歴代大管長の教え
ゴードン・B・ヒンクレーの生涯と教導の業


ゴードン・B・ヒンクレーの生涯と教導の業

1998年2月16日,約6,700人の末日聖徒がガーナ,アクラのインディペンデンス・スクウェアに集まった。預言者であるゴードン・B・ヒンクレー大管長を歓迎するためだった。1ヒンクレー大管長は笑顔で聖徒たちの前に立ち,彼らの祖国に神殿が建設されるという,長年待ち望まれてきた知らせを発表した。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老によれば,ヒンクレー大管長がこのことを発表したとき,人々は「立ち上がって歓喜し,涙を流しながら踊り,抱き合い,泣きました。」2数年後に神殿が建設され,奉献されたときに,その日その場にいたある女性がそのときに感じた喜びの気持ちを思い出し,神殿からどのような祝福を受けてきたかを話した。

「預言者ゴードン・B・ヒンクレーがガーナを訪問して,わたしたちの母国に神殿が建設されると発表したときのことを今でも鮮明に思い出すことができます。皆の表情に現れた興奮や喜び,歓喜の声が今でもはっきりと脳裏に焼き付いています。……

今日,この国に神殿があるおかげで,わたしは夫と結婚して,この世と永遠にわたって夫と結び固められています。墓を超えて家族とともに暮らすという祝福は,永遠に家族とともにいるためにできる限りのことを行おうと努めるときに,大きな希望を与えてくれます。」3

ヒンクレー大管長は,世界中の人々がこの「大きな希望」を見いだして,イエス・キリストの福音に従って生活しようと努力できるよう助けてきた。ガーナでの出来事から分かるように,ヒンクレー大管長はしばしば一度に何千,何万人もの人を教え導いた。また,一人ずつ人々に手を差し伸べた。七十人のアドニー・Y・小松長老は,伝道部会長だったときにヒンクレー大管長が自分の伝道部を訪れたときの気持ちについて語っている。

「3年間の在任中,わたしの数々の弱さにもかかわらず,一度もヒンクレー大管長に批判されたことがありませんでした。……わたしは大いに励まされました。……ヒンクレー大管長は飛行機を降りてくると必ずわたしの手を握り,一生懸命井戸の水をくむかのように握手をしてくれました。『小松会長,調子はいかがですか。……よく頑張ってくださっていますね』というふうに励ましてくれました。……大管長が去った後,わたしは100パーセントではなく105パーセントの力を出し切ろうと思ったものです。」4

ヒンクレー大管長からの励ましを感じた人たちは,大管長の霊感あふれる言葉からだけでなく,生き様からもそれを感じた。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,このように述べている。

「〔ヒンクレー夫妻が〕中央アメリカのある教会堂から空港に向かっていたときのことでした。大管長夫妻の乗った車が事故に遭いました。わたしたち夫婦は後ろの車で事故の様子を目撃しました。ある交差点で鉄筋を積んだトラックが突っ込んで来て,衝突しそうになったのです。トラックの運転手は衝突を避けようとして急ブレーキをかけました。ところが積み荷をしっかりと固定していなかったので,鉄筋が投げの槍のように飛んで来て,大管長の車に突き刺さりました。窓は粉々になり,フェンダーやドアもへこみました。一歩間違えば大惨事になるところでした。でも,体や洋服に掛かったガラスの破片を払ってもらいながら,大管長はこう言いました。『主の祝福に感謝しましょう。別の車で行きましょうか。』」5

危機にした瞬間に口から自然に出た言葉は,ヒンクレー大管長の生涯と,イエス・キリストの弟子としての教導の業を表している。ホランド長老が述べたように,ヒンクレー大管長は「常に神に対する信仰と将来に対する確信に満ちてい〔ました〕。」6

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〔ゴードン・B・ヒンクレーの画像〕

家族の受け継ぎ——信仰と根気の礎

1910年6月23日に誕生したゴードン・ビトナー・ヒンクレーは彼の母親エイダにとっては最初の子供だったが,6人の兄と姉から家族の一員として歓迎された。ゴードンの父,ブライアント・ストリンガム・ヒンクレーは最初の妻,クリスティーンの死後,エイダ・ビトナーと結婚した。エイダとブライアントはゴードンの後にさらに4人の子供をもうけ,異母兄弟,異母姉妹の別なく,愛をもって大家族を養った。ゴードンは幼い頃から家族を大切にすることを学んだ。

ゴードンの姓とミドルネームは彼に,自分が先祖から高貴な受け継ぎを受けていることを思い出させてくれた。ヒンクレー家の先祖には,後にアメリカ合衆国となる土地への初期の移住者がいた。先祖の中には,キリスト教を信仰しているために1600年代にその土地へ追放された者もいた。他の者は,1620年にメイフラワー号に乗ってやって来た。メイフラワー号は,ヨーロッパから北米に移住者を輸送する初期の船の一つだった。その後2世紀以上を経て,ゴードンの父方の祖父,アイラ・ナタニエル・ヒンクレーが初期の末日聖徒の開拓者の一人となった。1843年,孤児になって間もない14歳のアイラは,ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの説教を聞いてイリノイ州ノーブーで教会に加わった。ゴードンの曽祖母アナ・バー・ミュッサー・ビトナー・スターも開拓者だった。その息子,ブレネマン・バー・ビトナーはゴードンの母方の祖父で,1849年にソルトレーク盆地へ移動したときのことについて後に次のように述べている。「〔11歳だった〕わたしは,暑さや寒さの中,2対の雄牛と荷物でぎゅうぎゅう詰めの荷車を引いて,砂漠や川や山を越えてこの盆地に来ました。」7

ブライアント・ヒンクレーは,子供や孫たちに,彼らの豊かな受け継ぎについてよく話した。メイフラワー号に乗っていた清教徒たちの危険な旅と,目的地に到着したときに直面した,長くて厳しい冬について,彼はこのように述べた。「春にメイフラワー号が戻って来る準備ができる頃には,生存者は〔102人中〕49人になっていました。〔英国に〕帰る人は誰もいませんでした。皆さんは生まれながらにしてそのようなスピリットを持っています。後戻りしないというスピリットです。」8ゴードンはこの原則に忠実であり続けたので,想像もできなかったようなことを学び,奉仕し,する機会を得た。

子供時代——楽観的で勤勉で忠実であることを学ぶ

ヒンクレー大管長は人生の後半には活力にあふれた頑健な人として知られるようになったが,幼児期からそうだったわけではない。病気がちな「きゃしゃで体の弱い子供」だった。92歳のときに「重いにかかり,……医師はエイダに,唯一の治療薬は,の澄んだ空気だと告げました。ブライアントはこれに応えて,2ヘクタールの農場を購入し,小さな夏の別荘を建てました。」10イースト・ミルクリークというソルトレーク盆地の地域にあるこの農場は一家に祝福をもたらした。子供たちが散策し,遊び,一緒に働きながら価値ある教訓を学ぶ場となった。

エイダ・ヒンクレーとブライアント・ヒンクレーは,子供たちに成長と成功の機会を与える,楽観的で勤勉な両親だった。1915年に家庭の夕べのプログラムが導入されるとすぐに,家庭の夕べを行った。寝る前には,しばしば聖典の物語を読み聞かせた。家庭に図書室を設けて,子供たちが良書を読めるようにした。子供を励まし,最善を尽くすよう期待することにより,子供に規律を促した。

成長するにつれ,ゴードンは両親の信仰の影響を受け続けながら信仰を増していった。ある日,ゴードンはある経験をした。その経験は,預言者ジョセフ・スミスについてのの礎を形作る助けとなった。

「わたしが12歳のとき,父がステークの神権会に連れて行ってくれた。わたしは後列に座り,ステーク会長であった父は壇上に座った。そのような集会に出席するのは初めてであったが,集会が始まるとき会場に集まった数百人の人々は一斉に起立した。人生経験も違い,職業も異なる人々であったが,誰もが心に同じ確信を持ち,その確信を胸に声を合わせてこう歌った。

たたえよ,主の召したまいし

主と語りし預言者を

末の時を始めたる

業を世,皆めよ

信仰を持って歌う人々の声を聞くわたしの心に何かが起こった。少年の心に,によって,ジョセフ・スミスが本当に全能者の預言者であるという知識が植えられたのである。」11

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〔幼い日のゴードン・B・ヒンクレー大管長の画像〕

青年の頃のゴードン・B・ヒンクレー大管長

積年の教育と試練

ゴードンは幼い頃,学校が好きではなかった。教室の壁や机よりも戸外を好んだ。しかし,大きくなるにつれ,少年のときにはだしで駆け回った野原と同じくらい,本や学校,家庭の図書室の良さが分かるようになっていった。1928年に高校を卒業すると,同年にユタ大学で学び始めた。

大学在学中の4年間に圧倒されるような数々の試練に見舞われた。1929年に合衆国の株式市場が暴落し,国の内外に大恐慌が広がった。ソルトレーク・シティーの失業率は約35パーセントだったが,幸いゴードンには整備員の仕事があり,学費と学用品を賄うことができた。教会のデゼレト・ジムの館長を務めていたブライアントは,自分の給与を減額して,他の職員が職を失わずに済むようにした。12

このような経済的な苦難に追い打ちを掛ける出来事が起こった。ゴードンの母にが見つかったのだ。1930年,母はゴードンが20歳のときに,享年50歳で他界した。母の死により心に負った傷は「深く,苦痛を伴った」とゴードンは語っている。13この個人的な試練は,この世の哲学の影響と当時の皮肉な考え方と相まって,ゴードンが難しい疑問を抱くきっかけとなった。「ひどい落胆の時代でした」とゴードンは振り返っている。「そして,特に大学内がそのような雰囲気になっていました。わたしも落胆して,さまざまな疑問を抱くようになりました。両親の信仰についても幾分疑問に思っていたのだと思います。大学生にはよくあることですが,当時の雰囲気は特に深刻でした。」14

