歴代大管長の教え
第20章:救い主が示された慈愛の道を歩む


第20章

救い主が示された慈愛の道を歩む

「思いやりの心を持つという試金石は,主の弟子としての特質を測る物差しです。神を愛し,互いに愛し合う度合いを測る物差しなのです。」

ハワード・W・ハンターの生涯から

ハワード・W・ハンター大管長は次のように教えた。救い主は「わたしたちを愛され,わたしたちに仕えられ,その命を与えてくださいました。…救い主が行われたように,わたしたちも人に与える努力をするべきです。」1特にハンター大管長は,毎日の生活の中で救い主の慈愛の模範に従うように教会員を励ました。

ハワード・W・ハンター大管長の慈愛に満ちた行いは,法律の専門家としての職業の中にも色濃く表れていた。同僚の弁護士は次のように語っている。

「彼は〔無料の〕法律サービスに多くの時間を使っていました。……それは,依頼人に請求書を送らないこともあったからです。…… 彼は依頼人の友人,案内役,相談相手であり,報酬を受け取ることよりも,依頼人が必要としている支援が得られることに強い関心を持っている法律家だと思われていました。」2

慈愛は,教会で奉仕するハンター大管長が持つ特質でもあった。ハンター大管長は自分に最も影響を与えた教師であると述べたある女性は,その理由についてこう説明した。

「〔ハンター大管長が〕人のことを最優先とし,耳を傾けて理解し,自分の経験を分かち合って人を愛していたのをいつも見てきました。それは,ハンター大管長の大きな喜びの一つだったのです。ハンター大管長は,そのような徳の大切さを理解し,実践することに喜びを感じるように,わたしに教えてくれました。」3

ハンター大管長と同じカルフォルニア州のステークに集っていた女性も,同様の賛辞を送っている。

「何年も前,わたしたち家族がパサディナステークに住んでいたとき,ハワード・W・ハンター大管長はステーク会長を務めていました。わたしの父が亡くなり,わたしと姉を育てる母が一人残されました。わたしたちのステークは非常に広い地域をカバーしていて,わたしたちは目に留まるような家族ではなかったのですが,それでもハンター会長はわたしたちのことを個人的に知っていました。

わたしの心の奥深くに刻まれたハンター会長に関する記憶は,わたしの自尊心を築く一因となっています。ステーク大会が終わるたびに,わたしたちは並んでハンター会長と握手するのを待ちました。ハンター会長はいつもわたしの母の手を取り,こう言いました。『お元気ですか,セッションズ姉妹。ベティとキャロラインはどうしてますか。』わたしは,ハンター会長がわたしたちを名前で呼ぶのを聞いて感激しました。ハンター会長がわたしたちを覚えていて,幸福を願っていることが分かりました。そのことを思い出すと,今でも心が温かくなります。」4

ハンター大管長はかつてこう言った。「わたしたちの使命は,仕え,救い,強め,高めることであると感じています。」5十二使徒の兄弟たちのコメントは,ハンター大管長がどのようにしてその使命を立派に果たしたかを表している。ある十二使徒はこう言っている。「ハンター大管長は,人を安心させるすべを知っています。支配的ではありません。人の話をよく聞く人です。」別の十二使徒はこう言っている。「ハンター大管長と一緒に旅行すると,全員に目が行き届いていて,不便さを感じていたり困っていたりする者が誰もいないように,いつも見守っているのが分かります。」さらに別の使徒はこう報告している。「ハンター大管長は人のことを気に掛け,よく気がつく人です。ハンター大管長は慈愛の心と人を赦す心を持っています。ハンター大管長は,福音について,人について,また人間性についていつも学んでいます。」6

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キリストにひざまずく女性の画像

イエス・キリストは「愛の教えを説き,人々に対する無私の奉仕の模範を繰り返し示されました。全ての人がイエスの愛に浴しました。」

ハワード・W・ハンターの教え

1

一番大切な二つの戒めは,主の弟子としての特質を測る主の試金石である

昔は金の純度を調べるのに,試金石と呼ばれる黒い滑らかな珪石を用いていました。その試金石に金をこすると,表面に筋や印が付きます。金細工師は,この印の色を色見本表の色と照らし合わせます。この印の色は,銅や合金の度合いが増えると赤みが増し,金の比率が高くなると黄色くなります。この方法により,金の純度をかなり正確に知ることができました。

