ワールドワイド・ディボーショナル
キリストの教会の設計図とは


キリストの教会の設計図とは

ヤングアダルトのためのCESディボーショナル,2014年1月12日,ブリガム・ヤング大学

この教会で将来指導者となり,親となる皆さんとともに過ごす機会を持てたことをうれしく思います。皆さんのおかげで,この教会には保障された輝かしい未来があることを信じています。そこで,いつか皆さんが管理することのなる教会についてお話しします。

教義と聖約の第一章で主は,「〔この教会は,〕全地の面に唯一まことの生ける教会〔である〕」(教義と聖約1:30)という大胆で重要な声明を発せられました。これはどのような意味なのでしょうか。ほかの教会には真理がないと言っているのではありません。なぜなら,間違いなくほかの教会にも真理はあるからです。また,ほかの教会は良いものを提供していないという意味でもありません。ほかの教会も多くの良いものを提供しています。この言葉が意味するのは,この教会が,この神権時代においてこれまで啓示されたすべての真理を有するただ一つの教会であるということです。昇栄に必要な儀式の行われる唯一の教会であり,神が望まれる儀式を執行するための神権を有する唯一の教会である,ということです。わたしたちは何を証拠としてこう主張するのでしょうか。

何年も前のこと,子供が増えたために妻とわたしは広い家が必要となり,そのための土地を見つけました。それからしばらくの間,家族の必要を十分に満すことができる設計図の作成に時間を費やしました。妻は,大家族のために,また青少年の活動に使えるようにとファミリールームとリビングルームの境に折りたたみ式のドアをつけることを考えました。またわたしたちは,ガレージ上の空スペースを利用して,子供たちが健全な活動を行うための部屋を計画しました。ガレージの後ろに小さな部屋を作り,食料などの貯蔵室としました。設計図にはこれらとその他の要素が盛り込まれ,計画に沿って家が建てられました。

家の建設中,時々わたしたちは変更指示を建設業者に提出し,設計図は修正されました。最終的に完成した家は,修正された設計図通りでした。わが家の設計図を世界中のすべての家と照らし合わせた場合,まったく同じ家がいったい何件あるでしょうか。一つだけ,わたしたちの家だけでしょう。確かに所々似た家はあるでしょう。同じ大きさの部屋,同じような窓,しかし,基礎部分,部屋,屋根の輪郭線を一つ一つ見ていけば,その設計図と完全に一致する家はただ一軒,わたしたちの家だけです。

同じように,キリストは神の子供たちの霊的な必要を最もよく満たす家をお建てになりました。それはキリストの教会と呼ばれました。この教会の霊的な設計図は新約聖書に見ることができます。時々,救い主は設計図の「変更指示」を出されました。そうした変更指示は啓示という形で与えられました。例えば,最初救い主は使徒たちに対し,福音を伝えるのはイスラエルの家だけで,異邦人には伝えないよう命じられました(マタイ10:5-6参照)。しかし,天に昇られた後救い主は,ペテロに霊的な変更指示,つまり,示現という手段を使った啓示を出されました。異邦人にも福音を教えるようにという命令でした(使徒10参照)。この経験でペテロは,キリストの教会における管理原則を少なくとも二つ学びました。1.設計図は変更されることがある。しかし,それはキリストの啓示によってのみなされる。2.そうした啓示は,地上における神の代弁者である預言者に与えられる。つまり,神の教会は,神からの啓示,命令によって管理される,ということです。

今日キリストの教会を見つけたい人は,組織,教え,儀式,実,啓示それぞれが設計図通りの教会を見つけるまで,新約聖書に書かれている霊的な設計図を世界中のあらゆるキリスト教の教会に照らし合わせてみるといいでしょう。そうしているうちには,似た点がいくつかある教会を見つけるでしょう。一つ二つの教えが設計図と同じであるもの,同じ儀式,同じ名前のついた役職を有する教会があるでしょう。しかし,すべての重要な点で合致する教会はただ一つ,末日聖徒イエス・キリスト教会だけです。ではこれから,この主張が正しいかどうかテストしてみましょう。

では設計図の最初のページを開け,そこで明らかにされているキリストの教会の組織がどのようになっているか見てみましょう。

第一に,キリストの教会は使徒と預言者を土台としています。パウロが教会の新しい改宗者に,彼らは「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト御自身が隅のかしら石である」と書いています(エペソ2:20強調付加)。

使徒たちは,十二使徒定員会をそのまま完全に維持することが絶対に必要であることを理解していました。ユダのように,一人の使徒が死に,土台の一部が「欠けた」とき,土台を再び完全なもの戻すために,他の11人の使徒が集まって後任者を選びました(使徒1:22:25参照)。

