2016
礼拝がもたらす祝福
2016年11月


礼拝がもたらす祝福

礼拝はわたしたちの霊的な生活にとって不可欠であり,要となるものです。わたしたちは礼拝することを切望し,求め,その機会を得るよう努力するべきです。

主の訪れ

聖文に記された最も驚くべき感動的な経験の一つは,救い主が亡くなって復活した後に,アメリカ大陸の民を訪れられた記述です。民は「全地の面が形を変え〔る〕」ほどの大規模な破壊を被りました。1一連の出来事に関する記録によれば,この大惨事の後,人々は泣き続け,2その深い悲しみの中で,癒しと平安,救済を切に求めたことが分かります。

救い主が天から降られたとき,人々はその足もとに2度ひれ伏しました。1度目は,主が神の権能をもって次のように宣言されたときです。

「見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である。

見よ,わたしは世の光であり命である。」3

そして主は,その場にいる人々に言われました。「『立ってわたしのもとに来て,あなたがたの手をわたしのわきに差し入れ,またわたしの両手と両足の釘の跡に触れて,わたしがイスラエルの神であり,全地の神であること,そして世の罪のために殺されたことを知りなさい。』……

彼らは全員進み出て,自ら確認した後,一斉に叫んだ。

『ホサナ。いと高き神の御名がほめたたえられますように。』」4

それからもう一度,「彼らはイエスの足もとに伏し」ました。しかし,今度は目的がありました。彼らは「イエスを拝した」と書かれています。5

現代

今年の初め,わたしは割り当てを受けて合衆国西部のステークを訪問しました。いつもどおりの日曜日,いつもどおりの集会が開かれ,いつもどおりの教会員が来ていました。わたしは,人々が礼拝堂に入り,敬虔な態度で空いている席へと進む様子を見ていました。短くささやき合うような会話が廊下のあちこちで交わされます。母親や父親は,元気いっぱいの子供たちを落ち着かせようと奮闘しますが,時にむなしく終わることもあります。いつもどおりの光景です。

ところが,集会が始まる前に,御霊の霊感を受けた言葉がわたしの心に浮かびました。

この会員たちは,ただ責任を果たしに,あるいは話者の話を聞きに来たのではありません。

より深くはるかに重要な目的のために来ていました。

礼拝するために集っていたのです。

集会が進む中,わたしは聴衆の中の様々な会員をよく見てみました。まるで天にいるかのような表情をしていて,敬虔で穏やかでした。その様子を見て,わたしは心に温かいものを感じました。その日曜日に彼らが経験していたことは,非常に特別なものでした。

彼らは礼拝していました。

天を垣間見ていたのです。

表情からそれが分かりました。

わたしは喜びに満たされ,彼らとともに礼拝しました。すると,御霊が心に語りかけました。その日わたしは,自分自身について,神について,また生活において真の礼拝が果たす役割について,学んだのです。

日常生活における礼拝

教会の召しにおける奉仕に関して言えば,末日聖徒は並外れた働きをします。しかしながら時折,わたしたちはただ仕事をこなすかのように,型にはまったやり方をすることがあるかもしれません。集会に出席し,王国のために奉仕するとき,時に,神聖な礼拝の要素が抜け落ちていることがあるかもしれません。礼拝という要素がなければ,わたしたちは無限なる御方との比類なき霊的な交わり,つまり,愛にあふれた天の御父の子供として享受できる機会を逃していることになります。

礼拝とは,偶然に運よく起こるものではありません。わたしたちの霊的な生活にとって不可欠であり,要となるものです。わたしたちは礼拝することを切望し,求め,その機会を得るよう努力するべきです。

礼拝とは何でしょうか

神を礼拝するとき,わたしたちは畏敬の念を伴う愛と,謙遜,崇拝の心をもって神に近づきます。神を統治者たる王として,宇宙の創造主として,またわたしたちの愛する,無限の愛にあふれた御父として認め,受け入れます。