金の純度を試験するために試金石を使う方法は,短い時間で行うことができて最も実用的な方法でしたが,それでもまだ純度に疑問を持つ金細工師は,火を使ったさらに正確な試験方法を編み出しました。

主はわたしや皆さんのために一つの試金石を備えておられると思います。主の弟子としての内面的な特質を外側から測る方法で,忠実さの度合いに印を付け,来るべき火にも負けない方法です。

イエスが民に教えておられたときのこと,ある律法学者が近づいて来てこう質問しました。「先生,何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」

偉大な教師であるイエスは,見るからに律法に精通したその男にこう問い返されました。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか。」

その男は,一番大切な二つの戒めについて的確に答えました。「『心をつくし,精神をつくし,力をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。』また,『自分を愛するように,あなたの隣り人を愛せよ』とあります。」

キリストはそれに賛同して答えられました。「そのとおり行いなさい。そうすれば,いのちが得られる。」(ルカ10:25-28

永遠の命,神御自身の命,わたしたちが得ようと努力しているこの命は,この二つの戒めに根ざしています。聖文には,「これらの二つのいましめに,律法全体と預言者とが,かかっている。」とあります(マタイ22:40)。神を愛し隣り人を愛する。この二つはともに働きます。分けられるものではありません。最も崇高な意味において,この二つは同義語と言えるでしょう。そしてそれは,わたしたち一人一人が生活の中で実践できる戒めです。

律法学者に対するイエスの答えは,主の試金石と言えるでしょう。主はまた別の機会に,「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。」と言われました(マタイ25:40)。主はわたしたちの主に対する献身の度合いを,同胞をいかに愛し,同胞にいかに仕えるかによって測られるでしょう。わたしたちは,どのような印を主の試金石に残しているでしょうか。わたしたちは本当に良い隣人でしょうか。この試験の結果,わたしたちは24金(訳注─純度99.99パーセント以上の金)でしょうか。それとも黄鉄鉱(訳注─色が金に似ている鉱物)の印が現れるでしょうか。7

2

救い主は,愛することが難しい人をも含め,全ての人を愛するように教えられた

律法学者は,そのような簡単な質問を主にしたのを取り繕うかのように,次の質問をして自分が正しいことを立証しようとしました。「では,わたしの隣り人とはだれのことですか。」(ルカ10:29

わたしたちは皆この質問に永遠に感謝するべきです。というのは,救い主の返答の中に最高の価値があり最も評価されているたとえの一つがあるからです。わたしたちはそのたとえを繰り返し読んだり聞いたりしています。

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗どもが彼を襲い,その着物をはぎ取り,傷を負わせ,半殺しにしたまま,逃げ去った。

するとたまたま,ひとりの祭司がその道を下ってきたが,この人を見ると,向こう側を通って行った。

同様に,レビ人もこの場所にさしかかってきたが,彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが,あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり,彼を見て気の毒に思い,

近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり,自分の家畜に乗せ,宿屋に連れて行って介抱した。

翌日,デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し,『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら,帰りがけに,わたしが支払います』と言った。」(ルカ10:30-35

そこでイエスはその律法学者に尋ねました。「この三人のうち,だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」(ルカ10:36)ここで主はキリスト教的な行いに対する試金石を提示しておられます。その試金石でわたしたちの印を測るように求めておられます。

キリストのたとえの中で,祭司とレビ人の両方は,次の律法の求めを忘れてはなりませんでした。「あなたの兄弟のろばまたは牛が道に倒れているのを見て,見捨てておいてはならない。必ずそれを助け起さなければならない。」(申命22:4)牛でさえそうであるなら,困っている兄弟は,なおさら進んで助けるべきだったのです。しかし,ジェームズ・E・タルメージ長老が書いているように,「〔そうしない〕口実は見つけやすいものです。口実は路傍の雑草のようにいつでも容易に,またいくらでも出てくる」ものです(『キリスト・イエス』〔1995年度版〕,424)。