このやり方で,十二使徒定員会を維持することの重要性が証明されました。教会の安定にこれらの使徒たちが極めて重要であり,パウロは使徒がいつまで必要であるかについて「わたしたちすべての者が……信仰の一致……に到達」するまでと明言しました(エペソ4:13)。そしてその理由を,わたしたちが「様々な教えの風に吹きまわされる」ことがないようにするためだと説明しています(エペソ4:14)。そういうわけで,教義を純粋なままに保つために,使徒は非常に重要です。

わたしがある物語を,前の列の端の人に伝えるとして,その人がその隣の人に伝え,またその人が隣の人へと次々に列の最後まで伝えていくと,その物語はどのようになるでしょうか。話は変わってしまいます。いつもそうです。それが人間なのです。使徒たちが町や村に行って教えた教義も同じです。教義は人から人へと伝わる間に,変化し始めます。使徒がいる間は,手紙や直接の説教などで教義を正すこともできましたが,使徒がいなくなると,抑制と均衡の制度もなくなって元に正す者はおらず,ほどなくして教義はゆがめられたり,なくなったりしてしまいました。

このような理由で,キリストの教会の土台は使徒と預言者でできていることを設計図は明らかにしています。新約聖書に,設計図を修正し,使徒はもはや必要ではないとする啓示があるのを知っている人はいますか。わたしは知りません。そうであれば,今日のキリストの真の教会には使徒と預言者が土台として存在しなければなりません。

救い主と使徒を助けて世界に福音を宣べ伝えるため,救い主は他の人たちを選んで,道を備えるために七十人を召しました。ルカ10章にこれら七十人のことが書かれています。この設計図通り,七十人という職のある教会を知っていますか。

新約聖書にある設計図は,キリストの教会の組織を作っている他の役員についても明らかにしています。ビショップ(日本語の新約聖書では監督)(1テモテ3;テトス1:7参照),長老(使徒14:23;テトス1:5参照),執事(ピリピ1:1参照),伝道者(エペソ4:11参照)。意味は祝福師1),牧師(エペソ4:11参照。意味は群れを管理するビショップやステーク会長など2

教会の信仰箇条6条にはこの設計図についての記述があります。「わたしたちは,初期の教会にあったと同一の組織,すなわち,使徒,預言者,牧者,教師,祝福師などがあることを信じる。」(信仰箇条1:6;強調付加)言い換えれば,現在のイエス・キリストの教会は,最初のキリストの教会と同じ組織でなければならず,啓示があったときにのみ変更が生じることを信じています。

キリストの使徒はじめ,役員はどのように選ばれたのでしょうか。救い主が当時最高の神学校を訪ねて,成績順位が最も高い生徒をお選びになったのでしょうか。そうではありませんでした。設計図によると,主は漁師のペテロと取税人のマタイ,その後,テント職人のパウロをお選びになりました。つまり,役員は素人だったのです。今日も同様に,教会には十二使徒定員会があり,一般教会員の中から選ばれています。教師がいれば,エンジニアや弁護士もおり,その他様々です。

キリストの使徒や他の役員は,主の務めに携わるよう申請したのでしょうか。そうではありません。キリストが役員を選ばれた,と設計図は伝えています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして,あなたがたを立てた。」(ヨハネ15:16強調付加)キリストが使徒たちを聖任されたとき,彼らに何をお与えになったでしょうか。マタイとルカの記録にその答えがあります。「権威をお授けにな〔りました〕。」(マタイ10:1,ルカ 9:1も参照)それは,主の名によって主の業を行うための神権の力でした。設計図に「〔人の子は〕僕たちに仕事を割り当てて責任をもたせ」(マルコ13:34)とあるのはその理由からです。それはなぜでしょうか。それは僕たちが主の承認を得て主の御名によって行動できるようにするためです。今日この教会で神の神権を有するすべての男性は,自分の神権の権能をすべての権能と力の源であるイエス・キリストまでさかのぼることができます。ですから同様にその人も,設計図が求めているキリストの承認,つまり,主の認可を得る権利を有しています。

キリストが組織された教会の名前は何でしたか。わたしたちがキリストの御名によってバプテスマを受けるならば,キリストの御名によって祈るなら,キリストの御名によって救われるなら,キリストが創始者であり,教会の隅のかしら石であるならば,キリストの教会はどのような名前となるでしょうか。イエス・キリスト教会です。モルモン書の時代の人々に対して,救い主は,教会に救い主の名前をつける必要があることについての基本的な原則を教えられました。「わたしの名で呼ばれなければ,どうしてわたしの教会であろうか。ある教会がモーセの名で呼ばれれば,それはモーセの教会である。あるいは,ある人の名で呼ばれれば,それはその人の教会である。しかし,わたしの名で呼ばれ,人々がわたしの福音の上に築かれていれば,それはわたしの教会である。」(3ニーファイ27:8強調付加)

