聖文
教義と聖約134


第134章

千八百三十五ねんがつ十七にち、オハイオしゅうカートランドでひらかれたきょうかいそうかいにおいてぜんかいいっさいたくされた、せいほうりつぜんぱんかんするしょしんせんげん。『きょうせいやく』のしょはんないようとしてていあんされたこうけんとうするために、おおくのせいあつまった。そのときに、このせんげんにはつぎのようにまえきがけられた。「このせいほうりつぜんぱんかんするわたしたちのしょしんあやまってかいしゃくされ、かいされることのないように、わたしたちは、これらにかんするわたしたちのけんかいほんしょわりにべておくことがてきせつであるとかんがえた。」

1-4せいりょうしんれいはいゆうまもらなければならない。5-8すべてのひとぶんせいし、ほうりつおもんじ、そんちょうしなければならない。9-10しゅうきょうだんたいみんてきけんりょくこう使してはならない。11-12ひとびとぶんしんぶんざいさんまもることをせいとうとされる。

1わたしたちはしんじる。すなわち、せいにんげんのためにかみによってもうけられた。そして、かみひとびとに、せいかんするかれらのこうたいしてせきにんわせ、ひとびとしゃかいふくあんぜんのためにほうりつせいていし、こうするせきにんう。

2わたしたちはしんじる。すなわち、りょうしんゆうこう使ざいさんしょゆうけんかん、およびせいめいかくじんしょうするほうりつせいていし、かつかたまもらないかぎり、いかなるせいへいそんりつすることはできない。

3わたしたちはしんじる。すなわち、すべてのせいはそのほうりつこうするためにかならかんちょうかんようする。また、もしきょうこくならばじんみんこえによって、そうでなければしゅけんしゃによって、こうへいかつこうせいほうりつこうするものさがもとめて、しなければならない。

4わたしたちはしんじる。すなわち、しゅうきょうかみによってもうけられているものである。そして、そのしゅうきょうじょうかんがえがにんけんゆうしんがいするようにうながすものでないかぎり、ひとしゅうきょうじっせんについてはかみに、しかもかみにのみせきにんう。しかし、にんげんほうりつには、れいはいそくせいていかんしょうしてひとりょうしんそくばくするけんはないし、おおやけであれじんであれ、れいはいほうしきさしするけんもない。ぶんかんはんざいすべきであるが、けっしてひとりょうしんはいすべきではない。つみのあるものばっすべきであるが、けっしてこころゆうよくあつすべきではない。

5わたしたちはしんじる。すなわち、すべてのひとは、そのゆうじょうけんせいほうりつによってされているかぎり、ぶんのそれぞれのせいし、ささえるう。あんぼうがいぼうどうは、このようにされているすべてのこくみんにとってつかわしくなく、それそうおうばっせられなければならない。すべてのせいは、こうえきしょうするために、しかしながらどうりょうしんゆうしんせいたもちながら、せいしんはんだんさいてきおもわれるほうりつせいていするけんつ。

6わたしたちはしんじる。すなわち、すべてのひとおのおのそのしょくにおいてとうとばれるべきである。すなわち、とうしゃちょうかんは、つみのないものし、つみのあるものばっするためににんじられているので、そのしょくにあるものとしてとうとばれるべきである。また、すべてのひとほうりつおもんじ、そんちょうすべきである。ほうりつがなければ、へいきょう調ちょうちつじょきょうってわられるからである。にんげんほうりつは、ひとひととのあいだじんおよびこくみんとしてわたしたちのしょりっするというとくべつもくてきのためにせいていされており、てんからあたえられたかみりっぽうは、しんこうれいはいのためにれいにかかわるしょかんするそくさだめたものであり、ひとはそのりょうほうについてつくぬしたいしてせきにんつのである。

7わたしたちはしんじる。すなわち、とうしゃこっせいは、すべてのこくみんがそのしゅうきょうじょうしんじょうゆうこう使できるようにするために、ほうりつせいていするけんつとともに、そのをもう。しかし、ほうりつけいすうけいはらわれ、かつそのしゅうきょうじょうかんがえがあんぼうがいいんぼうせいとうとするものでないかぎり、かれらはこくみんからこのとっけんうばったり、あるいはそのしんじょうつことをきんじたりするせいとうけんたない。

8わたしたちはしんじる。すなわち、はんざいすいこうはそのざいせいしつしたがってばっせられるべきである。さつじんはんぎゃくごうとうせっとう、およびすべてのてんにおけるいっぱんてきへいしんがいは、そのはんざいせいひとおよぼすあくけいこうしたがって、そのはんざいおこなわれたせいほうりつによってばっせられるべきである。また、すべてのひとは、こうきょうへいあんねいのために、ぜんりょうほうりつはんするものしょばつすることにすすんでそのちから使つかうべきである。

9わたしたちは、しゅうきょうてきえいきょうりょくみんじょうせいこんごうすることをせいとうしんじない。そのようにすれば、あるしゅうきょうだんたいいくせいされ、べつだんたいはそのしゅうきょうじょうとっけんきんあつされて、そのかいいんこくみんとしてのじんてきけんていされることになる。

10わたしたちはしんじる。すなわち、すべてのしゅうきょうだんたいは、そのだんたいそくていしたがって、ちつじょみだこうたいしてそのかいいんしょぶんするけんつ。ただし、そのしょぶんかいいんとしてのかくぶんかんしてだけである。しかし、いかなるしゅうきょうだんたいも、ざいさんせいめいけんについてひとびとさばけんげんや、かれらからこののものをけんげんや、せいめいしんたいけんにさらすけんげんや、かれらになんらかのたいばつくわえるけんげんっていない。しゅうきょうだんたいができることは、そのだんたいからかれらをもんすることと、かれらのかいいんかくすことだけである。

11わたしたちはしんじる。すなわち、ひとびとしんたいてきぎゃくたいくわえられたり、ざいさんけんじんかくしんがいされたりするあい、それをするほうりつがあれば、すべてのとうあつかいとこうしょうみんぽううったえるべきである。しかし、すぐにほうりつうったえてきゅうじょけることができないきゅうのときには、すべてのひとぶんしんゆうじんざいさんせいを、あらゆるひとほうしゅうげきしんがいからまもることはせいとうである。

12わたしたちはしんじる。すなわち、しょこくふくいんつたはいからすくわれるようにじんけいこくすることはせいとうである。しかし、れいしょゆうしゃねがいにはんして、れいくちしをしたり、ふくいんつたえたり、バプテスマをほどこしたりすることはただしくない。また、すこしでもかれらにかんしょうしたり、かんしたりして、げんにおけるかれらのきょうぐうまんいだかせ、それによってじんめいけんにさらすことはただしくない。このようなかんしょうほうかつとうであり、ひとれいじょうたいなかくことをようにんするすべてのせいあんねいにとってけんである。