ゴードンは,自分の心に芽生え始めた疑問に悩んだが,信仰が揺らぐことはなかった。「わたしの心の奥底には,立派な両親や家族,すばらしいビショップ,献身的で忠実な教師たち,そして聖典を読み,深く考えることからもたらされた愛がしっかりと根付いていたのです」と振り返り,ゴードンをはじめとする同年代の人たちが当時直面していた問題についてこのように述べた。「わたしたちの若い頃は何もかも自由に知ることのできる時代ではありませんでしたが,わたしたちの心の中には神に対する愛,偉大なに対する愛と言えるものがありました。そのおかげで,わたしたちはどんな疑いや不安をも克服することができました。わたしたちは心から主を愛していましたし,すばらしい立派な人たちを大切にしていました。そのような愛から,わたしたちは大きな力を引き出すことができたのです。」15

伝道と個人の改心

ゴードンは1932年6月にユタ大学を卒業した。専攻科目は英語,副専攻科目は古代言語だった。翌年,ゴードンは重大な選択を迫られた。ゴードンは,ジャーナリストになるためにさらに教育を受けるのを楽しみにしていた。大恐慌のさなかにあっても,僅かな貯金をかき集めて教育資金にするつもりだった。また,結婚も考えていた。ゴードンと,道の向かいに住んでいたマージョリー・ペイという若い女性は,互いへの愛情を深めていた。

そんな中,23歳の誕生日を迎える直前に,ゴードンはビショップであるジョーン・C・ダンカンと話をした。その中でビショップから,伝道に出ることについて考えたことがあるかと尋ねられた。これはゴードンにとって「衝撃的な提案」16であった。大恐慌のさなかに伝道に召される若い男性は少なかったからである。彼らを支えるための資金が家族にはなかったのだ。

ゴードンはダンカンビショップに,伝道には出たいが,家族がどうすれば伝道資金を工面できるか心配だと言った。ゴードンが預金口座を持っていた銀行が倒産したことが分かったときに,この不安はさらに増した。ゴードンはこう言っている。「それにもかかわらず,父がこう言ったのを覚えています。『おまえの必要を満たせるよう,全力を尽くすよ。』父と兄は,伝道中の資金を工面すると約束してくれました。そんなとき,母が残した僅かばかりの預金が見つかりました。食料やその他の買い物をした際の釣り銭をためたものでした。なけなしのそんなお金まで出してもらって伝道に出られる見通しが立ちました。」ゴードンは母の硬貨を神聖なものとみなしていた。「わたしは名誉にかけて,それが無駄にならないように大切に使いました」と語っている。17ゴードンはヨーロッパ伝道部で奉仕するよう召された。

息子がまだ悩んでいるのを感じ取ったブライアント・ヒンクレーは,真の力の源を思い起こさせるためにささやかなメッセージを用意した。ゴードンは後にこのように語っている。「〔伝道に出る〕とき父から(英語で)5つの単語を書いたカードを渡されました。……『恐れることはない。ただ信じなさい。』(‘Be not afraid, only believe’)」(マルコ5:36)18この言葉に加え,この数週間後に父の筆でられた6つの言葉に励まされたゴードン・B・ヒンクレー長老は,忠実に,そして立派に伝道した。

その6つの言葉をもらったのは,ヒンクレー長老がひどい落胆のさなかにあるときだった。その落胆が始まったのは,1933年6月29日にイングランドのプレストンに赴任した日である。アパートに到着すると,自分たちはその晩,町の広場で話をすることになっていると同僚から告げられた。「別の人を連れて行った方がいいですよ」とヒンクレー長老は答えたが,結局彼も数時間後には,関心のない見物人を前に,台の上で歌ったり話したりしていた。19

ヒンクレー長老は,大勢の人たちが回復された福音のメッセージに耳を傾けようとしないことに気づいた。世界規模の経済的な恐慌により生まれた貧困は,路面電車の中でヒンクレー長老を押しのける人たちの心を貫いているようだった。ヒンクレー長老は人々に親しみをほとんど感じられなかった。さらに,ヒンクレー長老は肉体的にも病気を患っていた。ヒンクレー長老はこう回想する。「イングランドでは,6月下旬から7月初旬にかけて草が受粉し種になります。わたしが到着したのはちょうどその頃でした。」20これがアレルギーの引き金となり,何もかもがさらに悪く思えた。家族が恋しくなり,マージョリーに会いたくなった。懐かしい母国に帰りたくなった。伝道は思いどおりに進まなかった。ヒンクレー長老と,一緒に働く宣教師たちは,毎週日曜日に小さな支部で教え,話すことはあったものの,めったに求道者を教える機会に恵まれなかった。

自分の時間と家族のお金を無駄にしていると感じたヒンクレー長老は父親に手紙を書いて,そのみじめな状況について説明した。ブライアント・ヒンクレーは返事を書いて,あることを忠告した。息子はその忠告を生涯守ることになる。「愛するゴードンへ。最近届いた手紙を読みました。わたしにできる忠告はただ一つ。」そこには,以前に書いてくれた5つの単語の重みをさらに増す,6つの言葉があった。「自分を忘れてに励みなさい。」(“Forget yourself and go to work.”21この勧告を読んだヒンクレー長老の心に,その日同僚と読んだ聖句がこだました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのため,また福音のために,自分の命を失う者は,それを救うであろう。」(マルコ8:35)

若きヒンクレー長老は,父からの手紙を手にひざまずき,自分自身を主にささげると誓った。その効果はすぐに表れた。「世界ががらりと変わりました」とヒンクレー長老は語っている。「霧が晴れて生活に太陽の光が差し込んできました。新たな関心が湧き,この国の美しさが見えるようになりました。人々のすばらしさが分かるようになりました。このすばらしい国になじみ始めました。」22

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〔ゴードン・B・ヒンクレー長老の画像〕

ロンドンのハイドパークで説教する,専任宣教師時代のゴードン・B・ヒンクレー長老

ゴードンは当時を振り返り,母からも助けを受けたと説明した。特に暗く,落胆していたときに,慰めを与えてくれる母の存在を感じた。「そのとき以降,わたしは母の名前に名誉をもたらすような生活を送り,務めを果たすよう努めてきました」と語っている。「母の期待に満たない生活をしていると思うと心が痛み,他の方法では生じ得なかった自己管理能力が育まれました。」23

ゴードンは,目的意識と熱意を持った宣教師になった。伝道の最初の8か月間の記録によれば,この間誰にもバプテスマを施すことがなかったが,8,785枚のパンフレットを配り,会員と440時間以上過ごし,191の集会に出席し,220回福音について会話し,一人に確認の儀式を施している。24

1934年3月,ヒンクレー長老はプレストンからロンドンに転勤して,イギリス伝道部とヨーロッパ伝道部を管理していた十二使徒定員会会員のジョセフ・F・メリル長老の補佐として働いた。25ヒンクレー長老は伝道の残りの期間をそこで過ごし,日中は事務所で働き,夜は福音を教えた。改宗者のバプテスマは多くはなかったが,ブライアント・ヒンクレーとエイダ・ヒンクレーの息子の心にともった改心の小さな灯は,炎となって燃え続けた。

主に仕える新たな機会

ゴードンは伝道から戻ると,こう言った。「もう二度と旅はしたくない。もう一生分の旅をしたからね。」26ゴードンと二人の同僚の宣教師は,当時の慣習どおり,帰宅途中にヨーロッパや合衆国を巡り,ゴードンは疲れ果てていた。帰還して間もなく家族は旅行に出かけたが,ゴードンは家に残った。疲れ切っていたものの,旅を振り返りながら幾分かの満足感を味わっていた。自分の祝福師の祝福の一部が成就するのをの当たりにしたと感じていたのである。何年も後に,このように語っている。

「子供のときに祝福師の祝福を受けました。その中で,地上の国々で真理のの声を挙げるだろう,と言われました。ロンドンで長期間働き,そこで何度も証をしました。わたしたちは〔アムステルダムへ行き〕,わたしはある集会で少しの間話し,証を述べる機会がありました。その後,ベルリンへ行くと,同じような機会がありました。次に行ったパリでも同じような機会がありました。それから合衆国のワシントンD.C.に行き,そこでも日曜日に同じような機会がありました。帰宅したときには,疲れ切っていました。……わたしは言いました。『……祝福文の〔あの〕部分は終えた。世界の大都市で声を挙げてきたんだ。……』本当にそう感じていたのです。」27

伝道が終わったと思えるようになる前に,もう一つ果たさなければならない割り当てがあった。ジョセフ・F・メリル長老から,イギリス伝道部およびヨーロッパ伝道部における必要について大管長会に報告するよう割り当てられていたのである。帰還後1か月足らずの1935年8月20日の朝,ゴードンは教会本部ビルの会議室に通された。大管長会のヒーバー・J・グラント大管長,J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長,デビッド・O・マッケイ管長と会い,一人一人と握手をするやいなや,ゴードンは自分に与えられていた仕事に圧倒された。グラント大管長はこう言った。「ヒンクレー兄弟,メリル長老が我々に伝えたい内容を15分で話してください。」28

それから15分間,帰還したばかりのこの宣教師は,メリル長老の懸念事項を伝えた。宣教師は,伝道活動に役立つより良い印刷物を必要としていると述べた。グラント大管長と顧問の二人はこれに対して矢継ぎ早に質問し,面談は予定よりも1時間長引いた。

面談からの帰り道,ゴードンはこの75分間が自分の人生にどのような影響を与えるかなど知るもなかった。2日後,ゴードンはマッケイ大管長から電話を受けた。マッケイ大管長から,新たに設立された教会のラジオ・広告および伝道文献委員会の幹部書記の仕事の申し出を受けたのだ。6人の十二使徒で構成されるこの委員会は,ゴードンが大管長会との会談で趣旨を伝えた必要に対処するために取り組むということであった。29

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〔ゴードン・B・ヒンクレーの画像〕

教会のラジオ・広告および伝道文献委員会の幹部書記として働くゴードン・B・ヒンクレー

ゴードンはこのたびも,大学院に行きジャーナリストになるという計画を延期した。仕事場に行き,ラジオ番組と映写スライドの台本を作り,宣教師用の小冊子を書き,メディア界で新しい時代を切り開く人々と仕事上の関係を築き,教会歴史の研究と執筆に携わった。そして,教会員の信仰を築き,教会外の人々と関係を築く助けとなるメッセージを練り上げることに貢献した。あるとき友人が,ラジオの台本についてゴードンを賞賛する手紙を送り,どのようにして書く才能と語る才能を育んだのか尋ねた。ゴードンはこのように答えている。