パウロが教会初期の何人かの会員を叱責した理由はここにあります。彼らは特定の弟子の名前で呼ばれ,キリストの名前では呼ばれませんでした。そこでパウロは書いています。

「はっきり言うと,あなたがたはそれぞれ,『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。

キリストは,いくつにも分けられたのか。パウロは,あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも,あなたがたは,パウロの名によってバプテスマを受けたのか。」(1コリント1:12-13

つまり,わたしたちはイエス・キリストの御名以外の名前を身に引き受けません。

ですから,キリストの教会にはキリストの名前をつけるべきであると設計図は教えています。ジョセフ・スミスの時代の300年前に起こった宗教改革で,主の教会にイエス・キリストの名前をつけようと考えた人が一人もいなかったことが,いつもわたしには奇跡に思えました。もちろん,ジョセフ・スミスの後に同じようにした人たちはいましたが,ジョセフ・スミスが現れ,キリストの教会が回復されるまで,主は驚くべき方法で,その名前が使われないようにされたのです。

次に設計図の2ページ目を開きましょう。キリストの教会の教えにはどのようなものがあったでしょうか。いくつか見てみましょう。

神は霊だけの御方でしょうか。それとも,骨肉の体もお持ちでしょうか。設計図はどう教えているでしょうか。

キリストは復活されてから弟子たちに姿をお見せになりましたが,弟子たちは,誤って主を霊だと思いました(ルカ24:37)。その誤った印象を正そうとして主は言われました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが,あなたがたが見るとおり,わたしにはあるのだ。」(ルカ24:39強調付加)

復活された体の肉体的な性質についての疑問を除くため,主は弟子たちにお尋ねになりました。「ここに何か食物があるか。」(ルカ24:41)そして聖文は記しています。

「彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると,

イエスはそれを取って,みんなの前で食べられた。」(ルカ24:42-43

骨肉のある栄光に満ちた復活体でキリストは天に上がられました(使徒1:9参照)。3聖文で宣言されているように,天で主は,父なる神の右に座し,「神の本質の真の姿」をしておられます(ヘブル人への手紙1:3)。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である。」(教義と聖約130:22)まさにこれが,キリストの教会の回復の一部としてジョセフ・スミスが教えた真理です。

多くのキリスト教会が教えているように,神とイエスは同じ御方でしょうか。それとも別々の御方でしょうか。設計図はわたしたちに何を告げているでしょうか。

聖書には,御父と御子が別々な御方であること,そして,御二方の別々の役割に関する記述が驚くほど多くあります。これから激しい苦痛を受けることを理解しておられた救い主は,ゲツセマネの園で,「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)とはっきり言われました。これは世界が知る,最も偉大な従順の行為です。しかし,従うべき相手のいないところに,つまりもし,イエスと御父が同一の御方であるなら,従順などあるでしょうか。救い主は御父になぜ祈り,「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになるのですか」(マルコ15:34)と叫ばれるのでしょうか。イエスを見捨てる別の人がいなくて,どのように見捨てられるのでしょうか。もし御二方が別々の御方でないとすれば,ステパノはどのように,イエスが神の右に立っておいでになることを見ることができたのでしょうか(使徒7:55-56参照)。

ジョセフ・スミスは真理を学んで森から出てきました。父なる神と御子イエス・キリストが並んで立っておられるのを彼は見ました。御父がもう一人の御方を御自分の「愛する子である」(ジョセフ・スミス―歴史1:17)と呼ぶのを聞きました。この栄光に満ちた日,神は,神の本質について人が作った過去の通説を打ち砕かれました。そして,父なる神と御子イエス・キリストは目的と御心において一つであるが,別々の御方である,という設計図で最初に教えられていた簡潔な真理を明らかにし,確認されました。

この地上にいる間にイエス・キリストの福音を聞く公平な機会を持てなかった人について,設計図は何を告げているでしょうか。彼らは罰の定めを受けるのでしょうか。彼らの霊的な状態について何も明らかにされていないのでしょうか。

これは,多くの人にかかわる重大な質問です。もちろん神はこのことのついて語っておられます。答えは設計図の中にあります。

ペテロはこう書きました。「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは,彼らは肉においては人間として裁きを受けるが,霊においては神に従って生きるようになるためである。」(1ペテロ4:6)この教義は,キリストの弟子たちの死に続いて起こった背教で失われましたが,預言者ジョセフ・スミスを通して回復されました。

