歴代大管長の教え
第3章:逆境-わたしたちの永遠の進歩のための神の計画の一部


第3章

逆境─わたしたちの永遠の進歩のための神の計画の一部

「〔死すべき世の苦難が〕わたしたちを謙虚にさせ,精錬し,教え,祝福をもたらすとき,それは神の御手に使われる力強い手段となって,わたしたちをより善い人にします。」

ハワード・W・ハンターの生涯から

1980年4月の総大会で,当時十二使徒定員会会員であったハワード・W・ハンター長老は,サモアで大群衆に混じってロングボートレースを見たときのことを次のように語っている。「観衆は落ち着かない面持ちで,最初に姿を現すボートを見ようと,目を凝らして沖を見やっていました。すると突然,観衆から大歓声が上がり,はるかかなたにボートが見えてきました。それぞれのボートには,50人から成る屈強なこぎ手が乗っていて,呼吸を合わせてこいでいます。水しぶきを上げて波間を一糸乱れず巧みにこぎ進むさまは,まさに絵のようでした。

ゴールに近づくにつれて,ボートに乗っている人々の姿がはっきりと見えてきました。力自慢の若者たちが一生懸命にこいでいますが,50人を乗せたボートはその重さのために,水の抵抗という大きな反対の力に逆らいながら進んでいます。

最初のボートがゴールしたとき,群衆の歓声はまさに最高潮に達しました。」

レースの後,ハンター長老はボートが係留されている場所へ歩いて行き,こぎ手の一人と言葉を交わした。その人はボートについてこう説明した。ボートの船首は「抵抗をできるだけ少なくしてスピードが上げられるように,水を突っ切って,つまり水を分けて進むように造られています。逆に,オールでこぐ人は水の抵抗を利用してこぐことによって,ボートを前進させます。このように,抵抗は,妨げる力にも,前進させる力にもなるのです。」1

ハンター長老はサモアのボートレースでの経験を紹介してから,逆境の目的についての話を始めた。使徒としての務めを果たしながら,何度も逆境について語り,助言と希望と励ましを与えた。また,個人的な経験から,命に関わる病気やその他の試練に耐えることについて語った。ハンター長老は,苦難のときに「イエス・キリストにはわたしたちの重荷を軽くする力がある」と,確固とした信念をもって証を述べている。2

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ベテスダの池でのキリストの絵

救い主は,ベテスダの池で一人の病人に「なおりたいのか」と問いかけられたように,試練の中にいるわたしたち一人一人にも同じ言葉を掛けられる(ヨハネ5:6)。

ハワード・W・ハンターの教え

1

逆境はわたしたちの永遠の進歩のための神の計画の一部である

だれの人生を見ても,良い時もあれば悪い時もあります。確かにわたしたちは世の中で数多くの喜びと悲しみを目にします。計画を変えて,新しい方向に進む場合もたくさんあります。また初めは必ずしも祝福のように見えないもの,あるいは感じられないものが,わたしたちを謙虚にし,忍耐や信仰を強めてくれる祝福となることも多くあります。わたしたちは皆,時折そのような経験をします。これから先もそうだと思います。 ……

……スペンサー・W・キンボール大管長は,苦しみ,落胆,また自分の力ではどうにもならない状況について深い洞察を持つ人でしたが,あるときこう述べています。

「わたしたち人間は,自分の人生から肉体の苦痛や精神的な苦悩を追い出し,安楽と慰めを保ち続けようとします。しかし,もし悲しみと苦痛に対して扉を閉ざしたとすれば,最良の友と恩人を締め出していることになるかもしれません。苦しみは,人が忍耐と堅忍と克己を学ぶときに,その人を聖徒にするのです。」〔Faith Precedes the Miracle(1972年),98〕

この言葉の中でキンボール大管長は,人生のある種の経験に対して扉を閉ざすことについて言及しています。……わたしたちの人生では,扉が度々閉ざされ,その結果,ひどい苦悩と心痛を味わうことがあります。しかしわたしは,そのような扉が一つ閉まると,人生の他の領域に希望と祝福をもたらす別の扉(しかもおそらく二つ以上)が新たに開かれると信じています。その希望と祝福は,そのような経験をしなければ見いだすことができなかったかもしれないものなのです。……