「もしもわたしに語る才能と書く才能が少しでもあるとしたら,天の御父に心底感謝するよ。生来備わっていた能力はほんの僅かだったと思う。もし能力が少しでもあるとすれば,自分に与えられた機会を通して伸ばされたのだろう。」30

委員会での働きを通して,ゴードンの書き手としての技能は磨かれた。また,使徒と預言者から学ぶ貴重な機会にもなった。ゴードンは,6人の十二使徒がさまざまな決定について慎重に検討し,互いに教え合う姿を見て,この多様な男性たちに与えられている神聖な召しと,ともに評議する中で啓示が与えられる過程に対する理解を深めた。

後に大管長会の第一顧問として奉仕したスティーブン・R・リチャーズ長老は,同委員会の委員長だった。ゴードンはリチャーズ長老についてこう述べている。「思慮深く,慎重で,用心深く,賢明な人物で,決して焦って実行に移さず,行動する前に慎重に観察していました。わたしは,この業において慎重に事を進めることが最善であることを学びました。なぜなら,どのような決断をしようと,その決断は広範に影響を与え,多くの人々の生活を左右するからです。」31

その他の5人の委員は,メルビン・J・バラード長老,ジョン・A・ウィッツォー長老,チャールズ・A・カリス長老,アロンゾ・A・ヒンクレー長老(ゴードンの叔父),アルバート・E・ボーエン長老だった。彼らについてゴードンはこのように語っている。

「このすばらしい兄弟たちと,とても親しくなりました。みんなわたしにとても親切にしてくれました。しかし,彼らが人間だということも分かりました。弱さと問題を抱えていました。しかし,そのことは気になりませんでした。実際,そのことにより彼らに対する尊敬は増しました。なぜなら,彼らは人としての人格に勝る神性の一部を備えていたからです。少なくとも,偉大な大義に対する奉献を最優先事項としているのをの当たりにしました。彼らが生活の中で霊感を受けるのを目にしました。彼らが預言者として召されていること,また主が彼らを通して語り,行動されることに何の疑いも持ちませんでした。彼ら全員に,人間的な側面や弱点が幾つかあるのを見ました。しかし,きわめて強い信仰と主に対する愛,そしてこの業と自分に寄せられている信頼に対する絶対的な忠誠心も目にしました。」32

結婚,家族,教会における奉仕

もちろん,ゴードンは仕事のことばかり考えていたわけではない。マージョリー・ペイとの付き合いは,イングランドから帰国した後も続いていた。ゴードンが去ることは,ゴードンだけでなくマージョリーにとってもつらいことだった。マージョリーは後にこう語っている。「彼が伝道に出ることは楽しみでしたが,電車が駅を出発したときに感じたむなしさと寂しさは一生忘れないでしょう。」33

ゴードンがイングランドを去る4年前の1929年の秋,マージョリーはユタ大学のクラスに登録したが,大恐慌のために父親が失業した。マージョリーはすぐにクラスの受講を取りやめ,両親と5人の弟,妹を助けるために秘書の仕事を見つけた。1935年にゴードンが帰ってきてからもその仕事を続けていた。その後彼女が再び正式な教育を受ける機会はなかったが,学び続けることを決意し,読書により独学で学んだ。

マージョリーの朗らかな気質,労働意欲,福音への深い献身はゴードンを引き付け,マージョリーはゴードンの善良さと信仰に感銘を受けた。マージョリーはこのように述べている。「結婚が近づくにつれ,ゴードンから愛されていることをすっかり確信していました。でも,彼の最も大切な存在には決してならないだろうということも何となく分かっていました。彼にとっては主が最も大切で,わたしは2番目に大切な存在になることを悟っていたのです。それで構いませんでした。」さらにこう述べている。「もしも女性が,福音と,自分が地上にいる目的について理解すれば,夫に対して主を最優先することを望むだろうと思いました。彼がそのような男性だと分かって安心しました。」34

1937年4月29日,ゴードンとマージョリーはソルトレーク神殿で結婚し,イースト・ミルクリークにあるヒンクレー家の別荘に引っ越した。二人はかまどを作り,一年を通して生活するのに必要な改修作業を行い,果樹園や庭の手入れをしながら,近所に所有していた土地に自宅を建て始めた。このようにして,ゴードンが幼少時代に夏を過ごしたお気に入りの田舎で,マージョリーと二人で家を作り,キャスリーン,リチャード,バージニア,クラーク,ジェーンという5人の子供たちを育てた。

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〔マージョリー・ペイの画像〕

マージョリー・ペイ

ゴードンとマージョリーは,愛と互いへの敬意,勤勉の原則と福音に従って生活した。日々の家族の祈りという窓を通して,子供たちは両親の信仰と愛を見ることができた。家族が一緒に祈るときに,子供たちは天の御父の存在も近くに感じた。

ヒンクレー家では,規則はほとんどなく,子供たちはただ両親から多くを期待された。マージョリーは,言い争う価値のないさまざまなことについて話した。夫と共通の子育ての方法について,マージョリーはこのように述べた。「子供を信頼する必要があることを学んだので,子供に『いいわよ』と言えるときには,『だめ』とは決して言わないようにしました。子育ての時期は,とにかく毎日を何とか乗り切ること,そしてささやかなことを楽しむことを大切にしました。どっちみち子供たちのことについてわたしが全て決めることはできないと分かったので,いちいち細かいことは気にしないようにしました。」35両親から信頼されて育った子供たちは,尊重されていると感じ,経験と自信を得た。両親から「だめ」という答えを受けるとき,子供たちは根拠なく制限されているわけではないことを理解していた。

また,ヒンクレー家は笑いに満ちていた。マージョリーはあるときこう言った。「人生を切り抜ける唯一の方法は,自分のことを笑いながら歩むことです。笑うか泣くかのどちらかだとしたら,わたしは笑う方が好きです。泣くと頭が痛くなりますから。」36自分自身を笑い,日々の生活にユーモアを見いだすことのできる両親のおかげで,子供たちは家庭を喜びにあふれる避け所と感じていた。

教会での奉仕は,常にゴードンとマージョリーの生活の一部だった。ゴードンはステーク日曜学校管理会会長として奉仕し,その後日曜学校中央管理会に召され,9年間奉仕した。ゴードンは後にステーク会長会の顧問,ステーク会長として奉仕し,マージョリーは初等協会,若い女性,扶助協会で奉仕した。子供たちは教会の奉仕が楽しい特権であるのを目にして,それぞれが大人になったときにこの模範に従った。

職業上の努力を通して備える

マージョリーとゴードンが結婚してから6年間,ゴードンは教会のラジオ・広告および伝道文献委員会で働き続けた。献身的に働き,プロジェクトと締め切りのために,ゴードンはしばしば能力と経験の限り,あるいはそれ以上を尽くして取り組んだ。友人に宛てた手紙の中でゴードンはこのように述べている。

「やることがたくさんある。この長い名前の委員会は,より大規模で,より複雑で,さらに興味深いものになりつつある。……

ラジオ,映像,さまざまな文献のおかげで,祈り,になり,忙しく,何時間も働いているよ。……おかげでわたしはもう少しに頼るようになり,背中はもう少し丸くなり,もう少し落ち着き,何のためにこれら全てを行っているのか,さらに好奇心で満たされるようになった。」37

1940年代初頭,第二次世界大戦をきっかけにゴードンの仕事に変化がもたらされた。大戦により専任宣教師の伝道活動が事実上休止したため,伝道用の資料を提供するというゴードンの職務の緊急性は低くなった。戦争で役に立たなければならないという責任を感じたゴードンは,アメリカ海軍の幹部候補生学校に志願した。ところが,アレルギーの病歴のために不適格とされた。「断られたことにがっかりしました」とゴードンは後に語っている。「戦争中で,誰もがさまざまな形で役に立っていました。自分も何らかの形で参加しなければならないと感じていました。」38このように望んだゴードンは,デンバー・アンド・リオ・グランデ鉄道の管理者補佐の職に応募した。鉄道は,軍隊と軍用品の移動に欠かせなかったため,この仕事なら母国の役に立つだろうと思ったのだ。1943年,鉄道会社に雇われたゴードンは,1944年にコロラド州デンバーに家族とともに移り住むまで,ソルトレーク・シティーの駅で働いた。

鉄道会社の管理者たちはゴードンの働きに感心し,1945年に大戦が終わると,将来性に満ちた正社員としての地位を提示してきた。同じ頃,スティーブン・L・リチャーズがゴードンに電話をかけ,教会の正規職員に復帰するよう求めた。鉄道会社から教会よりも大幅に高い給料を提示されていたにもかかわらず,ゴードンは自分の心に従ってソルトレーク・シティーに戻った。39

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〔ゴードン・B・ヒンクレーの画像〕

ゴードン・B・ヒンクレー,1951年

教会本部でのゴードンの仕事は,程なく当初より責任が増した。1951年,教会中央宣教師委員会の幹部書記に指名され,新設された宣教師管理部の日々の運営を監督する責任を与えられた。この部署は,福音を広めることに関わる全てのことを監督した。宣教師が使う資料,宣教師および伝道部会長の訓練,教会と社会の橋渡しの役目を果たし教会についての俗説を払拭するために用いる広報メディアの製作,翻訳,配送に携わった。40

1953年秋,デビッド・O・マッケイ大管長はゴードンを事務所に招き,宣教師管理部での職務とは直接関連のないある質問について考えるよう求めた。マッケイ大管長はこう述べた。「ヒンクレー兄弟,御存じのように,スイスで神殿が建設中です。この神殿は,さまざまな言語を話す会員を対象とするという点で他の神殿とは異なります。神殿ワーカーの人数を極力抑えつつ,ヨーロッパのさまざまな言語で神殿での教えを提供する方法を見つけてほしいのです。」41

マッケイ大管長は,ゴードンが宣教師管理部から求められる仕事から逃れ,霊感を求められるようにするための場所を提供した。ゴードンは週日の晩,土曜日,そして時には日曜日にも,ソルトレーク神殿の5階の小さな部屋で働いた。日曜日の朝には,しばしばマッケイ大管長とともに,意見を交わし,エンダウメントのプレゼンテーションを入念に調べ,導きを求めて祈った。