3つの天国があるのでしょうか。それとも一つでしょうか。一つの天国と一つの地獄,というのがキリスト教で長く教えられたことですが,最初の設計図は何を教えているでしょうか。

パウロはこう教えました。「日の栄光があり,月の栄光があり,星の栄光がある。」(1コリント15:41)さらにパウロは,人が「第三の天にまで引き上げられた」(2コリント12:2)という示現について述べ,天には3つの段階があるという真理を確認しています。第一と第二の天がなくて,第三の天が存在し得るでしょうか。預言者ジョセフ・スミスによって回復されたこの教義もまた,正確に最初の設計図通りです。

結婚は永遠に続くでしょうか。それとも死で終わるのでしょうか。設計図には何と書かれているでしょうか。

使徒には,すべて彼らが地上でつなぐことが天でもつながれるための力が与えられており(マタイ18:18参照),パウロはその力に従って宣言しました。「主にあっては,男なしに女はいないし,女なしには男はいない。」(1コリント11:11)それは,神のおられるところで永遠に一緒にいることが男性と女性の理想であることを意味します。ペテロも夫と妻について証しています。二人は「いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者」(1ペテロ3:7)であって,別々ではなく,永遠の命を一緒に相続する者として共に歩むべきだと言いました。これが設計図で教えられている教義であり,今日,キリストの教会で教えられている教義です。

設計図の3ページ目には次のように書いてあります。「キリストの教会の儀式」この点に関し,設計図には大変具体的な説明があります。例えば,乳児や幼児を祝福したりバプテスマを施したりするでしょうか。設計図はどう教えているでしょうか。

救い主はわたしたちに明確な模範を示してくださいました。幼い子供に関して聖文には次のように書かれています。「そして〔イエスは〕彼らを抱き,手をその上において祝福された。」(マルコ10:16強調付加)マタイも,救い主が「手を彼らの上において」(マタイ19:15)と書き,幼児に関するその出来事を確認しています。設計図では,乳児と幼児が受けるのは祝福であって,バプテスマではないと教えています。実際,乳児のバプテスマについての記述は,新約聖書のどこにもありません。なぜでしょうか。それは,幼児のバプテスマがキリストの教会の儀式ではなかったからです。今日,キリストの教会を探している人は,幼児にバプテスマを施す教会ではなく,幼児を祝福する教会を探すでしょう。

バプテスマは救いに欠かせないものでしょうか。設計図はどのように教えているでしょうか。

キリストは自らバプテスマを受けて模範を示されたあと,明白な言葉で宣言されました。「だれでも水と霊とから生まれなければ,神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5強調付加)ペテロも同じように教えました。「悔い改めなさい。そして,あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために,イエス・キリストの名によって,バプテスマを受けなさい。そうすれば,あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう(使徒2:38強調付加)。設計図で教えられていることは,そのまま,今日のキリストの教会で教えられていることです。

バプテスマは水をふりかける,注ぐ,あるいは水に沈めて行うでしょうか。バプテスマは水に沈めて行うべきものであることを示す証拠が設計図には少なくとも4つあります。

1.偉大な模範者である救い主は「水から上がられた」(マタイ3:16)。これは,主が最初に水の中に入ったはずであることを示しています。

2.バプテスマのヨハネは,「サリムに近いアイノンで,バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。」(ヨハネ3:23強調付加)もし,水を振りかけたり,注いだりするバプテスマが認められていたならば,ヨハネはなぜ「水がたくさんあった」場所まで出かけていく必要があったのでしょうか。

3.パウロは,バプテスマがイエス・キリストの死と埋葬と復活を象徴していると語りました(ローマ6:3-5参照)。バプテスマの水の中に立つ新しい改宗者は,死を迎える古い人を表しています。そして水に沈められるとき,その人の罪は葬られ,水の象徴的な清めの力によって赦されます。次に水から上がったときは,イエス・キリストにあって新しい人,つまり復活した人を象徴して立つのです。バプテスマの基本となっている象徴のすべてが,水に沈められるバプテスマと一致しています。しかし,振りかけたり,注いだりするやり方が広まり,この方法は完全にすたれてしまいました。

4.バプテスマという訳語の基となったギリシャ語は,水に浸す,あるいは水に飛び込むという意味です。

ウィル・ドュラントという世界的に有名な歴史家は,この設計図が明らかにする事柄を理解しており,次のように述べています。「9世紀には,初期のキリスト教徒が行っていた全身を水に沈めるバプテスマは,北方の気候で健康への危険を軽減できるふりかける方法にしだいに取って代わられ,消滅していった。」4

バプテスマを正確にキリストの設計図通り行うべきであるという啓示をジョセフ・スミスが受けたことは,驚くことではありません。(教義と聖約 20:73-74参照)