……〔マリオン・G・ロムニー会長〕は数年前,最も信仰が篤く忠実な人も含めて,人は皆その人生の中で逆境と苦難を経験すると語り,ジョセフ・スミスの次の言葉を引用しました。「シオンの山にやって来て,天に上げられるために,人は苦しみを受けなければなりません。」〔『歴代大管長の教え─ジョセフ・スミス』230。Conference Report,1969年10月,57参照〕

ロムニー会長はさらにこう言っています。

「だからと言ってわたしたちはことさらに苦しみを追い求めているわけではありません。避けられるものは,避けるようにしています。しかし,この世では逆境と苦難という試練の中で試されるということを,わたしたちは今知っていますし,死すべき世に来ることを選んだときにも皆知っていました。 ……

〔さらに〕神の子供たちを試みるために〔そして,精錬するために〕御父が立てられた計画では,救い主御自身もその試みを免れることはありませんでした。主が耐えると約束し,実際に耐えてくださった苦痛は,全人類が受ける苦痛を合わせたものに等しかったのです。救い主は身を震わせ,血を流し,できればその杯を避けたいと望みながらもこう言われました。『わたしは杯を飲み,人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。』(教義と聖約19:18-19)」(Conference Report,1969年10月,57)

わたしたちも皆「人の子らのために……備え」を終えなければなりません〔教義と聖約19:19〕。キリストの備えはわたしたちの備えとまったく違うものですが,確かにわたしたち全員になすべき備えがあり,開くべき扉があるのです。その大切な備えをするためには,多少の苦しみ,人生における予期せぬ方向転換,また「子供が父に従うように」従順を求められることがしばしばあります〔モーサヤ3:19〕。神から命じられた備えを終えて,日の栄えの扉を開けるのには,時間が掛かるかもしれません。実に,確かに,死すべき生涯の最後の数時間まで掛かることでしょう。3

わたしたちがこの死すべき世に来たのは,反対のものに遭うためです。反対のものに遭うことは,永遠に進歩するための計画の一部です。誘惑や病気,苦痛,悲しみがなければ,善も徳も,幸福に対する感謝も喜びもありません。……わたしたちの進歩を妨げるこの反対の力が,それに打ち勝つ機会をも与えるということを忘れてはなりません。4

2

死すべき世の艱難は成長と経験のためにある

〔死すべき世の苦難が〕わたしたちを謙虚にさせ,精錬し,教え,祝福をもたらすとき,それは神の御手に使われる力強い手段となって,わたしたちをより善い人,もっと感謝する人,もっと愛情ある人とし,また苦難の時期を過ごしている他の人々をもっと思いやる人にします。

実に,わたしたちは皆,個人としても集団としても困難な時期を迎えることがあります。しかし,昔も現代も,最も厳しい時でさえ,そのような問題や預言が与えられる目的は,義人を祝福すること,そして義の度合いが少ない人々を悔い改めに導くように助けることにほかならないのです。神はわたしたちを愛しておられ,聖文にはこう述べられています。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。」〔ヨハネ3:165

モルモン書の偉大な族長リーハイは,困苦と対立のさなかに荒れ野で生まれた息子ヤコブに励ましの言葉を与えました。ヤコブの生涯は,彼が期待していたようなものではなく,理想どおりのものではありませんでした。ヤコブは数々の苦難と挫折を味わいましたが,そのような苦難は聖別されて息子ヤコブの益になると,リーハイは約束しました(2ニーファイ2:2参照)。

それからリーハイは,人々によく知られている次の言葉を付け加えています。

「それは,すべての事物には反対のものがなければならないからである。……もし事物に反対のものがなければ,義は生じ得ないし,邪悪も,聖さも惨めな状態も,善も悪も生じ得ない。」(2ニーファイ2:11

わたしは,人生の苦痛や落胆について説かれたこの言葉から,長年にわたって大きな慰めを得てきました。また神の御子も含めて,男女を問わず最も偉大な人々が,義と邪悪,聖さと惨めな状態,善と悪の違いをよく理解するためにそれらの反対のものに出遭ったということから,わたしはさらに大きな慰めを得てきました。暗くじめじめしたリバティーの監獄の中で,預言者ジョセフ・スミスは次のことを学びました。すなわち,もし艱難を経験するように定められたとしても,それはわたしたちを成長させ,体験を得させるためのものであり,最終的にはわたしたちの益になるということです(教義と聖約122:5-8参照)。