深く考え,祈り,啓示を求めた後,ゴードンはエンダウメントのプレゼンテーションを映像にして,神聖な教えを多言語に吹き替えるよう提案した。マッケイ大管長をはじめとする人々はこの提案を承認し,映像の製作をゴードンに割り当てた。ゴードンは有能で忠実な専門家とともに取り組み,1955年9月にこのプロジェクトを完成させた。ゴードンはその後,映像をスイス・ベルン神殿に自ら運び,最初のエンダウメントセッションの技術的な準備を監督した。42

ゴードンは自分の働きがヨーロッパの聖徒に喜びをもたらしているのを見て心を動かされた。「10か国から集った人々が神殿の儀式に携わるのを目にして,このような貴い祝福をヨーロッパの国々から集まった信仰深い男女にもたらすよう〔マッケイ大管長が〕主から霊感と導きを受けたということを,これまでにも増して確信しました。鉄のカーテンの向こう側からやって来た年老いた人々を目にしました。戦争で家族が散り散りになり,家族を失いながらも,この機会が与えられたおかげで心からの喜びの涙を流す人々の姿も見ました。また,利口でかわいらしい子供たちとともにやって来て,永遠に結び固められる若い夫婦も見ました。」43

ゴードンが伝道から帰還してから20年がたっていたが,さらに高い学位を取ってジャーナリストになるという夢はまだ果たされていなかった。その代わりに,新しい技術を用いて神の言葉を広めることを学び,他の宗教の人々と良い関係を育み,教会歴史を研究して書物を著し,何千,何万もの末日聖徒が神殿の祝福を受ける備えをする助けをした。これらの経験は,残りの人生で行う奉仕の基礎となった。

十二使徒会補助としての奉仕

1958年4月5日土曜日,ゴードンとマージョリーの息子リチャードが電話を取った。電話の主は名乗らなかったが,リチャードはデビッド・O・マッケイ大管長の声だと気づき,急いで父に知らせに行った。ゴードンは短くマッケイ大管長と話すと,急いでシャワーを浴び,着替え,車で大管長の執務室に向かった。以前マッケイ大管長から割り当てを受けたことがあったため,翌日の総大会の部会の準備に関連して何かを手伝うよう頼まれるものと思っていた。ところが,マッケイ大管長には別の考えがあったことを知って非常に驚いた。マッケイ大管長は親しく挨拶を交わすと,ゴードンに十二使徒会補助として奉仕するよう求めたのだ。この職は1976年に廃止されたが,この職で奉仕する指導者は中央幹部だった。マッケイ大管長からこの召しを受けたとき,ゴードンはイースト・ミルクリークステークの会長として奉仕していた。

翌日,ゴードン・B・ヒンクレー長老は総大会で支持された。初めて総大会で話すときには「自分の力不足を痛感していた」ものの,持ち前の信仰と活力を発揮して新たな責任を引き受けた。44

十二使徒会補助であるヒンクレー長老に与えられた主要な務めの一つは,アジア全体の教会の働きを監督することであった。ヒンクレー長老はアジアの人々についてほとんど知らず,アジアの言語は一つも話せなかったが,すぐに彼らを愛するようになり,彼らもヒンクレー長老を愛した。日本人の末日聖徒,田中健治兄弟はヒンクレー長老の日本での最初の集会についてこのように語る。「ヒンクレー長老のやる気は,輝く目に表れていました。わたしたちに掛けた最初の言葉は『すばらしい!』(日本語で)でした。その集会の堅苦しい空気が親しみのあるものに変わり,人々はヒンクレー長老を身近に感じ,温かい雰囲気が皆を覆いました。」45

ヒンクレー長老はアジアの訪問先全てで同じ雰囲気を人々にもたらした。ヒンクレー長老は,主を信じる信仰があれば大きなことを成し遂げ,母国の教会の発展を助けることができることを人々が理解できるように助けた。また,専任宣教師の勤勉な働きが伝道地の人々に直接影響を与えると考えいてたヒンクレー大管長は,専任宣教師たちと親しく交わった。

キリストのの特別な証人

1961年9月30日土曜日,人生を変えるもう一本の電話がかかってきた。今回はマージョリーが電話を取り,聞き慣れたマッケイ大管長の声を耳にした。ゴードン・B・ヒンクレーは再び大管長の執務室に急いだ。そこに呼ばれた理由を知って,再び驚き,圧倒されそうになった。ヒンクレー長老が到着すると,マッケイ大管長はこのように言った。「十二使徒定員会の空席を埋めるためにあなたを指名するべきだと感じました。わたしたちはあなたを今日の総大会で支持したいと思います。」46ヒンクレー長老はこのたびも力不足を感じながらも信仰とやる気を胸に前進した。

使徒になったヒンクレー長老は,新たな責任を幾つか受けた。政府高官をはじめとする要人と度々会合を持った。また,合衆国内の批判や文化的な誤解や混乱に対処するために教会を代表して公式の場で語るよう頻繁に求められた。教会の放送力を高め,テクノロジーを使って福音を全世界に広める取り組みの最前線にいた。幅広い役割を担うようになってからも,個人と家族の信仰を強めるという責任を見失うことは決してなかった。一人に向けて語るときでも,1万人に語るときでも,ヒンクレー大管長は一人一人に語り掛けた。人々を一人ずつキリストのもとに連れて行くというこの姿勢は,ヒンクレー長老の教導の業の特徴となった。

ヒンクレー長老はその後7年にわたりアジアにおける取り組みを監督し,アジア地域の友人の成長を見て喜んだ。このように語っている。「主が地球のこの……地域で壮大なデザインのタペストリーを織られるのをの当たりにして,心が鼓舞されました。」47

十二使徒定員会における割り当ての変更に伴い,ヒンクレー長老は世界の他の地域で奉仕する機会を得た。そして,行く先々で個人に関心を向けた。1970年,南アメリカにおける教会の取り組みを監督していたときに,ペルーでステーク大会を管理した後にチリに移動した。チリに到着して2日後,破壊的な地震がペルーを襲い,4人の宣教師が行方不明になっていることを知った。家に帰るのが遅くなることを承知で,ヒンクレー長老はすぐさまペルーに戻る計画を立てた。「行方不明になっている宣教師がいるのに,良心のを感じずに家に帰ることはできません」と言った。48

翌朝,ペルー,リマに到着した。行方不明だった宣教師は,アマチュア無線を操作できる人を見つけ,リマに電話をかけることができ,ヒンクレー長老と話をした。宣教師がいた小さな部屋には,他の生存者も大勢おり,その会話はスピーカーを通して放送された。「無線機で話そうとして騒ぎ立てる人々でごった返す部屋にヒンクレー長老の声がスピーカーを通して流れると,たちどころに部屋中が静まり返りました。ヒンクレー長老は英語で話し,彼らは皆スペイン語を話していたにもかかわらず,人々は『あの男性は誰だ』とささやき声で尋ね合いました。混乱のさなかにも,その声のがただ者ではないと感じたのです。」49

南アメリカで教会を監督した最初の2年間で,ヒンクレー長老は全ての伝道部を巡り,コロンビアとエクアドルに新たな伝道部を設立し,ペルーのリマとブラジルのサンパウロで新しいステークを作り,アルゼンチンで奉仕するように召された宣教師のビザの問題を解決するのを助けた。さらに取り組みを進めようとしていた1971年5月,ヨーロッパの8つの伝道部を監督する割り当てを受けた。50

ヒンクレー長老は厳しいスケジュールに疲れを感じることがしばしばあった。家に帰ってマージョリーや子供たちと時間を過ごせることは,常に喜びだった。しかしマージョリーには,働かない状態が長く続くとヒンクレー長老がそわそわし始めるのが分かった。「全世界におけるキリストの名の特別な証人となる」という使徒としての召しが,彼の脳裏から離れることはなかったのだ(教義と聖約107:23)。

大管長会顧問としての重責

十二使徒定員会で奉仕して20年がたった1981年7月15日,ヒンクレー長老はまたしても驚くべき召しを受けた。当時の大管長であるスペンサー・W・キンボール大管長から,N・エルドン・タナー管長,マリオン・G・ロムニー管長とともに大管長会の顧問として奉仕するよう求められたのだ。二人が顧問を務めるという従来のパターンとは異なるものの,この例外は前例がないわけではなかった。キンボール大管長と顧問の二人は健康状態がすぐれなかったために,大管長会はさらなる支援を必要としていた。51

新たな職に召されて最初の総大会でヒンクレー大管長はこのように話した。「わたしのただ一つの願いは,いかなる職に召されても忠実に働くことです。……この神聖な召しを受けることによって,わたしは自分の持つ弱点に気づきました。もしこれまで皆さんを傷つけるようなことがあったとしたら,この場で心からおわびします。どうかしてください。この召しを果たす期間が長かろうと短かろうと,わたしは愛と信仰を持って全力を尽くす覚悟です。」52

キンボール大管長,タナー管長,ロムニー管長の健康状態が悪化するにつれ,ヒンクレー管長の最善の努力が必要となった。大管長会の日々の職務のほとんどはヒンクレー管長が担った。また,ユタ州ジョーダンリバー神殿の奉献をはじめとする多くの大きな取り組みについても責任を負った。さらに,過去から現在に至る教会や指導者に対する世の批判にも直面した。1982年4月の総大会では次のように勧告した。

「今の社会は批判の社会です。……わたしは皆さんに,ビジョンを大きく持ち,小さな欠点に心を煩わせないようにお勧めします。……それらは,〔教会指導者たちの〕偉大な働きや貢献に比べればほんの枝葉末節のことなのです。」53

1982年11月27日にタナー管長が亡くなり,キンボール大管長とロムニー管長の健康状態が悪化したため,1983年4月の総大会では,既に大管長会第二顧問に召されていたヒンクレー管長が壇上の二つの空席の隣に腰掛けた。ヒンクレー管長は独りで,以前「指導者の孤独」と自ら呼んだ気持ちを感じていた。54

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〔ゴードン・B・ヒンクレー大管長の画像〕

大管長会の中でただ一人健康であり,総大会に出席できたゴードン・B・ヒンクレー管長

ヒンクレー管長は預言者よりも前に出ることのないよう,慎重に,祈りながら前進した。教会の日々の諸事を行ううえで,十二使徒の先任使徒たち,特に定員会会長のエズラ・タフト・ベンソン長老に支援を求めた。常にキンボール大管長の勧告に従いながら十二使徒と協力して働いた。にもかかわらず,ヒンクレー管長は非常な重責を感じていた。

