2017年
キリストのような母親となる

末日聖徒の声

キリストのような母親となる

Sweeping Broom

イラスト/キャロリン・ビバート

わたしは散らかったプレッツェルやシリアル,ポップコーン,チップスの食べかすを掃き集めていました。

「どれもこれも,わたしが食べたものじゃないわ」と言いながら,ちり取りの中に入れました。

食卓についていた夫が静かにこう言いました。「母親が払う犠牲だね。」

わたしは伸び上がって,「何ですって?」と聞き返しました。

夫は朝食を取りながら,声高にはっきりと言いました。「それが母親の務めさ。毎日,自分がかかわっていない汚れをきれいにしているんだよね。救い主がそうされたように。」

この考えはわたしの心に深く染み込みました。食べかすを片付けることは,わたしが考えている以上にキリストに似た行為であると言われて,もっと喜んでよいはずでした。ところが,わたしは罪悪感に囚われました。主と比較されることに違和感を覚えたのです。子供たちにどれほど世話を焼いてきたかについて,わたしは今まで何度夫に話したり,自分に言い聞かせたりして,認められ感謝されることを期待してきたでしょうか。子供たちにもっと感謝してほしいと思うことは間違っているとは思いませんでしたが,目からうろこが落ちたその瞬間に,自分の望みは子供に感謝を学んでほしいというより,自分が称賛や報いを求めていたことに気づいたのです。しかし,救い主が称賛を必要とされたことはなく,それを求めたり,望まれたりしたことも一度もありませんでした。

10代の子供たちとの会話で思い出すのは,彼らは頼まれた手伝いを免れようと今までしてきた手伝いを全部並べ立てることです。

そんなとき,わたしはよくこう言いました。「これまでしてくれた手伝いを引き合いに出すなら,そうしてもいいわ。でも,負けるのはあなたたちよ。だから今すぐ始めなさい。」

そのとき,わたしは夫が語った主と比較されるような純粋な動機がなかったことに気づきました。救い主は,御自身がされたことをわたしと比べるリストを作るようなことはされません。もしそうされたなら,毎回わたしが負けてしまうでしょう。

ほうきを手に持ちながら,わたしは母親の務めについて新しい概念に気づくことになりました。のような母親となるのです。称賛されたり,認められたり,抱き締められたり,感謝されたりするためではありません。愛を込めて食べかすを掃き集めます。それは主がされることだからです。

主がされたことは皆,御父に対する従順さから行われ,御自分のためにされることはありませんでした。主は御父のため,そしてわたしたちのために,いつも完全な愛をもって壊れた状態を修復し,わたしたちの汚れを無限に清めてくださいます。わたしは今,自分の持てる最も純粋な愛で子供たちを教え,彼らに仕えるように努めています。そうするときに初めて,キリストのような母親となっていると感じることができるのです。