このサマリヤ人は,キリストの純粋な愛の模範を示しています。彼は思いやりの心を持っていました。強盗に襲われて傷ついた男のところに行き,傷の手当てをして,宿屋に連れて行き,介抱をし,費用を支払い,手当てのためにもっと必要なら自分が支払うと申し出たのです。これは隣り人に対する隣り人の愛の物語です。

「自分のことだけに関心を持っている人間の器は小さい」という古い格言があります。愛は小さな器を大きくする確かな手段です。最も大切なのは,愛することが難しい隣り人をも含め,全ての隣り人を愛することです。わたしたちは人を選んで友を作りますが,神はわたしたちの隣り人となる人を選ばれ,至る所に置いておられることを忘れてはなりません。愛に境界線があってはなりません。人を分け隔てなく愛するべきなのです。キリストは次のように言われました。「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」(マタイ5:468

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コンクリートの表面を仕上げる作業員の画像

主は「わたしたちの献身の度合いを,同胞をいかに愛し,同胞にいかに仕えるかによって測られるでしょう。」

3

わたしたちは困難な状態にある人に愛を示し仕えるべきである

ジョセフ・スミスが聖徒たちに宛てた1通の手紙が,『メッセンジャー・アンド・アドボケイト』(Messenger and Advocate)(訳注─1834年10月から1837年9月まで教会がカートランドで発行していた月刊新聞)に掲載されました。その手紙には,神の前に義とされるために互いに愛し合うことについて述べられています。ジョセフ・スミスはこう書いています。

「愛する兄弟の皆さん,全ての聖徒には,自分の兄弟たちに惜しみなく与え,常に彼らを愛し,いつも助ける義務があります。神の前に義とされるために,わたしたちは互いに愛し合い,悪に打ち勝ち,困っている孤児や寡婦を訪れ,自らは世の汚れに染まらずに身を清く保たなければなりません。これらの徳は,純粋な宗教の大きな泉から湧き出るものなのです。祝福に満ちたイエスの子供たちに美しさを添えるあらゆる善なる特質を身につけることによりわたしたちの信仰を強めるなら,わたしたちは祈りが必要なときに祈り,自分を愛するように隣り人を愛し,そして艱難の中で忠実な者であることができます。それは,わたしたちの受ける報いは,天の王国において最も大きいことを知っているからです。何という慰め,何という喜びでしょう。義にかなった生活が送れますように。そしてそのような報いが与えられますように。」(History of the Church, 第2巻,229)

わたしたちが良き隣り人となって生活に平安を見いだすためには,この愛と奉仕の二つの徳が必要です。ウィラード・リチャーズ長老の心の中には,確かにこの二つの徳がありました。ジョセフとハイラムがカーセージの監獄で殉教する日の午後,看守は独房の方がもっと安全だと言いました。ジョセフはリチャーズ長老の方を向いて,「もしわたしたちが独房に行くとしたら,あなたも一緒に来ますか」と尋ねました。

リチャーズ長老の返事は愛に満ちていました。「ジョセフ兄弟,わたしはあなたに頼まれて一緒に川を渡ったのではありません。あなたに頼まれてカーセージに来たのでもありませんし,あなたに頼まれて一緒に獄に入ったのでもありません。そのわたしが今,あなたを見捨てるとお考えですか。わたしがこれからすることを言いましょう。もしあなたが『反逆罪』で絞首刑の判決を受けるとしたら,わたしがあなたの代わりに絞首刑を受けましょう。そうして,あなたは自由の身になるのです。」

「いいえ,そんなことをさせるわけにはいきません」と答えたジョセフは,きっと深い感動に心を揺さぶられたことでしょう。

それに対しリチャーズ長老は固い決意でこう答えました。「わたしはそうします。」(BH・ロバーツ,A Comprehensive History of the Church,第2巻,283参照)

リチャーズ長老が経験したこの試しは,恐らくほとんどの人が直面する試しよりも大きく,試金石による試験というよりもむしろ火による試験であったと思います。しかし,もしわたしたちが求められたとしたら,家族のために,友のために,あるいは隣り人のために,自分の命を捨てることができるでしょうか。

思いやりの心を持つという試金石は,主の弟子としての特質を測る物差しです。神を愛し,互いに愛し合う度合いを測る物差しなのです。わたしたちは純金の印を残すでしょうか。それともあの祭司やレビ人のように,道の向こう側を通り過ぎるのでしょうか。9