死者のためのバプテスマはキリストの初期の教会にあった儀式でしょうか。その通りです。

コリントにあった教会の会員たちは,死者のためのバプテスマという儀式を行っていました。しかし,彼らは復活が本当にあるかどうか疑問に思っていました。彼らの行動と信仰にずれがあることを感じたパウロは,死者のためのバプテスマという正しい儀式を行っている彼らの行為を利用して,復活の正しい原則を証明しました。「そうでないとすれば,死者のためにバプテスマを受ける人々は,なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば,なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。」(1コリント15:29

真の教義を受け入れ,バプテスマが救いに欠かせないものであること(実際その通りなのです)を知った人は,必然的に,死者のためのバプテスマを信じるようになります。その教義を否定しようがないのです。そうでなければ,「バプテスマを受ける機会のないまま亡くなった人はどうなるのか」という難しい質問に答えることはできません。この疑問を抱いている人に対しては,次の4つの選択肢があります。

1.バプテスマを受けていない男性,女性は,罰の定めを受けて地獄に行く。しかし,そのような答えは,「神は人をかたよりみないかた」(使徒1:34)であり「すべての人が救われ[る]」(1テモテ2:4)ことを望んでおられるという聖文の真理とは矛盾します。

2.もしかしたら神は真剣に語られなかったかもしれず,バプテスマは救いに特に重要でないかもしれない。しかしこれは,現実的ではありません。何か語られるとき,神はいつも責任を負われます。「主なるわたしが語ったことは,わたしが語ったのであって,わたしは言い逃れをしない。」(教義と聖約1:38モーサヤ2:24も参照)

3.「切望によるバプテスマ」と呼ばれる新しい条件が,水によるバプテスマの代わりとなることを信じている人がいる。つまり,イエスに従うことを切望していても,この世でバプテスマを受ける機会がなかった人に対しては,その人の切望するふさわしい気持ちが水のバプテスマの代わりとして受け入れられるというものです。しかし,この選択肢に聖文の裏付けがないことが問題です。聖文には「人は切望によって生まれなければならず」ではなく,「だれでも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5強調付加)と書かれています。

4番目の選択肢です。神は真剣に,すべての人はバプテスマを受けなければならないと言われ,そのために,現世の生涯で機会がなくでも,すべての人がバプテスマを受けられるように方法を備えてくださいます。これが死者のためにバプテスマです。これが,設計図に沿った選択肢です。

バプテスマの後聖霊の賜物がどのように与えられるかについて設計図には何と書かれているでしょうか。これは聖霊の一時的な導きではなく,永続する賜物についてです。これは,バプテスマのあと自動的に,風のそよぎのように来るのでしょうか。それとも神聖な儀式,つまり,この賜物を受けるために踏まなければならない手続きがあるのでしょうか。設計図の中に答えがあります。

サマリアでピリピが新しい改宗者にバプテスマを施した後に,ペテロとヨハネが来ました。聖文は,この儀式を施す方法を明らかにしています。「そこで,〔ペテロとヨハネ〕が手を彼らの上においたところ彼らは聖霊を受けた。」(使徒8:17強調付加)

エペソでは,パウロが新しい改宗者にバプテスマを施した後,同じことがなされました。

「人々はこれを聞いて,主イエスの名によるバプテスマを受けた。

そして,パウロが彼らの上に手をおくと聖霊が彼らにくだり」(使徒19:5-6強調付加)

ここでもまた,設計図とキリストの回復された教会は完全に調和しています。

設計図の次のページにはこのように書いてあります。「キリストの教会の実」救い主は真理を見いだすためのテストをされました。「あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである。」(マタイ7:20)設計図で明らかになっているキリストの教会の実はどのようなものがあったでしょうか。

まず,初期の聖徒たちは健康な民になる努力をしました。パウロは,わたしたちの肉体はわたしたちの霊を宿す「宮」であるから,神聖に扱わなければならないと教えました。「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(1コリント3:16;1コリント6:19も参照)このためにキリストの教会の会員には,エペソ5章と1テモテ3章の酒の飲用を制限するものなど,健康の律法があり,彼らはそれに従っていました。体を神殿のように扱うという神聖な律法を踏まえ,ジョセフ・スミスは,キリストの回復された教会の会員のために主から健康の律法を受けました。知恵の言葉として知られる律法です。この健康の律法に従った結果,繰り返し行われた研究でも,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は世界で最も健康な民の一つであることが確認されました。これは,キリストの健康の律法に従ったことによる実の一つです。