一つの扉が閉まると,別の扉が開きます。獄中の預言者もそれを体験しました。わたしたちは,何が入り口となり出口となるか,すべてを適切に判断できるだけの知恵と体験を持っているとは限りません。神が御自分の愛する子供たち一人一人のために備えておられる住まいには,特に定められた廊下や手すり,特別なカーペットやカーテンがあり,主はわたしたちに,その住まいを受け継ぐためにそこを通って行くようにと望んでおられるのです。……

わたしたちは,人生のさまざまな時期に,しかもおそらく何度も繰り返して,神はわたしたちが知らないことを御存じであり,わたしたちが理解していないことを理解しておられるということを認める必要があります。「わが思いは,あなたがたの思いとは異なり,わが道は,あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」(イザヤ55:8

皆さんの中に,道からそれた子供を抱えて悩んでいる人がいるなら,経済的な問題や情緒的な苦しみで自分の家庭や幸福が危機的な状態にある人がいるなら,また死に直面したり健康を害したりしている人がいるなら,皆さんの心に平安がありますように。わたしたちは,自分の力で耐えられないような誘惑を受けることはありません〔1コリント10:13アルマ13:2834:39参照〕。わたしたちには回り道や失望と思える道が,主の目にはまっすぐで狭い道なのです。6

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獄中のジョセフ・スミスの画像

ジョセフ・スミスがリバティーの監獄にいたとき,主は彼に啓示を与え,逆境は人に経験を与え,益をもたらすと告げられた。

3

わたしたちには苦難の時期でさえ楽観的であり自信を持ち続けるに足る十分な根拠がある

死すべき生涯にはいつも多少の苦難がありました。また,今後も常にそうです。しかし,わたしたちが知るべき事柄を知っており,望まれているような生活をしていれば,悲観や絶望の入り込む余地はなく,言い訳することもありません。

わたしはこれまでに2度の世界大戦と,朝鮮戦争,ベトナム戦争,その他を目にしてきました。世界恐慌の時代を過ごし,また法科大学院に通いながら新たな家庭を築きました。株式市場と世界経済が混乱するのを目にし,また数人の独裁者が異常な行動に走るのを見ました。そのような出来事が全世界に多くの苦難をもたらしました。

世界の問題は皆さんの時代だけにあると,あるいは皆さんが経験している以上の悪い事態はないと,あるいは事態は決してよくならないと,皆さんが考えることのないようわたしは願っています。わたしは皆さんに断言します。事態はこれまでの方が悪かったのであって,必ずよくなっていきます。特に,イエス・キリストの福音に従って生活し,福音を大切にして人生に祝福がもたらされるようにするとき,必ずよくなります。

一部の人が語っていることとは違って,この世界には幸せであり楽観的であり自信を持ち続けるに足る十分な根拠があります。時の初め以来,いつの時代にも,克服すべき事柄があり,また解決すべき問題がありました。7

4

人がキリストのもとに来るとき,キリストはその人の重荷を軽くしてくださる

「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30) ……

神の御子御自身によるこの驚くべき援助の手は,当時のガリラヤ人だけに差し伸べられたものではありません。負いやすい主のくびきを負い,主の軽い荷を引くようにとの呼びかけは,過去の世代に限って与えられたものではありません。それは,全ての民,全ての町や国,あらゆる所に住む全ての男女,子供に向けた普遍の招きなのです。

困難な問題に満ちた現代にあって,わたしたちは,この世の煩いや悩みを解決するこの決して誤ることのない答えを無視することがあってはならないのです。ここに一人一人に平安と守りが与えられるとの約束があります。あらゆる時代の罪を赦す力があります。わたしたちもまた,イエス・キリストにはわたしたちの重荷を軽くする力があることを信じなければなりません。キリストのもとへ行き,そこで労苦を解かれ休みを得なければなりません。

確かに,そうした約束には義務が伴います。「わたしのくびきを負〔いなさい〕」と主は告げておられます。聖書の時代に,くびきは畑を耕す者にとって非常に助けとなる道具でした。くびきを使えば,畑を耕したり荷車を引いたりするときに荷重を分散させながら,2頭の動物が力を合わせて働くことができました。1頭ではとても負い切れない荷重でも,くびきでつながれた2頭が一緒になれば,それぞれ同じ力で難なく引くことができるのです。主のくびきを負うには,大きな,熱心な努力を必要とします。しかし,心から改心した人々にとって,そのくびきは負いやすく,荷は軽くなるのです。