大管長会における責任を果たすためにヒンクレー管長はほとんどの時間をソルトレーク・シティーで過ごしたが,時折世界各地を訪れて会員や宣教師を教え導いた。1984年にはフィリピンを再び訪れた。自身の手でフィリピン初の礼拝堂を奉献してから18年後に,最初の神殿を奉献した。ヒンクレー管長は奉献の祈りの中でこのように述べた。

「フィリピンは,多くの島からなる国です。その国民は自由と真理を愛し,主のに対する感受性が鋭く,永遠の福音のメッセージにすぐさま応じます。この民の信仰に感謝します。この民の犠牲の精神に感謝します。この国におけるあなたの業の発展の奇跡に感謝します。」55

1984年6月,教会の継続的な発展が明らかになった。大管長会の代表としてヒンクレー管長は地域会長会を召すことを発表したのだ。地域会長会とは,世界各地に住みながら割り当てられた特定の地域の教会の業を監督する七十人を指す。大管長会と十二使徒定員会の指示の下,この幹部らはその地域で必要とされている指導と訓練を施す。ヒンクレー管長はこのように述べた。「あらゆる決定をソルトレーク・シティーで下すことはできません。権能を委任するために何か手を打たなければなりません。」56約1年後,ヒンクレー管長は世界中の教会指導者に向けてこのように語った。「この数か月の間に,わたしたちは霊感を受けて大きな一歩を踏み出したと確信しています。この善良な男性たちが皆さんのところに度々訪れることにより皆さんを元気づけてくれると確信しています。これらの幹部は実際,教会全体を一つに結んでくれているのです。」57

スペンサー・W・キンボール大管長は,特筆すべき成長を遂げた12年間にわたって教会を導いた末,1985年11月5日に死去した。先任使徒のエズラ・タフト・ベンソン会長が大管長に任命された。ベンソン大管長は,ゴードン・B・ヒンクレー管長に大管長会第一顧問として,トーマス・S・モンソンに第二顧問として奉仕するよう求めた。大管長会の3人がそろって健康であったため,ヒンクレー管長は重荷が軽くなったと感じた。また,世界中の聖徒たちを訪れる機会が増えた。

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〔大管長会の画像〕

エズラ・タフト・ベンソン大管長(中央)と顧問のゴードン・B・ヒンクレー管長(左),トーマス・S・モンソン管長(右)。総大会にて

数年のうちにベンソン大管長の健康状態が悪化し,教会運営の日々の責任がまたしてもヒンクレー管長にのしかかった。しかし,このたびは大管長会でたった一人ではなかった。ヒンクレー管長とモンソン管長は,常にベンソン大管長の預言者,聖見者,啓示者としての召しを尊重しつつ,教会が確実に前進できるよう精力的に働いた。二人の間には,固く揺るぎない友情と協力関係が育まれた。

1994年5月30日にベンソン大管長が亡くなると,ハワード・W・ハンター会長が大管長になった。ヒンクレー管長とモンソン管長は再び顧問として奉仕した。6月,ヒンクレー管長とヒンクレー姉妹はハンター大管長と妻のイニス,M・ラッセル・バラード長老と妻のバーバラとともにイリノイ州ノーブーを訪れ,ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教150周年の記念行事の模様を見守った。ハンター大管長とヒンクレー管長がともに移動したのはこの一度限りとなる。ハンター大管長は何年にもわたって健康上の問題に苦しんでいたが,この旅の後,健康状態は急速に悪化した。1995年2月27日,ハンター大管長はヒンクレー管長に神権の祝福を依頼した。その祝福の中で,ヒンクレー管長はハンター大管長の命が守られるように懇願したが,ハンター大管長が主のの中にあるとも告げた。58数日後の1995年3月3日,ハンター大管長は死去した。

預言者,聖見者,啓示者,大管長

ハンター大管長の死は,予期してはいたものの,ヒンクレー一家に重くのしかかった。先任使徒であるヒンクレー管長は,次期大管長となることになっていた。ヒンクレー姉妹はハンター大管長の死の知らせを受けたときのことについてこのように振り返っている。「ハンター大管長が亡くなり,残されたわたしたちが受け継がなければならなくなりました。とても悲しく,孤独でした。ゴードンも同じように感じていました。ゴードンはとしていました。そして,深い孤独を感じていました。ゴードンの気持ちを理解できる人がもう誰もいなくなってしまったのです。」59

ハンター大管長の葬儀の後,ヒンクレー管長は神殿で慰めを得た。ソルトレーク神殿の大管長会と十二使徒定員会の集会室でたった一人,聖典を研究し,読んだことについてした。イエス・キリストの生涯と教導の業,に思いをはせた。それから,壁の肖像画をつぶさに見た。それは,ジョセフ・スミスからハワード・W・ハンターに至るまでの全ての大管長の肖像画だった。ヒンクレー管長はこのときの経験について日記にこう記している。

「わたしは肖像画の前を行きつ戻りつしながら,描かれている兄弟たちの目を見た。今にも彼らと話ができるような気がした。今にも彼らがわたしに語り掛けて励ましてくれるように感じた。……わたしは大管長会第一顧問として座っていた椅子に腰掛け,長い時間,これらの肖像画を見ていた。全員,今にも動き出しそうだった。その目はわたしを見ているようだった。わたしを励まし,必ず助けると約束してくれているように感じた。天で開かれた会議でわたしに代わって語ったので,恐れる必要はない。わたしは教え導くときに祝福と支持を受ける,と語り掛けられたようだった。

わたしはひざまずいて主に懇願した。長い時間,祈りながら主と語り合った。……の力により確かに主の言葉を聞いた。声は聞こえなかったが,祈りの中で尋ねた質問について心に温かい気持ちを感じた。」60

この経験の後,ヒンクレー管長は再び自分の思いを記した。「少し気が晴れた。主が主の大義と王国に関するを行っておられること,また主が望まれる間,わたしは大管長として,また預言者,聖見者,啓示者として支持されるという確信を心に得た。御霊の確認を心に感じたわたしは,前進し,自分の知り得る限りの方法で最善の働きを行う備えができた。主がわたしにこの至高の,最も神聖な責任を与えらておられるということを信じることは容易ではない。……主から期待されていることを行えるよう,これまで主の訓練を受けてきたことを願うばかりだ。わたしは主に完全に忠誠を尽くし,必ず主の導きを求めよう。」61

1995年3月12日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は大管長に聖任され,翌日の記者会見で語り,記者の質問に答えた。「終始明るく穏やかで,しばしば機知に富んだ態度で返答がなされました。会見の終わり近く,ある記者がヒンクレー大管長に次のように尋ねました。『今後どのような事柄に焦点を当てていかれるのでしょう。教会管理上の目標をお聞かせください。』

ヒンクレー大管長は即座にこう答えました。『「続け,励め,進め」です。わたしたち大管長会の目指すところは,前任者たちが築いてきた偉大な御業を推し進めることです。』」62

ヒンクレー大管長はその約束を守った。前任の預言者たちを尊重しながら,彼らが行った業を引き継いだ。また,父なる神とイエス・キリストを信じる信仰を持って,その業を新たな方法で行うようにという啓示に従った。

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〔ゴードン・B・ヒンクレー大管長の画像〕

総大会の壇上でのゴードン・B・ヒンクレー大管長

「暗黒から……教会をもたらす」手助けをする(教義と聖約1:30

ヒンクレー大管長が教導の業を始める直前に,十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老はこのように語った。「ヒンクレー大管長は暗黒から教会をもたらす助けをしています。わたしたちが升の下に隠れていては,教会は必要な前進を遂げることができません。誰かが進み出なければなりません。ヒンクレー大管長は率先して進み出る人です。ヒンクレー大管長は歴史だけでなく現代にも精通しており,その驚くべき表現のであらゆる地の人々に訴え掛けるメッセージを伝えることができます。」63

メディアと放送の分野における幅広い経験を通して,ヒンクレー大管長はこの業のために備えられてきた。大管長としてしばしば世界各地の報道記者のインタビューに応じ,教会の教義と方針に関する質問に答え,救い主と回復された福音に対するを述べた。インタビューのたびに人々の理解と友情が深まった。

特筆すべきは,1996年にテレビ番組「シックスティ・ミニッツ(60 Minutes」で行われた,ベテランレポーター,マイク・ウォレスとのインタビューである。ウォレス氏は厳しいインタビュワーとして知られており,ヒンクレー大管長は,番組が全米に向けて放送されるまで,実はあまり乗り気ではなかったと述べている。「良い結果が出ればうれしく思います。もしそうでなければ,もうこれからは二度とそのようなわなに自分の足を踏み入れるようなことはしません。」64

インタビューの結果,教会の多くの肯定的な側面を示す良い機会となった。また,インタビューをきっかけに,マイク・ウォレス氏とヒンクレー大管長は親しくなった。

2002年,ソルトレーク・シティーは冬期オリンピックの開催地となり,教会は国際社会の注目を浴びた。ヒンクレー大管長と顧問は計画の一部について相談した。ヒンクレー大管長はこう述べた。「わたしたちは熟慮したうえで,これを布教の機会や場所として利用しないという決断を下しましたが,この大きなイベントから教会にとってすばらしい成果が生じることを確信していました。」65そして,そのとおりになった。何万人もの人がソルトレーク盆地を訪れ,地元の人たちから親切なもてなしを受けた。末日聖徒をはじめとする人々が協力してオリンピックを成功に導いたのだ。訪問者たちはテンプル・スクウェアを見て回り,タバナクル合唱団に耳を傾け,家族歴史図書館を訪れた。何億もの人々がテレビでソルトレーク神殿を見た。また,レポーターが教会について好意的な情報を伝える様子を見た。ヒンクレー大管長が述べたように,それは「教会にとってすばらしい成果」だった。

従来の通信手段に加え,ヒンクレー大管長は新しい技術を用いた。例えば,インターネットは,教会と会員を親しく結びつけ,他の宗教の人々に回復された福音を伝える手段になると考えた。ヒンクレー大管長の在任中,教会はLDS.orgFamilySearch.org,そしてMormon.orgを公開した。