4

わたしたちはイエスが示された慈愛の道を,さらに固い決意を持って歩む必要がある

早すぎる死をもたらした悲劇的な殉教のちょうど1年前,預言者ジョセフ・スミスはノーブーの末日聖徒に与えた重要なメッセージの中でこう述べています。

「もし人々の愛を確実に手に入れ,その愛を大切に育てたいなら,人々を,すなわち友はもちろん,敵でさえも愛さなければなりません。……クリスチャンは互いに口論したり,言い争ったりすることをやめ,人々の間に一致と友情の原則を育まなければなりません。」(History of the Church,第5巻,498-499)

これは〔その当時〕と同じように,現代のわたしたちにとっても非常に大切な勧告です。この世界に住む人々は,わたしたちの近くにいるかどうかに関係なく,イエス・キリストの福音を必要としています。福音は,世の人々が平和を得るための唯一の道を示しています。わたしたちは互いにもっと親切にし,もっと優しくし赦し合う必要があります。怒るに遅く,人を助けるに早くなければなりません。また人々に友情の手を差し伸べ,報復を控える必要があります。キリストの純粋な愛,すなわち,真の慈愛と思いやりの心を持って互いに愛し合い,必要なら苦しみを分かち合うことが必要なのです。それは,神がそのようにわたしたちを愛してくださっているからです。

礼拝行事の中で,わたしたちはスーザン・エバンズ・マックロードが作詞した美しい賛美歌をよく歌います。その賛美歌を数節読んでみたいと思います。

われ主を愛して

その道進まん

奉仕の業なし

み力悟らん ……

おのれの罪,咎

なぜに見えぬか

心を探りて

弱きを悟らん……

兄弟守りて

その傷癒さん

迷いて疲れし

子羊訪ねん

やさしく仕えて

従い行かん

(『賛美歌』134番)

わたしたちは,より固い決意とより深い慈愛の心を持って,イエスが示された道を歩まなければなりません。「人のために自分の時間を割き,人を高め」なければなりません。そうすれば確かに,「〔自分〕自身の能力を超えた力」を見いだすでしょう。「人を癒やす者となるための方法」をもっと学びたいと望むなら,「傷ついた人,疲れた人」の心に触れ,全ての人に「〔さらに〕優しい心」を示す機会が数多く与えられるでしょう。そうです,主よ,わたしたちはあなたに従ってまいります。10

5

この慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く

〔イエス〕は言われました。「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。……それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:34-35)わたしたちが人類という家族の兄弟姉妹に対して持つべきこの愛,またキリストが全ての人々に対して持っておられるこの愛は,慈愛または「キリストの純粋な愛」と呼ばれています(モロナイ7:47)。この愛のゆえに,キリストは贖いのために進んで苦しみを受けられ,自らを犠牲とされたのです。この慈愛こそ人間の魂が到達できる最高地点であり,人間の心の最も奥深いところから来る感情の表れです。

……慈愛は他の神聖な徳を全て含んでいます。この慈愛により,救いの計画が始まり完成するのです。他の全てが絶えても,慈愛,すなわちキリストの愛は絶えることはありません。慈愛は神のあらゆる特質の中で最も偉大なものです。

そのあふれる愛のゆえに,イエスは貧しい人々,虐げられている人々,寡婦,幼い子供,農夫や漁師,やぎや羊の世話をする人,宿り人や異国人,富める人,有力な政治家,そして敵意を秘めたパリサイ人や律法学者にまで言葉を掛けられました。また,貧しい人,飢えている人,恵まれない人,病気の人に仕え,教え,導かれました。足や目,耳の不自由な人,その他の肉体的障がいのある人々を祝福されました。また精神や情緒的な病の原因となっていた悪魔や悪霊を追い出しました。罪の重荷に苦しむ人々を清めました。愛の教えを説き,人々に対する無私の奉仕の模範を繰り返し示されました。全ての人がイエスの愛に浴しました。全ての人に,「ほかの人と同様の者となる特権が与えられており,それを禁じられる者はだれ一人いな」かったのです(2ニーファイ26:28)。これらは全てキリストによる無限の愛の表れであり模範なのです。

