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第28課:悔い改め


第28課

悔い改め

目的

悔い改めが天父のもとに帰るうえでどれほど重要であるか理解する。

導入

預言者ジョセフ・スミスは,かつて次のようにチャレンジした。「今日この日に新たに始めよう。そして,罪を捨て,義人になろうと,今心の底から言おう。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith, sel. Joseph Fielding Smith,1976年,364)

わたしたちがこの地上にいるのは学び成長するためであり,すべての人が失敗を経験する。失敗にも様々な種類がある。不親切に振る舞ったりほか人のものを取るなど,いけないと分かっていながら行うことがある。これは作為の罪と呼ばれる。什分の一を納めたり隣人と親しくなるなど,行うべきであると知りながらやらないこともある。これは不作為の罪と呼ばれる。

悔い改めの必要

悪い行いをしたことに気づいていながら,幸せな気持ちでいることはできない。失敗を恥ずかしく思い,主に正しく仕えることができないと感じる。時には不愉快な気持ちが,人に不親切な態度で接する原因にもなる。天の御父はわたしたちが不幸になることは望んでおられない。すべての人が用意された祝福を受けるように望んでおられる。しかし,受ける資格のない人に祝福を与えることはなさらない。これはわたしたちを顧みられないとかあまり愛しておられないというような意味ではなく,天の御父はわたしたちに弱点を克服するように求めておられるということなのである。もし悪い行いをしても祝福されるならば,わたしたちは弱点を克服する努力をしないであろう。したがって悔い改めは,弱点を克服して天父とともに住む資格を得られるように神が定められた計画である。

以上の理由から,神はわたしたちに自分の生活を吟味して改善を要する点を見いだすように言われたのである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えている。「わたしたちは昨日よりも今日,今日よりも明日と善くなっていく義務がある。なぜだろうか。それは……わたしたちは完成に向かう道の上にいるからである。従順であって,〔自分の罪に〕打ち勝ちたいという望みが心にあって初めてその道に立つことができるのである。」(『救いの教義』第2巻,17)

どのように悔い改めるのか

罪は体についた汚れのようなもので,わたしたちの霊を汚す。悔い改めは,その汚れを石けんと水で洗い流すことに似ている。悔い改めると晴れ晴れとして清い気持ちを感じる。A・セオドア・タトル長老は次のように述べている。

「悔い改めは石けんのようなものである。悔い改めは人生の石けんである。石けんのように人生の罪を洗う。その石けんは必要に応じて何度も使うべきである。しかし,十分に洗わずいいかげんに済ませていたら,白い洗濯物は『灰色』になってしまうことを忘れてはならない。人生の石けんも,正しく用いるときに,完全に永久に罪を洗い流す。……

いつの日かわたしたちは……主の裁きの法廷に出る。わたしたちは汚れて不潔なままそこに立つであろうか。それとも,人生の石けんであるすばらしく偉大な清めの賜物たまものを受け入れて,主の前にゆるされ,清く美しく立つであろうか。この次にあなたが石けんを用いるときには,人生の石けん,すなわち悔い改めという普遍の律法によりあなたの霊を清めたいと願うことであろう。」(「悔い改め」『聖徒の道』1969年4月号,234-237ページ参照)

悔い改めるには,必要な段階を踏まなければならない。

  • 写真ページ28-a「まことの悔い改めは時間と努力を要する」を見る。

『福音の原則』第19章に述べられている悔い改めの7段階について話し合う。できれば,各段階をそれぞれ生徒に割り当てておき,よく準備したうえで話してもらう。悔い改めの7段階を表にして,話し合いの際に提示する。(その7段階とは,罪を認める,罪を悲しむ,罪を捨てる,罪を告白する,罪を償う,罪を赦す,神の戒めを守る,以上の7項目である。)

まことの悔い改めは容易ではない。時間と努力が必要である。だから悔い改めの時を引き延ばしてはならないのである(アルマ13:27参照)。

悔い改めの喜び

  • 写真ページ28-b「イエス・キリストはわたしたちの罪の代価を払ってくださり,その結果,わたしたちは悔い改めることができるようになった」を見る。

わたしたちは罪の赦しを受けるために悔い改める。しかし,もしイエス・キリストが人類の罪の代価を払ってわたしたちのために死んでおられなければ,罪の赦しはあり得ない。キリストのあがないの犠牲を通してのみあわれみは正義を満たし,わたしたちは罪を洗い清めることができる(アルマ34:10-16参照)。これは大いなる祝福であり,いつも感謝を忘れてはならない。