キリストはお尋ねになります。「なぜ独りで人生の重荷に立ち向かおうとするのですか。なぜ一時的な解決にしかならないこの世的な力に頼ろうとするのですか。」重荷を負っている人のために,キリストのくびきがあります。それは神の傍らにいることで得られる力と平安であって,それにより,さまざまなチャレンジに立ち向かい,この死すべき世の硬い土壌を掘り起こす仕事に耐える支えとバランスと力が与えられるのです。

確かに,人生の重荷は人によってさまざまですが,全ての人が重荷を負っています。…… もちろん,悲しみの中には,天の御父の勧告に従わずに世の罪に染まったためにもたらされるものもあります。理由はどうあれ,人生のチャレンジから完全に逃れられる人はだれもいないように思われます。キリストは一人一人に,そして全ての人にこう呼びかけておられます。「いずれにせよ皆が何らかの重荷を負い,くびきを負わなければならないのであれば,わたしのくびきを負ってみたらどうでしょうか。わたしのくびきは負いやすく,わたしの重荷は軽いと約束しましょう。」(マタイ11:28-30参照)8

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笑顔の若い男性の画像

「あらゆる時代に,キリストの弟子たちは,完全な希望の輝きを心に満たすように勧められており,実にそう命じられています。」

5

末日聖徒は終わりの時の艱難を恐れる必要はない

聖文が告げているように,将来,全世界が何らかの苦難に出遭う時があります。わたしたちの神権時代には,遺憾ながら不義が広く見られ,それに伴う苦難と苦痛と罰が及ぶことは避けられません。神は御自分がふさわしいと思われるときにその不義を短くされます。しかし,わたしたちの務めは,完全に忠実に生活することであり,世に災いが下されることや世界が終わることを心配しすぎることではありません。わたしたちの務めは,福音を生活に生かすこと,また輝く光となり,丘の上の町となることです。そして,イエス・キリストの福音の麗しさと,戒めを守る全ての時代の全ての人に必ず与えられる喜びと幸せを広めるのです。

この最後の神権時代には,大きな艱難があります(マタイ24:21参照)。戦争と戦争のうわさがあり(教義と聖約45:26参照),また全地が混乱するということを(教義と聖約45:26参照),わたしたちは知っています。全ての神権時代にそれぞれ苦難の時期がありましたが,わたしたちの時代にはひどい苦難があるでしょう(2テモテ3:1参照)。悪人が栄えるでしょう(2テモテ3:13参照)。とは言え,悪人は非常に頻繁に栄えてきました。数々の災害が起こり,不法がはびこります(教義と聖約45:27参照)。

このような数々の預言があることからおのずと恐れの気持ちが生じることは避けられません。その恐れは若い世代に限りません。わたしたちが理解していることを理解していないあらゆる年代の人が抱く恐れです。

しかし,忠実な末日聖徒はこのような気持ちを抱く必要がないことを,わたしは強調したいと思います。そのような気持ちは神から来るものではありません。大いなるエホバは古代のイスラエルにこう告げておられます。

「あなたがたは強く,かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ,おののいてはならない。あなたの神,主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず,またあなたを見捨てられないであろう。 ……

主はみずからあなたに先立って行き,またあなたと共におり,あなたを見放さず,見捨てられないであろう。恐れてはならない,おののいてはならない。」(申命31:6,8

また,現代のイスラエルのすばらしい世代である皆さんに,主はこう告げておられます。

「それゆえ,小さい群れよ,恐れてはならない。善を行いなさい。この世と地獄をあなたがたに対して連合させなさい。あなたがたがわたしの岩の上に建てられるならば,それらは打ち勝つことができないからである。……

あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない。」(教義と聖約6:34,36

このような勧告が現代の聖文の方々にちりばめられています。次のすばらしい励ましの言葉に耳を傾けてください。「幼い子供たちよ,恐れてはならない。あなたがたはわたしのものであり,わたしはすでに世に勝っており,そしてあなたがたは父がわたしに与えてくださった者に属しているからである。」(教義と聖約50:41)「まことに,わたしは友であるあなたがたに言う。恐れてはならない。心に慰めを得なさい。まことに,いつも喜び,すべてのことについて感謝しなさい。」(教義と聖約98:1