男性と女性が至る所で,親切,柔和,謙遜などのキリストの純粋な愛を実践するなら,わたしたちが住んでいるこの世界は大きな恩恵を受けることでしょう。愛は妬みや高慢とは無縁です。愛とは見返りを求めない無私のものです。また悪事や悪意を容認せず,不義を喜びません。そして,偏見,憎しみ,暴力を受け入れる余地もありません。愛は,あざけり,下品,虐待,仲間外れを容認することはありません。愛は,宗教的な信条,人種,国籍,経済状態,教育,文化に関わりなく,キリストが教えた愛のうちにともに生きるように,多様な人々に勧めています。

救い主はわたしたちに,主がわたしたちを愛したように,わたしたちも互いに愛し合うよう教えられました。御自身がまとわれた「慈愛のきずな」を身にまとうように命じられました(教義と聖約88:125)。内なる思いを清めて,心を変え,わたしたちが信じ,心に感じていることと実際の行動や外見を一致させるように求められているのです。わたしたちはキリストの真の弟子となるように求められています。11

6

人を愛する道は「最も優れた道」である

バーン・クロウリー兄弟が,若いときに非常に大切な教訓を学んだことについて話してくれました。それは,預言者ジョセフ・スミスがノーブーで初期の聖徒たちに教えた,「人々を,すなわち友はもちろん,敵でさえも愛さなければなりません」という教えでした。これはわたしたち一人一人にとって良い教訓です。

父親が病気になったため,バーン・クロウリーは家族経営の自動車解体工場を切り盛りすることになりました。そのとき彼はまだ15歳でした。時折,客の中には彼が若いことに付け込む人もいましたし,夜中に店から部品がなくなることもありました。バーンは腹を立て,犯人を捕まえてやり玉に挙げてやると心に誓いました。復讐してやると。

父親が病気から快復し始めて間もないある夜のこと,バーンは工場を閉めてから工場の見回りをしていました。外はほとんど暗くなっていました。工場の向こう側の角で,誰かが大きな部品を持って裏の柵に向かう姿を見つけました。彼は陸上競技の優勝者のように駆け出し,その年若いどろぼうを捕まえました。彼はまず,げんこつに物を言わせて憂さを晴らし,その後その少年を事務所まで引っ張って行き,警察を呼ぼうと考えました。彼の心は怒りと復讐の念でいっぱいでした。そしてどろぼうは自分の手の中にあるので,思い知らせてやろうといきり立っていました。

そのとき,どこからともなくバーンの父親が現れ,弱々しく力のない手を息子の肩に置き,こう言いました。「バーン,少し頭に血が上っているね。ここは父さんに任せてくれないか。」それから父親は盗みを働こうとしたその少年に近づき,彼の肩に手を回して,少しの間彼の目をじっとのぞき込んでから言いました。「君,どうしてこんなことをするんだい。訳を話してくれないか。どうしてあのトランスミッションを盗もうとしたのかな。」それから,クロウリー氏は少年の肩に手を回したまま事務所の方へ歩き始め,歩きながら少年の自動車にどんな問題があったのか尋ねました。そして事務所に着いたところでこの父親は言いました。「そうだね,クラッチが壊れていると思うよ。それが問題の原因だね。」

その間,バーンは怒り心頭に発していました。「どうしてあいつのクラッチの心配をしなくちゃいけないんだ」と思いました。「警察を呼べば,それで済むことじゃないか。」しかし父親は話し続けました。「バーン,彼にクラッチを渡してくれ。それからクラッチ用のベアリングもだ。プレッシャープレートも。それでクラッチの修理ができるはずだ。」バーンの父親は盗みを働こうとした若者に,それらの部品を全部渡してこう言ったのです。「これを持って行きなさい。トランスミッションもある。若い君が盗む必要はないんだ。困ったことがあれば言うんだよ。どんな問題でも解決法はあるんだからね。みんな喜んで助けてくれるよ。」