キリストはわたしたちの罪の代価を支払われたが,わたしたちが悔い改めなければ罪は消え去らない。息子アルマは自分に罪があることを悟って次のように語った。「わたしは自分のあらゆる罪と不義を思い出し,そのために地獄の苦しみを味わった。……

……わたしは……かつて父がイエス・キリストという御方の来臨について民に預言するのを聞いたことを思い出した。イエス・キリストは神の御子であり,世の罪を贖うために来られるというのである。

心にこの思いがはっきりと浮かんできたとき,わたしは心の中で,『おお,神の御子イエスよ,……わたしを憐れんでください』と叫んだ。

さて見よ,このことを思ったとき,わたしはもはや苦痛を忘れることができた。……

おお,何という喜びであったことか。何という驚くべき光をわたしは見たことか。まことに,わたしは前に感じた苦痛に勝るほどの喜びに満たされたのである。」(アルマ36:13,17-20

  • 一人の生徒に放蕩ほうとう息子のたとえを話させる(ルカ15:11-32参照)。放蕩息子は悔い改めの段階を踏み始めたときに何を感じたか。父親の気持ちはどうか。

人間は絶えず罪を犯し,悔い改めを必要とするので,放蕩息子のたとえは次の話のように何度も繰り返される。

割り当てておいた生徒に,次に挙げる現代における放蕩息子の話をさせる。生徒に,その話を聞きながら,彼が従った悔い改めの段階を心の中で見極めさせる。

「わたしは17歳のときまで,出るべき集会には全部出席し,神権の責任を果たし,活発に教会に集っていました。当然のことでした。教会や教会のプログラムが大好きだったのですから。

しかし,17の年に『10代特有の独立欲』に駆られ,家族の生き方に逆らって自分の『選択の自由』を主張するようになりました。親友の一人が別の宗教で,彼に言われるままアルコールやたばこのわなにはまっていったのです。わたしは教会員ではない少女たちとデートをし,すぐにすてきな少女を愛するようになりました。彼女の両親が何回も週末に海の別荘にわたしを招待してくれたので,無論のこと,わたしは教会の活動からは遠のいていきました。

そのうち第二次世界大戦がやって来ました。監督に伝道に出たいと思いませんかと聞かれたとき,わたしは,それよりも軍に入って国のために働きたいと答えました。祖国のために働くことは大切だと思いますが,今考えてみると,まず伝道に出て天の御父のために働いた方が賢明だったと感じています。

またちょうどこのころ,わたしの非常に尊敬していた教会員が教会の標準を破っていることを知り,わたしは彼らを裁くようになりました。わたしの目から見れば,彼らは偽善者でした。わたしは,もし教会の標準を守れないなら,言葉と行いが違う偽善者でいるより,教会から離れてしまう方がましだと心に誓いました。これがもう一つの重大な間違いでした。わたしはそのとおり実行して,サタンの望みどおりになったのです。

海軍パイロットとしての4年間とセールス業であちこち回った15年間は容易に不活発でいられましたが,その間も,心に深く根ざした真理の教えは信じていました。わたしが38歳になった年に,末弟のトムが6週間ほど家に居候をしました。トムが毎日曜日,朝から神権会やほかの集会に一人で出かけるので,わたしは良心の呵責かしゃくを覚え始めました。いい気持ちがしませんでした。何かが悪いのだと分かっていましたが,次第にその気持ちを頻繁に感じるようになりました。昔ならこうと思えばいつでもたばこがやめられたのに,そのときはそれができないのです。トムを会社に訪ねると,知らず知らず教会批判の言葉が出て,トムには言ったことがないのですが,後でいつも罪の意識を感じていました。

わたしは危機の坂を登り詰め,カントリークラブのカクテルダンスパーティーから帰った晩にそれが頂上に達しました。夜遅くベッドに入ったのですが,これまでになく寝つけません。ついに愛する妻を起こさないようにしてベッドから出ると,部屋の中を行ったり来たりしました。こんなことは初めてでした。そしてとうとう,自分が変わらなくてはならないと悟ったのです。