キリストの教会の2つ目の実は,奇跡と御霊の賜物です。新約聖書にはその記録が随所に書かれています。それらは,神の力がキリストの教会に存在していたことを証明しています(ヘブル人への手紙2:4参照)。しかし,背教が起こって奇跡は少なくなり,そのことを歴史家は積極的に肯定し,改革者たちは認めました。著名な歴史家ポール・ジョンソンは次のように言っています。「『奇跡の時代』が終わったことは少なくとも皇帝時代,つまり,コンスタンチヌス時代以来知られていることであり,クリスチャン指導者はもはや,使徒のように超自然の力を借りて福音を広めることはできない。」5

なぜ,奇跡や御霊の賜物のない時代が来たのでしょうか。それは,キリストの教会という実のなる木が地上から消えたからです。人々の信仰はすっかり弱くなってしまったのです。ジョン・ウェスレーは,自分の時代に御霊の賜物が教会からなくなっていることについて記しています。「こうしたすばらしい聖霊の賜物が教会でよく見られたのは2,3世紀間だけだったようだ。」6

このことについて,多くの皆さんと同じようにわたしも証することができます。キリストの初期の教会でそうだったように,キリストの回復された教会においては,今が奇跡と御霊の賜物の時代です

3つ目の実です。キリストの教会の設計図には,天使や示現についての記録が数多くあります。今日,天使や示現を主張する教会を疑いの目で見る人たちがいます。しかし,そういう人たちは,天使や示現がキリストの初期の教会の重要な一部であることを忘れています。マリヤにキリストの誕生を告げたのは天使でした。変貌の山でペテロ,ヤコブ,ヨハネを訪れたのも天使でした。天使がペテロとヨハネを獄から解放し,天使がコルネリオに話しかけ,天使が船の難破をパウロに警告しました。啓示者ヨハネを訪れた天使,御父と御子の示現を見たステパノ,終わりの時に関するヨハネの示現,まだたくさんあります。「天使や示現があると主張しているからといって,なぜ末日聖徒イエス・キリスト教会が真の教会でありえるのか」と問うのではなく,むしろ,「キリストの初期の教会が,また,主の設計図が明らかにしている天使と示現がない教会が,なぜ,キリストの真の教会であると主張できるのだろうか」と問うべきです。

キリストの初期の教会と一致する実は他にも多くあります。

初期の教会は宣教師の教会でした。使徒たちは「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民……に教えよ」(マタイ28:19)と命を受けました。今日,教会では8万人以上の宣教師がこの命令を果たし,伝道の実をつけています。

初期の教会は道徳の教会でした。設計図は,キリストの教会の初期の聖徒たちが,服装は慎み深く,また,結婚前に性的な関係を持たないよう命じられたと教えています。これら道徳の標準を教えるだけでなく,実行している教会はいくつあるでしょうか。

キリストの初期の教会は家族中心の教会でした。夫は妻を愛して忠実であるように(エペソ5:23-25参照),子供たちは親に従順であるように命じられました(エペソ6:1参照)。ビショップは自らの家庭をよく治めるよう命じられています(1テモテ3:4-5参照)。今日,わたしたちの教会はキリストの最初の教会と同じように,家族中心の教会であることが知られています。キリストの教会の実は聖書に詳しく記録されており,キリストの回復された教会の実と一致しています。

キリストは御自分の教会を地上にお建てになりました。しかし,設計図の最後のページには,天へつなぐもの,つまり,神の啓示が示されています。これがなければ,教会は人が作る組織と同じように,論理の力が統制する組織になってしまいます。預言者アモスは言いました。「まことに主なる神はその僕である預言者にその隠れたことを示さないでは,何事をもなされない。」(アモス3:7)パウロは「わたしは……主のまぼろしと啓示について語ろう」(2コリント12:1;使徒1:2も参照)と言って,啓示は教会のなくてはならない部分であって,どんな時もあるべきものとされていることを確認しています。

この基本原則通り,今日キリストの教会は現在も続く啓示によって天とつながっています。信仰箇条9条として知られる,このことに関する信条を教会はこう宣言しています。「わたしたちは,神がこれまでに啓示されたすべてのこと,神が今啓示されるすべてのことを信じる。神がこの後も,神の王国に関する多くの偉大で重要なことを啓示されると信じる。」

キリストの初期の教会の設計図を,今日世界にあるすべての教会に照らし合わせてみるなら,すべての点で,組織,教義,儀式,実,啓示それぞれがすべて一致する教会は一つしかありません。末日聖徒イエス・キリスト教会です。

設計図を研究した後でこの教会を拒否する人は,他のどの教会にも入ることはないでしょう。あまりにも真理を知りすぎているからです。その人はペテロと同じです。ペテロは救い主から「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハネ6:67)と尋ねられました。すべての人はペテロのこたえを胸に刻み,家庭で大切にすべきものです。彼はこう答えました。「わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6:68