このすばらしい勧告を踏まえて,わたしたちにはもっと多くのことを喜び,落胆することを少なくし,わたしたちに与えられているものや豊かな神の祝福について感謝し,与えられていないものや,この世代や他の世代に多難な時代が訪れるかもしれないという心配をあまり口にしないようにする義務があると,わたしは考えています。

希望にあふれ,胸の高鳴る時代

末日聖徒にとって,この時代は希望にあふれ,胸の高鳴る時代です。すなわち,回復における最も大いなる時代の一つであり,したがってあらゆる神権時代の中で最も大いなる時代の一つです。わたしたちの時代は全ての神権時代の中で最も大いなる神権時代だからです。わたしたちは信仰と希望を持つ必要があります。この二つはキリストの弟子にとって重要な,基本的な徳なのです。わたしたちは神を信頼し続けなければなりません。それがわたしたちの信仰の規範における第一の原則だからです。神が一切の権威を持っておられること,わたしたちを愛しておられること,またわたしたち個人の生涯においても広く世界においても神の業はとどめられることや妨げられることはないということを,わたしたちは信じなければなりません。 ……

わたしは主の僕として主の御名により約束します。神は御自分の民を常に守り,気遣ってくださいます。あらゆる時代にあらゆる人が苦難を経験してきたように,わたしたちも苦難を経験することでしょう。しかし,イエス・キリストの福音があるので,皆さんには絶対的な希望と約束と確信があります。主は聖徒たちを治める権威をお持ちであり,御自分の民のために平安と防御と安全の地を必ず備えてくださいます。神を信じる信仰を持つとき,わたしたちは,個人としても全人類としても,もっと良い世界を望むことができるのです。かつて預言者エテルは次のように教えました(彼は苦難についてよく知っていました)。「さて,神を信じる者はだれであろうと,もっと良い世界を,まことに神の右に一つの場所を,確かに望むことができる。この望みは信仰から生じ,人々にとってその心をしっかりとした不動のものにする錨となる。そしてそのような人々はいつも多くの善い行いをし,神をあがめるようになる。」(エテル12:4

あらゆる時代に,キリストの弟子たちは,完全な希望の輝きを心に満たすように勧められており,実にそう命じられています(2ニーファイ31:20参照)。

恐れを払拭するように努める……

……キリストとキリストの教え,戒め,約束をわたしたちの信仰と希望の基とすれば,わたしたちは,実に驚くべき,まったく奇跡的なものに頼ることができます。それは,紅海を分け,現代のイスラエルを「聖徒を悩ますものそこにあらず」と言われる地に導く力のあるものです(『賛美歌』17番)。困難な日々に人々が感じることのある恐れの気持ちは,サタンが人類を不幸にするために用いる武器庫の中の主要な武器の一つです。恐れる人は,人生の戦いで悪と戦う力を失います。そのため,悪しき者の力は常に人の心の中に恐れを生じさせようとします。あらゆる時代に,人類は恐れに直面してきました。

神の子供,またアブラハム,イサク,ヤコブの子孫として,わたしたちは人々の中から恐れを払拭するように努めなければなりません。気弱で,恐れを抱いている人々はよい働きができませんし,決して神の業を行えません。末日聖徒には神から割り当てられた果たすべき使命があり,恐れや不安でそれを無にしてはなりません。

初期の主の使徒の一人がこう言っています。「恐れを克服する鍵が預言者ジョセフ・スミスを通して与えられました。『備えていれば恐れることはない。』(教義と聖約38:30)この神聖なメッセージを今日,全てのステークとワードで繰り返し述べる必要があります。」(ジョン・A・ウイッツォー長老,Conference Report,1942年4月,33)

わたしたちは神の戒めに完全に従う備えができているでしょうか。自分の欲を制する備えができているでしょうか。義の律法に従う備えができているでしょうか。これらの質問に正直に「はい」と答えることができれば,自分の生活から恐れを立ち去らせることができます。確かに,わたしたちの心の中の恐れの度合いは,義にかなった生活を送る備えによって測ることができるのです。それは,あらゆる時代の全ての末日聖徒を特徴づける生き方です。