2004年6月23日,ヒンクレー大管長は94歳の誕生日に,合衆国市民に贈られる最高位の賞である大統領自由勲章を受賞した。ヒンクレー大管長は,受賞を受けてこのように語った。「合衆国大統領からこの名誉ある賞を頂いたことを大変光栄に思います。深く感謝しています。広い意味でこれは,教会に対する表彰であり称賛です。なぜなら,わたしはこれまでに教会から多くの機会を頂き,教会のために務めてきたからです。」66ヒンクレー大管長はこの賞について,教会の良い評判が高まったことの象徴であり,教会が確かに暗闇からもたらされたことの証だと捉えた。

各地の末日聖徒を巡る

ヒンクレー大管長にとって旅は苦痛で好きではなかったが,末日聖徒の中で奉仕したいという望みは,家にとどまりたいという望みに勝った。このように述べている。「旅は好きではありませんが,わたしは,この民の中に出て行って,感謝を伝え,人々を励まし,主の業の神聖さについて証したいのです。」67教導の業を始めて間もない頃,このように語った。「わたしは自分の力の及ぶ限り,国の内外を問わず,人々を訪ね〔る〕……つもりです。……わたしは自分にできる限り,頑張って前進し続けるつもりです。愛する人々と交わりたいと願っています。」68

大管長に在任中,合衆国内を広範に旅し,国外の国々を90回以上訪問した。大管長として総計100万マイル(160万キロ)以上を旅し,世界のあらゆる地の聖徒に会った。69

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〔ゴードン・B・ヒンクレー大管長の画像〕

ヒンクレー大管長は「国の内外を問わず,人々を訪ね〔る〕」ことを好んだ。

一部の地域では,人々はヒンクレー大管長以上に努力を払って大管長に会いに行った。例えば,1996年にヒンクレー大管長とヒンクレー姉妹が,教会員数が37万5,000人を上回ったフィリピンを訪れた際,夫妻はマニラのアラネタコロシアムで開かれる夜の集会で話をすることになっていた。その日の午後半ばまでに,コロシアムには「収容人数をはるかに超える数の人々が集まって来ていた。集会が始まる12時間も前の朝7時から行列ができ始めた。後に公式に示された参加人数は3万5,000人で,2万5,000の座席と通路とホールが埋め尽くされた。多くの聖徒が20時間をかけて舟やバスでマニラまでやって来た。数か月分の給料に当たる旅費をかけて来た人もいた。……

ヒンクレー大管長は,コロシアムが満員になり,建物の責任者が集会を何とか早く始められないか検討しているという知らせを受けると,即座に『行きましょう』と言った。ヒンクレー大管長とヒンクレー姉妹は広大なアリーナに入場した。……合図に合わせたかのように,集まった人々はおのずと立ち上がり,拍手し,感極まって『感謝を神にささげん』を歌い始めた。」70

大管長と教会幹部で行きたい場所全てを訪れることはできないことを承知していたヒンクレー大管長は,科学技術を用いて世界中の指導者を教えることを唱道し,衛星技術を用いて世界指導者訓練放送を管理した。第1回目は2003年1月に放送された。

霊的な真理とこの世の真理を学び,教えることの大切さを説く

ヒンクレー大管長は次のように述べた。「知識が十分な人は……誰一人いません。学ぶ過程は終わりのない過程です。わたしたちは読まなければならず,観察しなければならず,吸収しなければならず,心を向けるものについて深く考えなければなりません。」71また,こうも言っています。「教会における指導の真髄は,効果的に教えることです。永遠の命は,男女が効果的に教えを受けることで自らの生活を変え,訓練することによってのみ得られます。強制により彼らに義を行わせたり,天国に行かせたりするのは不可能です。皆が導きを得なくてはなりません。つまり教育が必要なのです。」72

ヒンクレー大管長は世界中の末日聖徒にさらに霊的な養いを与えたいと望んでいた。1995年,ヒンクレー大管長は教会員に福音図書を提供するために新たなシリーズの本を出版する計画を,熱意を込めて承認した。間もなくして教会は『歴代大管長の教え』というシリーズの出版を始めた。本書もその一部である。

この世の教育もヒンクレー大管長にとって重要だった。ヒンクレー大管長は,貧困にあえぐ地域の教会員が金銭的な余裕がないために高等教育や職業訓練を受けられないことを懸念していた。そのような教育や訓練を受けなければ,ほとんどの人は貧困から脱することはできない。2001年4月の神権部会で,ヒンクレー大管長はこのように述べた。

「こうした(機会に恵まれない)状況を改善するため,わたしたちはある計画を提案いたします。主から霊感を受けたものだとわたしたちは信じています。教会は,忠実な末日聖徒の献金を主体とする基金を設立します。彼らはこれまでも献金をしてくださいましたが,今後もこのような目的で献金してくださるでしょう。わたしたちは彼らに深く感謝しています。……『永代教育基金』と呼ぶことにいたします。」73

ヒンクレー大管長は,このプログラムの恩恵を受ける人々は,教会員からの献金から教育費の貸し付けを受け,学校や職業訓練を受ける費用に充てることができる,と説明した。学業や訓練を修了したときには,他の人が基金を使えるように,ローンを返済するよう期待されている。ヒンクレー大管長はまた,永代教育基金は「『永代移住基金』と同じような原則に従〔う〕」とも説明した。永代移住基金は,1800年代にシオンに移住してくる貧しい聖徒を助けるために設立された基金である。74

その後半年の間に,末日聖徒は何百万ドルもの献金を永代教育基金として納めた。75この計画を導入してから1年後,ヒンクレー大管長はこのように発表した。「このプログラムは今や堅固な基盤のうえに運営されています。……世界の恵まれない地域に住む若い男女で,大半は帰還宣教師の人々が,良質な教育を受けられるようになるでしょう。その結果,彼らは何代にもわたって苦しんできた貧困のから救われるでしょう。」76このプログラムは引き続き,与え手,受け手双方の末日聖徒に祝福をもたらしている。

結婚と家族の神聖さについて証する

1995年9月23日の中央扶助協会集会の中で,ヒンクレー大管長はこのように述べた。

「わたしたちの方で皆さんに警告したいことがあります。……真理という仮面をかぶったがあふれており,倫理基準や価値観に対するが後を絶たず,じわじわと世の汚れに染めていこうとする誘惑があまりにも多いからです。このことを踏まえて,わたしたち大管長会と十二使徒評議会は,教会員並びに一般の方々に向けて一つの宣言を発表いたします。これは,わたしたちの教会の預言者,聖見者,啓示者が歴史を通じて繰り返し述べてきた,家族に関わる標準と教義とその運用についての宣言を再確認するものです。」77

この前置きとともに,ヒンクレー大管長は初めて公に「家族—世界への宣言」を読み上げた。

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〔ヒンクレー家族の画像。孫とともに。〕

「わたしたちは親の皆さんと子供たちに,家族の祈り,家庭の夕べ,福音の研究と指導,そして健全な家族活動を最優先するようお勧めします。」

結婚と家族の神聖さは,常にヒンクレー大管長の教えのテーマであった。ヒンクレー大管長はあらゆる種の虐待をとがめ,互いに忍耐し合い,愛し合い,教え合い,仕え合うよう親と子供に勧めた。1999年2月11日付けの手紙に,ヒンクレー大管長と顧問はこう記した。

「親である皆さんに,子供たちを福音の原則の中で教え育てることに全力を尽くしてくださるようお願いいたします。そのことによって子供たちは教会に活発であり続けるでしょう。家庭は義にかなった生活の基であり,他のどのような手段も,家庭に代わる役割を果たし得ませんし,神から与えられたこの責任を遂行するうえでの大切な役割を果たしてはくれません。

わたしたちは親の皆さんと子供たちに,家族の祈り,家庭の夕べ,福音の研究と指導,そして健全な家族活動を最優先するようお勧めします。必要とされるその他の事柄や活動がどれほど価値のある適切なものであったとしても,それらは,親と家族だけが全うできる天与の義務に取って代えられるものでは決してありません。」78

新会員に手を差し伸べる

ヒンクレー大管長は大勢の人々が教会に加わるのを見て非常に喜んだが,その数字に示されている一人一人について心を配った。教導の業を始めた当初,このように語っている。

「改宗者のますますの増加に伴い,わたしたちは,改宗者が道を見いだせるように助けるため,これまで以上に大きな努力を傾けなければなりません。改宗者の誰もが3つのものを必要としています。それは友人と責任と『神の善い言葉』による養いです(モロナイ6:4)。これらを提供するのはわたしたちの務めであり,わたしたちに与えられた機会です。」79

ヒンクレー大管長は一貫して新会員を強めることについて話した。ジェフリー・R・ホランド長老は,このテーマについてヒンクレー大管長が強調していることについてこう話した。「ヒンクレー大管長は最近,おどけた顔をして自分の前にある机を手で軽くたたきながら十二使徒にこう言いました。『兄弟たち,わたしの人生が終わって,葬儀の最後に霊がこの世から旅立つときにも,皆さん一人一人の目を見て,「改宗者は定着していますか」と言いますからね。』」80

神殿

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〔モルタルを塗るヒンクレー大管長の画像〕

2002年,ヒンクレー大管長はイリノイ州ノーブー神殿の奉献に先立ち,定礎式でモルタルを塗った

1910年,ゴードン・B・ヒンクレーが誕生したときには,稼働中の神殿は世界に4つしかなかった。しかも,4つともユタ州にあった。1961年に使徒として聖任されるまでに,その数は12に増えていた。この発展は目を見張るべきものだったが,ヒンクレー長老は世界中の多くの人が神殿の祝福を完全に受けることができていないことについてしばしば懸念を示していた。1973年,教会神殿委員会の委員長として奉仕していたときに,このように日記に記している。「教会は〔当時建設中だった〕ワシントン神殿の費用で〔多くの小規模〕神殿を建設することができるだろう。そうすれば,人々が神殿まで長距離を旅する代わりに,神殿を人々のもとに届けることができる。」81

1995年に大管長に支持された当時,稼働中の神殿の数は47まで増えていた。しかし,さらに神殿を建てたいというヒンクレー大管長の望みは依然衰えていなかった。このように語っている。「わたしの心からの望みは,必要な全ての地に神殿を建設し,人々がどこにいようと,大きな犠牲を払うことなく主の宮を訪れて自身のための儀式を受け,死者のための身代わりの儀式を受ける機会を得ることです。」82