人が教会から離れたら,その人は回復された真理を学ぶためにどこに行こうというのでしょうか。聖なる森で明らかになった神の本質,死者に福音を宣べ伝えること,栄光の3つの段階,そして,永遠の家族についての真理です。救いを得させ,昇栄を可能にする儀式をどこで受けるのでしょうか。妻と子供たちとの永遠の結び固めをどこで受けるのでしょうか。家族のために慰めや癒しの神権の祝福を望むとき,どこに行ったらいいのでしょうか。神の預言者をどこで見つけることができるのでしょうか。それらの教義,儀式,力,預言者を探しても無駄に終わるだけです。なぜなら,それらがあるのは末日聖徒イエス・キリスト教会だけだからです。

預言者ジョセフ・スミスと教義と儀式の基となっている歴史を受け入れずに,預言者ジョセフ・スミスを通して回復された教義と儀式を知ることはできません。それらは関連し合った切り離すことのできないものです。おいしい果物を食べて,その木を悪いとは言えないのです。「良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない」(マタイ7:18)と,昔救い主は真理を教えられました。従って,今夜話してきた教義の実が良い実なら,その実がなっていた木,つまり,ジョセフ・スミスとそれに伴って明らかになった真理に関わる歴史も,同じように良いものなのです。どちらか片方だけ,ということはできません。

数年前のある総大会でB・H・ロバーツ長老は,ジョセフ・スミスの業績について話し,あたかもジョセフを批判する人たちに向かって話すようにこう言いました。「ジョセフと同じようにできますか。できないなら,彼のことについては黙っていたほうがいいですよ。」7

歴史的,あるいは社会的な事柄について懸念を持つ人がおり,教義が科学と矛盾しているという人がいますが,これらは副次的なもので,中心にあるのは教義,儀式,神権の力であり,教会の他の多くの実です。その多くは今晩お話ししました。しかし,「わたしはこれを全部信じていますが,批判や具体的な質問にはどう対応したらいいでしょうか」と言う人もいるでしょう。

検察側の重要証拠人が出た後,被告人の状況が絶望的になったことを弁護人は知ります。その時点で,気の早い人なら被告人を有罪だと決めてしまうかもしれません。しかしその後,法廷では興味深い現象が起こります。被告側が同じ証人に対して反対尋問を始めると,反対尋問からくるプレッシャーで証人の完全な答えが揺らぎ始めることがよくあるのです。自信満々に見えていた証人に矛盾点が見えてきます。事件の記憶にさえ所々間違いがあるかもしれません。完璧に見えた証人の証言も,新たな質問を受ける度にひびが入り,崩れ始めます。証人は味方である検察からの答えやすい質問には対応できても,反対側からの厳しく徹底的な質問に耐えられません。反対尋問が終わったとき,証人の信用は大きく損なわれてしまっています。初めは被告人を有罪だと思っていた傍聴人も,見方が変わり,被告人が完全無罪であると思うのです。

同様に,批判する人は教会を絶望的な状況に落とす意図をもって,教会に対する片寄った質問をしてきます。しかし,質問は別な方向からもできるのです。8検察側の重要証拠人も反対尋問中は援護者がいません。それは,教会に厳しく批判する人たちも同じです。これまで,次に挙げる「反対尋問」に納得できる答えをくれた中傷者はいませんでした。

まず,ジョセフ・スミスはどのように聖書の教義と儀式を回復する方法を知ったのでしょうか。前世に関する教義,神の本質,死者に福音を宣べ伝えること,死者のためのバプテスマなど,今晩たくさん話しましたが,彼が生きていた時代にそのような教義や儀式を教えていた教会はありませんでした。それらを見つけて回復したのがジョセフ・スミス一人だけだったのはなぜなのでしょうか。たとえ彼が神学の天才だったとしても,救い主の地上での務めが終わってからの1,800年間に,同じようにできた天才は他にいなかったのでしょうか。

次に,この教会がキリストの教会でないとすれば,なぜこの教会はキリストの初期の教会と同じ実をつけているのでしょうか。実とは次のものです。奇跡と御霊の賜物,使徒と預言者からの現在の啓示,天使と示現,健康な民,道徳的な民,伝道に熱心な民,徹底した家族中心の民。「あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである」(マタイ 7:20)と救い主はおっしゃらなかったでしょうか。