わたしは泣いたり自分を卑下したりして感情をむき出しにしたことが一度もなかったのですが,そのときはひざまずいて,19年目にして初めて天の御父に助けを請うていたのでした。祈っていると,愛と憐れみと幸福感が圧倒せんばかりに体中を満たし,聖霊が力強く迫って,わたしはかなりの間激しくすすり泣いていました。やがて立ち上がったときには,心地よさを感じました。感謝が胸に満ちました。あのように温かい気持ちはそれまで一度も経験したことがありませんでした。心に熱く燃えるものが体中を巡って,その強烈さに,まるで自分が燃え尽きてしまうのではないかと思ったほどです。

わたしは寝室に戻ると,妻を起こしました。わたしはまだ泣いていたので,妻はどうしたことかと尋ねました。それで,自分の生活を変えて,イエス・キリストの福音を取り入れたいと話すと,妻は即座にわたしを援助すると言ってくれました。そのとき以来,たばこや酒やコーヒーを飲みたいという気持ちは一度も感じません。

主はわたしを祝福し始められ,今も祝福は絶えません。1年もしないうちにわたしの手で子供たちにバプテスマを施し,その後すぐに,妻にも施すことができました。それから1年してローガン神殿へ行き,永遠の結婚をして子供たちとの結び固めをしました。

主は迷い出た羊が帰って来るのを心から喜ばれると,わたしはあかしいたします。わたしたちが罪を悔い改めて戒めを守るときに,主はだれにでも愛と親切を示されるのです。」(ルイス・W・コトル,「帰って来た放蕩息子」『聖徒の道』1974年8月号,355-356)

  • この話の中で現代の放蕩息子は悔い改めたときにどのような気持ちを感じただろうか。ルカ15:10を読む。天の御父はわたしたちの悔い改めをどのような思いで見ておられるであろうか(教義と聖約58:42イザヤ1:18参照)。わたしたちは悔い改めた人にいかに接するべきだろうか。

まとめ

天の御父のようになって,再び御父とともに住むためには,悔い改めなければならない。イエス・キリストが罪の贖いによって悔い改めを可能にしてくださったのはそのためなのである。わたしたちが罪を悔い改めるなら天の御父とともにその喜びを分かち合うことができる。

ハロルド・B・リー大管長は次のように教えている。「神のあらゆる戒めの中で最も大切なものは,今日あなたがいちばん守りにくい戒めである。それが正直の戒めであろうと,純潔の戒めであろうと,あるいは偽ってはならないという戒めであろうと,それを克服できていなければ,今日がそれを克服する日である。そしてそれができたら,守りにくい次の戒めに取り組むのである。」(“Californians Hear President Lee,” Church News1973年5月5日付,3)

チャレンジ

  1. 個人の祈りの中で,今取り組んでいる問題を克服できるように主の助けを求める。自己の改善に努め,過去の過ちの赦しを求めて絶えず主に祈り,成長の度合いを毎日主に報告する。

  2. ほかの人々,特に家族が悔い改めたときに喜びを表す。

参照聖句

詩篇51:10(赦しを求めるダビデの祈り)

イザヤ1:16-18(わたしたちは悔い改めるよう戒められている)

ルカ15:7(人が悔い改めるとき天に喜びがある)

2コリント7:10(神の御心みこころに添った悲しみは悔い改めに導く)

モーサヤ4:1-3(キリストの贖いにより罪は赦される)

アルマ7:15(悔い改めのしるしであるバプテスマ)

アルマ12:14-15(信仰と悔い改めは救いをもたらす)

アルマ34:8-9(キリストは世の罪を贖われた)

教義と聖約19:16-17(キリストは悔い改める人々に代わって苦しみを受けられた)

教義と聖約76:40-42(イエスは世の罪を贖うために死なれた)

教師の準備

レッスンの前に以下のことを行う。

  1. 『福音の原則』第19章「悔い改め」を読む。

  2. 各自の聖典を持参するように生徒を促す。

  3. 『福音の原則』第19章に述べられている悔い改めの7段階について話し合う割り当てを数人の生徒に与えてもよい。

  4. レッスンの中で引用文や聖句を読む割り当てを生徒に与える。

  5. 定員会会員の個人的な問題について話し合わないようにレッスンを準備する。

悔い改め

28-a まことの悔い改めは時間と努力が要する

ゲツセマネにいるイエス・キリスト

28-b イエス・キリストはわたしたちの罪の代価を払ってくださり,その結果,
わたしたちは悔い改めることができるようになった。