1997年10月の総大会で,ヒンクレー大管長は歴史的な発表を行った。教会は世界各地に小規模神殿の建設を始めると発表したのだ。83後にこのように語っている。「小規模神殿の構想も,直接的な啓示により与えられたと信じています。」841998年,ヒンクレー大管長は既に建設が計画されている神殿と建設中の神殿に加え,30の小規模神殿を新たに建設することを発表した。「これによって現在儀式が行われている51の神殿の他に,合計47の新しい神殿ができることになります。」聴いていた人たちは皆喜んだ。ヒンクレー大管長はさらにこのように付け加えた。「『わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストが肉体を取って来られてから』2,000年に当たる今世紀の最後までにさらに二つを加え(教義と聖約20;1),ちょうど100にできればと考えています。」また,このように約束した。「さらに新たな神殿建設の発表がなされる〔でしょう〕。」85

2000年10月1日,ヒンクレー大管長は儀式が行われている中で100番目の神殿となるマサチューセッツ州ボストン神殿を奉献した。2000年末までに,さらに二つの神殿を奉献した。2008年にヒンクレー大管長が亡くなったとき,教会には儀式が行われている神殿が125あり,さらに13の神殿の建設が発表されていた。ヒンクレー大管長はそれらのほとんどの計画と建設に携わり,自らそのうちの85の神殿の奉献と13の神殿の再奉献を行った(再奉献した神殿のうち8つは,以前自ら奉献した神殿だった)。

カンファレンスセンター

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〔カンファレンスセンターの画像〕

ヒンクレー大管長が2000年10月の総大会で奉献したカンファレンスセンター

1995年10月の総大会で,ヒンクレー大管長はずっと温めてきた考えについて,ほのめかした。テンプル・スクウェアのタバナクルからこのように語ったのである。「この偉大なタバナクルも,年ごとに,狭くなっていくように感じられます。現在では,さらに大勢の聴衆を収容するもっと大きな施設で,幾つかの地区大会が開かれています。」861996年4月の総大会で,ヒンクレー大管長はこの考えについてさらに詳しく述べた。

「残念ながら,今朝このタバナクルに入りたいと思いながら,それができない方々がたくさんいらっしゃいます。タバナクルの周囲の構内には非常に多くの方がいらっしゃいます。主を礼拝するために先祖の開拓者によって建設されたこの独特な,すばらしい建物には約6,000の快適な座席がしつらえてあります。2時問にわたってこの固い座席に座っておられる皆さんの中には,快適という言葉に異議を唱える方がいらっしゃるかもしれません。

わたしは心の中で,このタバナクルに入りたいと思いながら,それができないでいる方々のことを考えています。1年ほど前にわたしは中央幹部の皆さんに,次のような提案をしました。すなわちもう一つ,この建物の3,4倍の収容力を持つ,より大きな規模の,礼拝施設を建設できるかどうか検討すべき時がやって来たかもしれないということです。」87

1997年7月24日,開拓者がソルトレーク盆地に到着してから150年たったことを記念して,テンプル・スクウェアの北隣の区画にカンファレンスセンターと呼ばれる新たなビルの建設を行うため,入れ式を行った。それから3年もたたない2000年4月に,建物は完成していなかったものの,総大会の最初の部会がここで開催された。ヒンクレー大管長は2000年10月の総大会でカンファレンス・センターを奉献した。奉献の祈りをささげる前に,ヒンクレー大管長は自分の庭で育てていたクルミの木でできた説教台の前に立った。

「今日,わたしたちは永遠の父なる神とその独り子であられる主イエス・キリストを礼拝する家としてこの建物を奉献します。この壇上から全世界に,証と教えが宣言され,生ける神を信じる信仰との偉大な贖いの犠牲に対する感謝の言葉が語り続けられることを希望し,祈っています。」88

イエス・キリストについての証

2000年1月1日,ヒンクレー大管長と顧問,十二使徒定員会は「生けるキリストー使徒たちの証」を発表した。その中で,救い主についてこのように宣言されている。「これまでに地上に生を受けた人々およびこれから生を受ける全ての人々に対して,この御方以上に深遠な影響を及ぼしてこられた人物は存在しません。」89

そして,ゴードン・B・ヒンクレー大管長の生涯にこの御方以上に深遠な影響を及ぼした人物も存在しなかった。ヒンクレー大管長は46年以上にわたってイエス・キリストのの特別な証人として奉仕した。ヒンクレー大管長と使徒が「生けるキリスト」を発表した数か月後,ヒンクレー大管長は末日聖徒の前に立ってこのように述べた。「今朝,わたしが感謝の気持ちを感じている全てのことの中で,とりわけ感謝していることがあります。それはイエス・キリスト,全能なる神の御子,平和の君,聖なる御方に対して生きた証を得たことです。」90

試練と希望

2004年4月の総大会で,ヒンクレー大管長はこのように述べた。「さて,兄弟姉妹の皆さん,個人的な事柄で恐縮ですが,少し話させていただきます。ヒンクレー姉妹が出席していないことにお気づきの方もいらっしゃるでしょう。わたしが中央幹部に召されて46年になりますが,彼女が総大会に出席しなかったのは初めてのことです。……〔1月のアフリカ訪問からの〕帰路,妻は過労で倒れました。それ以来,体調が思わしくありません。……どうやら時計のぜんまいの巻きが緩んできているようで,どうやって巻き戻したらいいか分かりません。

寂しく思います。今月で結婚して67年になります。妻は,才能豊かで有能な5人の子供の母親,25人の孫の祖母,そして増え続けるひ孫の曽祖母です。わたしたちはこれまで,嵐の日も晴れの日も,友として,伴侶として,手に手を取って歩んできました。彼女はこれまで,遠くまで,また広範囲にわたって旅をして,この業に対する証を述べてきました。どこに行っても愛と励ましと信仰を伝えてきました。」91

2日後の4月6日,マージョリー・ペイ・ヒンクレーはこの世を去った。思いやりの心と機知にあふれた,揺るぎない信仰の持ち主だった彼女を愛する何万もの人々がヒンクレー大管長とともに彼女の死を悼んだ。大管長は世界中から寄せられた支援と愛の手紙に感謝した。手紙についてこのように述べている。「悲しんでいるわたしたちに慰めを与えてくれました。」92大勢の人がヒンクレー姉妹の名前で永代教育基金に献金した。

マージョリーを失った悲しみを抱えながら,また自分自身の健康状態も悪化する中,ヒンクレー大管長は教会の業を継続した。やがて,を携帯するようになった。自分の体を支えるために使うこともあったが,それ以上に,杖を振って教会員に挨拶をするために使うことが多かった。トーマス・S・モンソン大管長は,ヒンクレー大管長の杖の使い方,そして杖を使わないことを心配していたヒンクレー大管長の医師との会話をこのように振り返る。医師はこのように言った。「〔わたしは〕ヒンクレー大管長に転んで腰の骨を折ったり,体調を悪くしたりしてもらいたくないのです。でもヒンクレー大管長は,それを振り回したりして,歩くときに使おうとしません。大管長に,『杖は医師により処方されたものであり,本来の目的で使っていただく必要がある』と言ってもらえませんか。」モンソン管長はこう答えました。「ドクター,わたしはヒンクレー大管長の顧問です。彼の医師はあなたです。あなたが言ってくださいよ。」93

2006年初頭,ヒンクレー大管長は95歳でがんを患った。その年の10月の総大会でこのように語っている。「主はわたしが生き長らえるのをお許しになられました。後どれくらい生きられるかは分かりません。しかし,それがどれくらいであっても,わたしは最善を尽くして自分の任務を果たし続けます。……わたしは元気ですし,わたしの健康状態は比較的良好です。しかし,もし後継者の時が来るなら,引き継ぎは円滑に,そしてこの教会の頭である主ののままに進められるでしょう。」94

1年後の2007年10月,ヒンクレー大管長は最後の総大会を次のように締めくくった。「来年の4月にお会いすることを楽しみにしています。わたしは97歳ですが,わたしも次回の大会に出席したいと望んでいます。それまでの間,天の祝福が皆さんとともにありますよう,へりくだり,心から,わたしたちの贖い主,主イエス・キリストの御名によりお祈りします,アーメン。」95

ヒンクレー大管長とヒンクレー姉妹の娘のバージニアは,ヒンクレー姉妹の死後4年間をヒンクレー大管長の「人生の絶頂期」だったと言う。そして,2008年1月20日,大管長が亡くなる1週間前にソルトレーク・シティーの改修された教会堂の奉献に際してささげた祈りについてこのように振り返る。

「父はその祈りの中で,いつもとは非常に異なった方法で,預言者である自身のことを主に嘆願しました。父は感謝を込めてこう祈りました。『ジョセフ・スミスの時代から現代まで,あなたはこの民のために預言者を選び,任命してくださいました。わたしたちはあなたに感謝し,あなたが預言者を慰め,支え,預言者の必要とあなたの偉大な目的に従って,預言者を祝福してくださるようお願いいたします。』」96

2008年1月24日木曜日,ヒンクレー大管長は倒れ,毎週神殿で開かれていた中央幹部との集会に初めて出席できなかった。翌日曜日の1月27日,モンソン管長はヘンリー・B・アイリング管長とボイド・K・パッカー長老の助けを得てヒンクレー大管長に神権の祝福を施した。その日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は自宅で5人の子供とその伴侶に見守られて亡くなった。

数日後,何千人もの人々がカンファレンスセンターの預言者のホールで行われたパブリックビューイングで,ヒンクレー大管長のひつぎの前を通り,敬意を表した。他の教会の指導者,政府や経済界のリーダーも哀悼の言葉を送り,ヒンクレー大管長の影響と教えに感謝を表した。

葬儀はカンファレンスセンターで執り行われ,世界中の教会の建物に放送された。タバナクル合唱団は集会の中で,新しい賛美歌「人に死と呼ばれしもの そは何を意味せん」(“What Is This Thing That Men Call Death?”)を歌った。賛美歌の歌詞はヒンクレー大管長が書いたもので,自分を預言者として頼みにしていた友人たちに向けた,イエス・キリストについての最後の証だった。