バーン・クロウリー兄弟は,その日,愛に関する永遠の教訓を学んだと話してくれました。その若者はそれから度々店にやって来ました。彼は自分から進んで、トランスミッションの分も含めて,バーンの父親,ビック・クロウリーから受け取った全ての部品の代金を毎月支払ったのです。そうしていた間,その若者はどうしてバーンの父親があのように振る舞えたのか,どうしてあのようにしてくれたのかをバーンに尋ねました。バーンは末日聖徒の幾つかの信条と,父親がどれほど主を愛し,人々を愛しているかを話しました。最終的に,その盗みを働こうとした若者はバプテスマを受けました。バーンは後にこう語っています。「今,あのときの自分の気持ちや経験を言葉で説明するのは難しいですね。わたしも若かったですから。わたしはどろぼうを捕まえ,一番ひどい罰を与えてやろうとしていました。しかし父は別の道をわたしに教えてくれたのです。」

これは単なる別の道なのでしょうか。それとももっと良い道でしょうか。優れた道でしょうか。あるいは,最も優れた道なのでしょうか。世の人々は,このすばらしい教訓から大きな恩恵を受けることができるでしょう。モロナイはこう教えています。

「さて,神を信じる者はだれであろうと,もっと良い世界を ……確かに望むことができる。……

神は,御子を送ることによってもっとすばらしい方法を備えられた。」(エテル12:4,1112

研究とレッスンのための提案

質問

  • ハンター大管長は一番大切な二つの戒めは「主の試金石」であると教えていますが,それはどのような意味でしょうか(第1項参照)。第1項の最後にハンター大管長が尋ねた質問に対して,どのように答えることができるか考えてください。

  • 良きサマリヤ人のたとえに関するハンター大管長の話をもう一度読んでください(第2項参照)。隣り人を愛することに関するこれらの教えから,何を学ぶことができるでしょうか。「愛することが難しい」と思える人に対して,わたしたちの愛を増し加えるにはどうしたらよいでしょうか。

  • 第3項で,ハンター大管長は困難な状態にある人々を愛し仕えるように教えています。あなたが困っているときに愛し仕えてくれた人から,どのような祝福を受けたことがありますか。

  • 救い主の慈愛の模範に従うように勧めるハンター大管長の教えについて,深く考えてください(第4項参照)。人に対してもっと大きな愛を育むにはどうしたらよいでしょうか。どうすれば,もっと積極的に愛を示すことができるでしょうか。

  • 第5項で,ハンター大管長はキリストがその愛を示された方法について幾つか述べています。あなたは生活の中で救い主の愛を感じたことがありますか。あなたが「キリストの純粋な愛を実践した」ときに,どのような祝福を受けたでしょうか。

  • ハンター大管長が引用したバーン・クロウリーの物語から,わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか(第6項参照)。どうしたら「怒りと復讐」の感情を慈愛の気持ちに変えることができるでしょうか。どのような経験が,慈愛は「最も優れた道」であることを学ぶ助けになりましたか。

関連聖句

マタイ25:31-461コリント13章エペソ4:29-321ヨハネ4:20モーサヤ4:13-27アルマ34:28-29エテル12:33-34モロナイ7:45-48教義と聖約121:45-46

学ぶ際のヒント

「学んだ事柄を実行することによって,理解がさらに深まり,永続するものとなります(ヨハネ7:17参照)。」(『わたしの福音を宣べ伝えなさい』19)家庭,職場,または教会の責任において,この教えをどのように自分に当てはめることができるか自問してください。

  1. “The Gifts of Christmas,” Ensign, 2002年12月号,18

  2. ジョン・S・ウェルチの言葉,エレノア・ノウルズ,Howard W. Hunter(1994年),119

  3. ベティ・C・マッキューアン,“My Most Influential Teacher,” Church News, 1980年7月21日付,2

  4. キャロライン・セッションズ・アレン,“Loved by All Who Knew Him: Stories from Members,” Ensign, 1995年4月号,20

  5. トーマス・S・モンソン,“President Howard W. Hunter: A Man for All Seasons,” 33で引用

  6. ノウルズ,Howard W. Hunter, 185で引用

  7. 「主の試金石」『聖徒の道』1987年1月号,37-38参照

  8. 「主の試金石」38参照

  9. 「主の試金石」38参照

  10. 「最も優れた道」『聖徒の道』1992年7月号,64参照

  11. 「最も優れた道」64-65参照

  12. 「最も優れた道」65-66参照