったからには,あなたがたもまた,互に足を洗い合うべきである。……

もしこれらのことがわかっていて,それを行うなら,あなたがたはさいわいである。」16

人生で経験できる幸福は,そのほとんどが,我を忘れ,自らの思いと奉仕を周囲の人々に向けるときにもたらされます。宗教教育者であるわたしたちも,自らの思い,望み,そして努力を,生徒に祝福を授けることに向けるときに,大きな幸せを見いだすことができます。宗教教育者に向けた説教で,スペンサー・W ・キンボール大管長はかつて,わたしたちは若人の成長と発展に対して「壮大で崇高な思い入れ」を持たなければならない,と言ったことがあります。17もし万一,わたしたちの焦点が,生徒ではなく,わたしたち自身の必要,都合,充足,あるいは名誉に向けられるとしたら,わたしたち自身の幸福の多くが損失を被ることは言うまでもなく,効果的に教えるわたしたちの力も重大な損失を被ることでしょう。

20世紀のプロテスタント牧師,ハリー・エマソン・フォスディックはかつてこう記しました。「クリスチャンの中には,宗教という荷物を背負っている人がいます。その中には彼らが負わなければならない信仰や実践が入っています。時々,それが重くなると,自分の意思でその荷を降ろしますが,それは古い習慣を一休みするというだけの意味であり,やがて再び担ぐのです。しかし,真のクリスチャンは,宗教を担ぐのではなく,宗教が彼らを担ぐのです。それは重荷ではなく,むしろ羽であり,彼らを高く引き上げ,彼らが試練や問題を乗り越えられるように助け,周囲の人々を友好的に思わせ,人生を目的のあるものにし,希望を現実のものとし,犠牲を価値あるものにしてくれます。恐れや虚無感,失望,そして人の魂を情け容赦なく虜にする罪から解放してくれるのです。元気で明るい人であるかどうかで,その人が真のクリスチャンかどうかが分かります。」18

皆さん一人一人のために祈ります。福音は紛れもなく羽であり,重荷ではありません。皆さんは火に包まれ,喜びに満たされます。皆さんが幸福でいることによって,周りの人はその幸福の源,すなわち主イエス・キリストを求め,この御方に従いたいと思うようになります。わたしは証します。かつてこの地上を歩いた人の中で,主ほど幸福だった御方はおられません。主は,御自分に従い「幸福に」生きるよう,わたしたちを招いておられるのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. キム・B・クラーク, “Encircled About with Fire”(宗教教育セミナリー・インスティテュート衛星放送,2015年8月4日),lds.org

  2. ヒラマン5:44-45

  3. ヒラマン5:44

  4. 1ニーファイ8:10

  5. Gordon B. Hinckley, Teachings of Gordon B. Hinckley (1997), 256

  6. 2ニーファイ5:27

  7. Spencer W. Kimball, The Teachings of Spencer W. Kimball, ed. Edward L.Kimball (1982), 173

  8. Richard Carlson, Don’t Sweat the Small Stuff … and It’s All Small Stuff (1997), 133

  9. 1ニーファイ17:20-21

  10. アルマ28:8;強調付加

  11. ディーター・F・ウークトドルフ「どんな状況にあっても感謝する『リアホナ』2014年5月号,75-76

  12. Patricia T. Holland, “Portraits of Eve: God’s Promises of Personal Identity,” in LDS Women’s Treasury: Insights and Inspirations for Today’s Woman (1997), 97–98

  13. ラッセル・M・ネルソン「永遠のための決断『リアホナ』2013年11月号,106-109

  14. Neal A. Maxwell, If Thou Endure It Well, 99

  15. Boyd K. Packer, Follow the Brethren, Brigham Young University Speeches of the Year (Mar. 23, 1965), 4–5; also in Liahona, Sept. 1979, lds.org

  16. ヨハネ13:14,17

  17. Spencer W. Kimball, Men of Example (address to Church Educational System religious educators, Sept. 12, 1975; booklet), 7; also in Teaching Seminary: Preservice Readings (Church Educational System manual, 2004), 26

  18. Harry Emerson Fosdick, Twelve Tests of Character (1923), 87–88;L・トム・ペリー「ヨベルの年『リアホナ』2000年1月号,93で引用