人に死と呼ばれしもの

闇の中,音もなく過ぎ行くもの そは何を意味せん

そは終わりにあらず

より優れたる世界 より輝かしき光の訪れなり

おお神よ,わが痛む心に触れたまえ

絶え間なくわが心を乱す この恐れを鎮めたまえ

人知を超ゆる汚れなき希望と信仰により

わが悲しみに打ち勝つ力と平安を与えたまえ

存在するは死にあらず あるのは収めし勝利の報い 

すなわち変化のみ

全ての者を愛されし御方

神の御子,聖者からの賜物なり97

  1. スティーブ・ファイデル,“A Temple to Be Built in Ghana,” Church News, 1998年2月21日付,3参照

  2. ジェフリー・R・ホランド,“Emerging with Faith in Africa,” mormonnewsroom.co.za/article/emerging-with-faith-in-africa;2015年2月11日付

  3. エステル・コランテマー・アブイェーの言葉。“Accra Ghana Temple: Commemoration of the Tenth Anniversary,” africawest.lds.org/accra-ghana-temple-commemoration-of-the-tenth-anniversaryで引用;2015年2月11日付

  4. アドニー・Y・小松の言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith: The Biography of Gordon B. Hinckley(1996年),288で引用

  5. ラッセル・M・ネルソン「霊的な包容力」『リアホナ』1998年1月号,17

  6. ジェフリー・R・ホランド「ゴードン・B・ヒンクレー大管長—信念と勇気の人」『聖徒の道』1995年6月号,6

  7. ベンジャミン・F・ティッビー,Biographical Sketch of Breneman Barr Bitnerで引用。ヒンクレー家およびビトナー家家族歴史記録集,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館所蔵。Silas Richards Company schedule and reports(教会歴史図書館所蔵),1849年9月号も参照

  8. ブライアント・S・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 193で引用大方の推定によると,メイフラワー号の生存者数は49人より少し多いとされている

  9. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 24

  10. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 25

  11. ゴードン・B・ヒンクレー「聖見者ジョセフ」『聖徒の道』1977年10月号,498。「たたえよ,主の召したまいし」『賛美歌』16番を引用

  12. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 45

  13. Teachings of Gordon B. Hinckley(1997年),388

  14. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 46-47で引用

  15. ゴードン・B・ヒンクレー「神がわたしたちにくださったのは,臆する霊ではなく……」『聖徒の道』1985年2,3月号,23

  16. ゴードン・B・ヒンクレー「伝道に出るべきですか」『聖徒の道』1986年7月号,41

  17. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。ジェフリー・R・ホランド「ゴードン・B・ヒンクレー大管長—信念と勇気の人」11で引用

  18. ゴードン・B・ヒンクレー「恐れることはない。ただ信じなさい」『リアホナ』1996年5月号,4

  19. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 62で引用

  20. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 64で引用

  21. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 64参照

  22. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。“His Mission to England Was a Life-Changing Experience,” Deseret Morning News,2008年1月28日付,11で引用

  23. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 75で引用

  24. Elders’ Labor Record of Liverpool Conference of the British Mission of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,1933年7月-1934年2月;教会歴史図書館(ソルトレーク・シティー)所蔵

  25. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 69参照

  26. Discourses of President Gordon B. Hinckley, Volume 1: 1995–1999(2005年),348

  27. Discourses of President Gordon B. Hinckley, Volume 1, 348

  28. ヒーバー・J・グラントの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 84で引用

  29. この出来事について詳しくは,本書の第2章を参照

  30. ゴードン・B・ヒンクレー,パーリー・ガイルズ宛ての書簡,1936年12月7日付;教会歴史図書館(ソルトレーク・シティー)所蔵

  31. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 151-152で引用

  32. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 104で引用

  33. マージョリー・ペイ・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 59で引用

  34. マージョリー・ペイ・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 114-115で引用

  35. マージョリー・ペイ・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 173-174で引用

  36. マージョリー・ペイ・ヒンクレーの言葉。Glimpses into the Life and Heart of Marjorie Pay Hinckley,バージニア・H・ピアス編(1999年),107で引用

  37. ゴードン・B・ヒンクレー,G・ホーマー・ダラム宛ての書簡,1939年3月27日付;教会歴史図書館(ソルトレーク・シティー)所蔵

  38. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 126で引用

  39. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 135-136参照

  40. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 143-144参照

  41. デビッド・O・マッケイの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 176で引用

  42. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 177-181参照

  43. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。Conference Report, 1958年4月,123-124で引用

  44. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。Conference Report, 1958年4月号,123で引用

  45. 田中健治の言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 220で引用

  46. デビッド・O・マッケイの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 234で引用

  47. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。Conference Report, 1958年4月号,71で引用

  48. アレン・E・リットスターの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 313で引用参照

  49. アレン・E・リットスターの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 314で引用

  50. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 315参照

  51. デビッド・O・マッケイ大管長も在任期間の最後の数年間,自分の補佐として大管長会にさらに何人かの顧問を召した

  52. ゴードン・B・ヒンクレー「確信:宗教の神髄」『聖徒の道』1982年4月号,6-7参照

  53. ゴードン・B・ヒンクレー「教会員数500万人到達—発展への道しるべ」『聖徒の道』1982年7月号,85-86

  54. ゴードン・B・ヒンクレー,“The Loneliness of Leadership”(ブリガムヤング大学ディボーショナル,1969年11月4日),speeches.byu.edu

  55. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。フランシス・M・オークィオラ,“Temple Dedication Rewards Faith of Filipino Saints,” Ensign, 1984年11月号,106で引用

  56. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。“New Mission Presidents Receive Instruction from Church Leaders,” Ensign, 1984年9月号,76で引用

  57. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。“Leadership Meetings Focus on Missionary Work, Activation, and Strengthening Members,” Ensign, 1985年5月号,96で引用

  58. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 505参照

  59. マージョリー・ペイ・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 505で引用

  60. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 508で引用

  61. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 508で引用

  62. ジェフリー・R・ホランド「ゴードン・B・ヒンクレー大管長—信念と勇気の人」2

  63. ニール・A・マックスウェルの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 536で引用

  64. ゴードン・B・ヒンクレー「主よ,あなたのすべての教会員を……思い起こしてください」『聖徒の道』1996年7月号,96

  65. ゴードン・B・ヒンクレー「教会は前進する」『リアホナ』2002年7月号,4

  66. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。“President Gordon B. Hinckley Awarded Presidential Medal of Freedom,” mormonnewsroom.org/article/president-gordon-b.-hinckley-awarded-presidential-medal-of-freedom;2015年9月21日付けで引用

  67. ゴードン・B・ヒンクレー「赦す」『リアホナ』2005年11月号,81

  68. ゴードン・B・ヒンクレー「栄えあるイースターの朝に」『リアホナ』1996年7月号,75

  69. 「ゴードン・B・ヒンクレー大管長の軌跡」『追悼—ゴードン・B・ヒンクレー(1910-2008年)』(『リアホナ』2008年4月号付録)13参照

  70. シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 553-554

  71. Teachings of Gordon B. Hinckley, 298

  72. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。ジェフリー・R・ホランド「神からこられた教師」『リアホナ』1998年7月号,29参照

  73. ゴードン・B・ヒンクレー「永代教育基金」『リアホナ』2001年7月号,61

  74. ゴードン・B・ヒンクレー「永代教育基金」61参照

  75. ゴードン・B・ヒンクレー「手を差し伸べ,引き上げる」『リアホナ』2002年1月号,61参照

  76. ゴードン・B・ヒンクレー「教会は前進する」6

  77. ゴードン・B・ヒンクレー「世の策略に対抗して立つ」『聖徒の道』1996年1月号,113

  78. 大管長会の手紙,1999年2月11日付,「方針,発表および割り当て」『リアホナ』1999年12月号,1。このテーマについて,詳しくは本書10章と11章を参照

  79. ゴードン・B・ヒンクレー「改宗者と若い男性について」『聖徒の道』1997年7月号,56。このテーマについて,詳しくは本書22章を参照

  80. ジェフリー・R・ホランド「わたしにつながっていなさい」『リアホナ』2004年5月号,31-32

  81. ゴードン・B・ヒンクレーの言葉。シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith, 325で引用

  82. Teachings of Gordon B. Hinckley, 629

  83. ゴードン・B・ヒンクレー「神殿,改宗者の定着,伝道活動について」『聖徒の道』1998年1月号,57-61参照

  84. ゴードン・B・ヒンクレー「大管長会定員会」『リアホナ』2005年12月号,40

  85. ゴードン・B・ヒンクレー「福音の『最高の祝福』をもたらす新しい神殿」『聖徒の道』1998年7月号,96。小規模神殿を建設することに関する霊感について,詳しくは本書23章を参照

  86. ゴードン・B・ヒンクレー「集いの時」『聖徒の道』1996年1月号,4

  87. ゴードン・B・ヒンクレー「栄えあるイースターの朝に」74

  88. ゴードン・B・ヒンクレー「この偉大な千年紀の始めの年に」『リアホナ』2001年1月号,82

  89. 「生けるキリスト—使徒たちの証」『リアホナ』2000年4月号,2

  90. ゴードン・B・ヒンクレー「わたしの証」『リアホナ』2000年7月号,83。このテーマについて,詳しくは本書8章と24章を参照

  91. ゴードン・B・ヒンクレー「結びの言葉」『リアホナ』2004年5月号,103-104

  92. ゴードン・B・ヒンクレー「人生で出会う女性たち」『リアホナ』2004年11月号,82

  93. トーマス・S・モンソン「神よ,またうまで」『追悼—ゴードン・B・ヒンクレー(1910-2008年)』30で引用

  94. ゴードン・B・ヒンクレー「山を動かす信仰」『リアホナ』2006年11月号,82

  95. ゴードン・B・ヒンクレー「閉会に当たり」『リアホナ』2007年11月号,108

  96. バージニア・H・ピアス「娘からの追悼の言葉」『追悼—ゴードン・B・ヒンクレー(1910-2008年)』18

  97. ゴードン・B・ヒンクレー,“What Is This Thing That Men Call Death?”『追悼—ゴードン・B・ヒンクレー(1910-2008年)』で引用32