もちろん,反対尋問ではもっと多く質問できます。しかし,どんな質問にもまして重要で的を射た,つまり,問題の核心となる質問がいくつかあります。真理を見いだそうとするとき,単純に,ほかのものより大切な質問がある,とだけ言えば十分でしょう。今夜話した聖書の教えと儀式をジョセフ・スミスが回復したことを知れば,また,末日聖徒イエス・キリスト教会がキリストの初期の教会と同じ実をつけていることを知れば,あるいは,モルモン書が神の力で書かれたことを知れば,ジョセフ・スミスが預言者であることが分かります。そしてもしジョセフ・スミスが預言者であるならば,この教会が地上で唯一まことの生ける教会です。同様に,他のどんな質問もそれほど重要ではないのです。ちょうど最高裁判所が判決を出すようなものです。判決が出たその時点で,下級法廷でどんな裁決が下されていても,どんな批判的な質問も,どんなに厳しく,複雑で,あるいは面白おかしい質問も,真理を知ることに関しては大したことではなくなります。なぜでしょうか。なぜなら,真理を知るための基本柱である,となる重大な質問の答えがすでに出ているからです。

人の不完全さ,たとえそれが神の預言者であっても,わたしは容認できます。人間が不完全なのは当たり前だからです。モルモン書に反する科学結果が出ているという訴えにも動揺しません。時間が間違いを正してくれるはずです。歴史的に見て奇妙な出来事も受容できます。真理全体から見ればささいなことです。しかし,ジョセフ・スミスによって回復された教義上の真理と儀式はなくてはなりません。家族を祝福する神の神権はなくてはならないものです。妻と子供たちと永遠に結び固められていることを知らないまま生きることはできません。ここでわたしたちは選択に迫られているのです。一方にいくつか答えの出ていない疑問があり,もう一方には,教義上確実となっている多くのことと神の力があります。わたしは簡単で道理にかなったほうを選択します。そして皆さんもそうすることを願っています。

皆さんがいつか管理することになる教会には,キリストの名前がつけられています。なぜなら,この教会には神がお認めになった組織があり,神の教え,儀式,力,実,そして絶えることのない啓示があるからです。わたしたちに霊的に物事を見る目があり,この設計図と今日ある回復されたキリストの教会の間に同じものがあることを見ることができますように。それが神を証する揺るぎないものの一つであることを,イエス・キリストの御名によって証し,祈ります。アーメン。

© 2014 Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.英語承認: 9/13. 翻訳承認: 9/13. 原題:What Is the Blueprint of Christ’s Church? 言語: PD50051805 300

  1. ジョセフ・スミスは「伝道者とは祝福師です」と教えました。(ジョセフ・フィールディング・スミス選,Teachings of the Prophet Joseph Smith,[2007] 140)

  2. 牧者とは群れの管理者を意味する一般的な言葉です。

  3. キリストの復活した体は死すべき人間のために一時的に肉体を現わしたものに過ぎず,キリストが昇天されると肉体をもつことによる「限界」を無くすために肉体をお捨てになるので,キリストは現在天において霊の存在であると言う人々がいます。しかしながら,聖文には,キリストの復活した体は一時的なものであるとか,あるいは肉体を捨てられたという証拠は全くありません。パウロが非難しているように,この議論について疑う必要はありません。パウロはキリストが御自分の復活して体を捨てることは不可能であったことを教えています。「キリストは死人の中からよみがえらされて,もはや死ぬことがなく,もはや死ぬことがなく,死はもはや彼を支配しないことを,知っているからである」(ローマ 6:9強調付加)。この聖句はキリストは復活の後死ぬことができないと述べています。死とは肉体と霊を離れること(ヤコブ 2:26)なので,この聖句はキリストは天に昇られる前に肉体を捨てることはできなかったことを教えています。もし出来たなら,キリストは天に昇られる際に二回目の死を経験されたことになります。しかし,パウロはそのようなことは起こり得ないと教えています。

  4. ウィル・ダーラント,The Story of Civilization: The Age of Faith (1950), 738。

  5. ポール・ジョンソン,A History of Christianity (1976), 162,強調付加

  6. ジョン・ウェスレー,The Works of John Wesley, 3rd ed., 14 vols. (reprinted 1986 from the 1872 edition), 7:26。

  7. B・H・ロバーツ,トルーマン・G・マドセンからの引用,Defender of the Faith: The B. H. Roberts Story (1980), 351。

  8. 宮を清め,そこに戻って教えておられた救い主が主を批判する人たちから「何の権威によって,これらの事をするのですか」と尋ねられました。質問は両者が聞くことができることを理解しておられた救い主は「〔あなたが最初にわたしの質問に答えれば,質問に答えよう。〕バプテスマのヨハネはどこからきたのであったか。天からであったか,人からであったか。」と応えられました。批判者はこの質問に答えることの危険性を感じ,答えることはできない,と言いました。それに対して救い主は,「わたしもあなたがたにわたしが何の権能でこれらのことを行っているのを答えない」と言われました。(マタイ 21:23-27参照)