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キリストの完全を追い求める
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キリストの完全を追い求める

2020年2月9日にアメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォードで行われたヤングアダルト向け複合地区ディボーショナルにおける説教,「キリストの満ちみちた徳の高さ」から。

この復活祭の時季に,キリストのもとに行く道を進み,主の心強い安らかな声を求めましょう。

「恐れることはない」マイケル・マルム画

キリストの「満ちみちた」徳の高さにまで至ることを目指す皆さんの個人の努力について,幾つか考えを述べさせてください(エペソ4:13参照)。皆さんの人生や,皆さんの置かれた状況に,少しでも役立つことを願っています。

皆さんの中には,自分が望んでいる場所にいる人や,少なくとも人生において自分がどこに行くことを望んでいるのかが分かっている人がいるでしょう。多くの祝福を受け,行く手にすばらしい選択肢が待っている人もいると思います。一方で,一時的に何らかの理由で,それほど幸運に恵まれておらず,目の前にあまり魅力的な道が開けていない人もいるでしょう。

しかし,皆さんがどこに向かっていようと,また,そこに到達するためにどのようにして困難を乗り越えていくのであろうと,皆さんにお願いがあります。個人の目的地を目指すための,個人の幸福と強さを見いだすための,そして究極の行く末を実現し成功を手にするための,なくてはならない最初の一歩として,救い主イエス・キリストのもとに行ってください(1ニーファイ10:182ニーファイ26:33オムナイ1:26教義と聖約18:11参照)。

「あなたはどこへ行くのか」という問いへの返答が(モーセ4:15),「主よ,あなたがおられる所ならどこへでも」であるなら,あなたはそのすべてをかなえることができます。

人生には困難が伴うことがあります。乗り越えなければならない苦痛や後悔や現実的な問題があります。失望や悲しみ,あらゆる種類の浮き沈みがあります。しかし,それらの問題とどのように向き合えばよいかについて,主と預言者から励ましの言葉が数え切れないほど与えられています。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く」

そのような言葉の中で最も感動的なものは,救い主がまさにゲツセマネとカルバリの苦痛と苦しみへ向かわれるときに弟子たちに与えられた祝福です。その夜,すなわちこの世において過去に例がなく,そして今後もないであろう,最も大いなる苦しみの夜のことです。救い主は次のように言われました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。……あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」(ヨハネ14:27

最も苦しいときに,何とすばらしい人生の見方をされたことでしょう。救い主は御自分の身にこれから何が起こるのかを知りながら,一体どうしてそのように言うことがおできになるのでしょうか。それは,救い主の教会と福音は,幸せな行く末を約束しているからです。わたしたちにとっては,勝利はすでに遂げられているのです。救い主は長期的な視野を持っておられ,物事の全体像を示してくださっています。

しかしわたしたちの中にはまだ,慰めや助けを得るのは何となく悪いことであり,自分はいつも何らかの点で惨めでなければならないとする,清教徒以来の思考様式を引きずっている人もいるはずだと思います。「キリストの満ちみちた徳の高さ」を追求する中で(エペソ4:13),「元気を出しなさい」という戒めは(ヨハネ16:33),そのほかの点では忠実な末日聖徒の心の中においてさえも,ほとんど従っていない戒めなのではないかと思います。憐れみ深い救い主の心にとって,これ以上に悲しいことは確かにあり得ないでしょう。

もしわたしの子供の一人が人生のある時点でひどく困っていたり,不幸せであったり,不従順であったりしたなら,わたしはそれだけでも心配になるでしょう。しかし,そのようなときに,その子がわたしを頼って助けを求めてこなかったり,自分の幸福はわたしにとって重要でないとか,わたしの保護の下では守られないと思っていたりするようなら,わたしはなおさら打ちのめされることでしょう。

それと同じく,わたしは次のように確信しています。人々が,父なる神とその御子であられる世の救い主が助けを与えてくださると確信していなかったり,その御手の中にいれば安全だと考えていなかったり,その戒めを信じていなかったりするとき,御二方の心は,だれが想像するよりも深く傷つくに違いありません。わたしたちを愛しておられるからです。わたしの友の皆さん,これだけでも,わたしたちにとって元気を出すことは義務であるとする理由としては十分です。

主の「恵みは十分である」

キリストを求め,その満ちみちた徳の高さを追求することに関するもう一つの勧告が与えられたのは,イエスが5つのパンと2匹の魚で5,000人に食物を与えるという奇跡を行われた後のことでした(マタイ14:13-21参照)。(なお,キリストの奇跡が使い果たされて,皆さんを助ける分がなくなってしまうのではないかと心配する必要はありません。主の「恵みは……十分」にあります〔2コリント12:9〕。それがこの奇跡の霊的な,永遠の教訓です。主は,皆に行き渡った後にも幾つものかごがいっぱいになるほど,たくさんの祝福を用意しておられます。信じて,主が与えてくださる「命のパン」を享受しましょう〔ヨハネ6:35〕。)