末日に生きるという特権と誉れと責任

話を終えるに当たって,わたしが預言者ジョセフ・スミスの言葉から読んだ最もすばらしい言葉の一つを引用します。預言者はその生涯において数々のひどい苦難に直面し,言うまでもなく,勝利を得るためにこの上ない代価を払いました。それでも勝利を収めました。預言者は幸せで,強健で,楽観的な人でした。彼を知っていた人々は,最も悲惨な時期でさえ彼の力強さと勇気を感じたのです。彼は落ち込むことがなく,落胆しても長くその状態のままでいることはありませんでした。

彼はわたしたちの時代,すなわち,皆さんとわたしの時代のことを「〔過去のさまざまな時代の〕預言者たち,祭司たち,王たちが,特別な喜びをもって語ってきた」と述べています。いにしえの神の証人であるこれらの人々は皆,「わたしたちが生きている時代を,喜びに満ちた期待をもって待ち望み,すばらしい喜びに満ちた期待に胸を高鳴らせながら,このわたしたちの時代について歌い,書き記し,預言しました。……わたしたちは,末日の栄光をもたらすために神に選ばれている恵まれた民です。」〔『歴代大管長の教え─ジョセフ・スミス』186〕

何とすばらしい特権でしょうか。何とすばらしい誉れでしょうか。何とすばらしい責任でしょうか。そして,何という喜びでしょうか。わたしたちにはこの世においても永遠にわたっても,わたしたちの恵まれた生活と与えられている約束を喜び,感謝するに足る十分な根拠があるのです。9

研究とレッスンのための提案

質問

  • 逆境がわたしたちの永遠の進歩のための神の計画の一部であるということを知るのは,わたしたちにとってどのような助けとなるでしょうか(第1項参照)。逆境が死すべき世に必要なのはなぜだと思いますか。

  • 逆境の目的について述べた第2項のハンター大管長の教えを復習してください。これまでに逆境がどのような形でわたしたちの益になるのを目にしてきましたか。どうすれば主の永遠の観点から逆境を見ることができるようになるでしょうか。

  • ハンター大管長が教えているように,わたしたちには苦難の時期でさえ幸せであり楽観的であるに足る十分な根拠があります。それはなぜでしょうか(第3項参照)。どうすればそのような時期にもっと楽観的になれるでしょうか。非常に厳しい逆境の中であってもわたしたちが受け続ける祝福に,どのようなものがあるしょうか。

  • 重荷を負い,軽くしてあげようという救い主の招きの言葉を,わたしたちはどのように受け入れているでしょうか(第4項参照)。主のくびきを負うとは,どういう意味でしょうか。苦難のときに救い主はどのようにあなたを助けてくださったでしょうか。

  • 終わりの時の艱難について抱く恐れの気持ちは神から来るものではないと,ハンター大管長は教えています(第5項参照)。恐れをもって生活することは,どのような点で有害でしょうか。どうすれば恐れではなく,希望と信仰をもって生活できるでしょうか。

関連聖句

ヨハネ14:2716:33ヘブル4:14-165:8-91ニーファイ1:20アルマ36:3教義と聖約58:2-4101:4-5121:7-8122:7-9

学ぶ際のヒント

「学ぶのに最も良い時間は夜の休息の後の朝であると,多くの人が感じています。…… 一日の仕事や煩わしいことが一段落した静かな時間に学ぶことを好む人々もいます。……大切なのは,一日のいつかということよりも,学ぶために決まった時間を取るということです。」(ハワード・W・ハンター,“Reading the Scriptures,” Ensign, 1979年11月号,64)注

  1. 「神は人々を試される」『聖徒の道』1980年9月号,35参照

  2. 「わたしのもとにきなさい」『聖徒の道』1991年1月号,19参照

  3. 「扉」『聖徒の道』1988年1月号,60-61参照

  4. 「神は人々を試される」36,38参照

  5. “An Anchor to the Souls of Men,” Ensign, 1993年10月号,71

  6. 「扉」62-63参照

  7. “An Anchor to the Souls of Men,” 70

  8. 「わたしのもとにきなさい」18-19参照

  9. “An Anchor to the Souls of Men,” 71-73