群衆に食物を与えた後,イエスは彼らを解散させ,御自分の弟子たちを漁をする舟に乗せ,ガリラヤの海の向こう岸へおやりになりました。それからイエスは,「祈るためひそかに山へ登られ」ました(マタイ14:23)。

弟子たちが舟で出発したときは夕方にさしかかっており,その夜は天気が荒れました。出発のときから,風が吹きすさんでいたことでしょう。その風のために,弟子たちは恐らく帆を揚げることさえできず,オールだけを頼りに進んだと思われます。それは大変な苦労だったことでしょう。

こう言えるのは,「夜明けの四時ごろ」になっても(マタイ14:25),弟子たちが数キロしか進んでいなかったからです(ヨハネ6:19参照)。その時点までに,舟は実に激しい嵐に巻き込まれていました。

けれども,イエスはいつもと同じく,弟子たちを見守っておられました。弟子たちの困難な状況を御覧になり,救い主は最も直接的な方法で舟に近づいて行かれました。彼らを助けるため,波の間を歩いて渡って行かれたのです。

「信仰の完成者」J・アラン・バレット画

「恐れることはない」

大変な窮地に陥っているとき,弟子たちが暗闇の中へ目をやると,風に衣をなびかせながら,うねる波の上をこちらに向かってくる,驚くべき御方の姿が見えました。弟子たちはその光景を見て,波の上の幽霊だと思い,恐怖のあまり叫びました。それから,海がとても広く,舟がとても小さく思えたとき,嵐と暗闇の中から,何にも増して力強く安心感を与えてくれる主の安らかな声が聞こえました。「わたしである。恐れることはない。」(マタイ14:27

この聖文の話から気づかされるのは,キリストのもとに行こうとするとき,キリストの完全を求めようとするとき,またはその完全をもたらすためキリストがわたしたちのところに来てくださるとき,わたしたちは最初の一歩に際して,大変な恐怖に近い気持ちでいっぱいになるかもしれないということです。恐れを抱かせるはずのものではなくても,そのような気持ちにさせられることがあるのです。福音の大いなる皮肉の一つは,人間の先見の明のなさのために,与えられている助けと安全の源から,わたしたちが逃げようとしてしまう可能性があるということです。

わたしは,何らかの理由で求道者がバプテスマから逃げるのを見たことがあります。長老が伝道の召しから逃げるのを見たことがあります。恋人が結婚から逃げるのを見たことがあります。多くを求められる召しから会員が逃げるのを見たことがあります。そして,教会の会員であることから逃げる人たちも,見たことがあります。

自分に救いと慰めをもたらしてくれるまさにそのものから逃げていることがあまりにも多いのです。福音に献身することを,恐れるべきもの,そして捨てるべきものと見なしていることがあまりにも多いのです。

ジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,次のように述べています。「人はだれでも,人生行路の中で,逆風と荒波にもてあそばれる嵐の海の航海者の戦いにも似た経験に出合うものである。しばしば危険な苦闘の夜が更けて,救援の手も間に合わないときがある。また救援の手がいっそう大きな恐怖の到来と勘違いされることがあまりにも多い。〔しかし,〕荒れ狂う海の真ん中で〔これらの弟子たち〕に聞こえたように,信仰をもって一生懸命働いている者たちにも,『わたしである。恐れることはない』という救い主の声が聞こえるのである。」1

救い主のもとに行く

救い主を受け入れるように,救い主のもとに来るように,その満ちみちた徳の高さを追い求めるようにというこの招きがすばらしいのは,だれでも行えるという点です。これはあなたの知っているすべての人が戒めを守りたいと思うという意味でも,あなたが偶然出会うすべての人が戒めを守るだろうという意味でもありません。そうではなくて,特別な賜物や生まれながらの資質などなくても,戒めを守ることができるということです。

わたしたちが「輝かしく,明るく,清く,強固な」信仰を持つことを,また,キリストが「〔わたしたちの〕文化の至る所にもたらされる」ことを2,そしてわたしたちが人生でキリストの徳の高さに至ることを(エペソ4:13参照),わたしは心から願います。

人生は皆さんに試練を与えます。困難は避けられません。深い悲しみは襲ってきます。愛する人は亡くなります。ですから,皆さんの向かう先がどこであろうと,まずはイエス・キリストのもとに向かう道を進んでください。主の苦しみと復活がわたしたちの困難と死に対する勝利を可能にしているということを覚えておいてください。キリストと聖約を交わし,旅路を進むときにそれを守ってください。

わたしは,自分がまったくもって弱い人間であることを進んで認めますが,それでも,わたしたちが「キリストの満ちみちた徳の高さ」に至れるようにと切望しています。わたしはキリストのもとに行きたいと思っています。もし可能であるならば,キリストにわたしのところに来ていただきたいと思っています。わたしは心から,皆さん全員にその祝福を受けてほしいと望んでいます。