わたしたちは神を敬い,あがめます。

自分自身を神の御心に従わせます。

熱烈な祈りによって心を高め,主の御言葉を大切にし,主の恵みを喜び,献身的かつ忠実に従うと決意します。

神への礼拝はイエス・キリストの弟子としての生活に欠かせない要素です。心で神を受け入れなければ,評議会や教会,神殿で神を求めても無益なのです。

まことの弟子は「天と地と海と水の源とを造られた御方を礼拝し」「日夜主の名を呼」ぶようになります。6

ほかの人々,すなわち自分とさほど変わらない状況にある人々が,神の御前でどのように交わり,振る舞い,礼拝するかを観察することで,真の礼拝について多くを学べます。

驚異,感謝,希望

19世紀の初め,キリスト教世界では,神がなお人に語られるという考えはほとんど廃れていました。ところが1820年の春,つつましい,農場育ちの少年が森に入り,ひざまずいて祈ったとき,世界は永遠に変わったのです。その日以来,驚くべき示現,啓示,天からの現れがあふれんばかりに地上に注がれ,神の特質と目的についての,また神と人の関係についての尊い知識が授けられてきました。

オリバー・カウドリはそのような日々を,「決して忘れられない」日々であり,「……何という喜びであろう。何という驚異であろう。何という驚きであろう」と表現しました。7

オリバーの言葉には,神への真の礼拝に伴う第一の要素が表れています。すなわち,厳かな畏敬の念と深い感謝の思いです。

毎日,とりわけ安息日には,天の不思議と畏怖を味わい,神の恵み深い慈しみとあふれる憐れみに対して,賛美をささげる,たぐいまれな機会があります。

わたしたちを希望へと導いてくれるものです。これらが礼拝の第一の要素です。

光,知識,信仰

五旬節の祝福された日,聖なる御霊はキリストの弟子たちの心と思いに入り,彼らを光と知識で満たされました。

その日まで,時に弟子たちは何をすべきか分からないことがありました。救い主に従う者にとってエルサレムは危険な場所となったので,これからどうなるのかと心配だったことでしょう。

しかし,聖なる御霊によって心を満たされたとき,疑念や戸惑いは消え去りました。真の礼拝というこの上ない経験を通して,神の聖徒たちは天の光と知識を受け,証は強められ,信仰へと導かれました。

そのときから,使徒と聖徒たちは確固とした方向性をもって行動するようになりました。雄々しく,キリスト・イエスについて全世界に宣べ伝えたのです。

わたしたちが心から礼拝するとき,魂に光と真理を受け,信仰が強められます。これらも真の礼拝に欠かせない要素です。

弟子としての務めと慈愛

モルモン書には,息子アルマが自らの反抗的な行いがもたらした苦しみから解放された瞬間を境に,以前とは異なる人物となったことについて書かれています。アルマは「全地を旅し,……すべての民の中を巡って,自分……がかつて教会に加えたすべての害悪の償いをしようと熱心に努め」ました。8

全能の神を絶えず礼拝することで,アルマはやがて力強い弟子となったのです。

真の礼拝は,愛する主,救い主イエス・キリストに誠心誠意,熱心に従う弟子へとわたしたちを変容させます。わたしたちは変わり,さらに主に似た者となります。

さらに理解し,思いやり,赦し,愛するようになるのです。

周りの人々を憎み,しりぞけ,軽視しながら,神を愛している,と言うことはできないと,わたしたちは知っています。9

真の礼拝は,弟子としての道を歩み続けるという揺るぎない決意を生み,必然的に慈愛をもたらします。これらも真の礼拝に欠かせない要素です。

感謝しつつ,主の門に入る

いつものステークの,いつもの集会所で,いつもどおりの日曜の朝として始まったあの出来事を思い出すと,その特別な霊的経験に今でも感動を覚えます。わたしの人生を永遠に祝福することでしょう。

どんなにうまく時間や召し,割り当てを管理し,「完璧な」個人や家族,指導者としてなすべきことをすべてこなしたとしても,憐れみ深い解放者,天の王,栄えある神を礼拝しなければ,わたしたちは福音から得られる喜びと平安の多くを逃しているのです。

神を礼拝するとき,わたしたちは古代アメリカ大陸の民と同じ敬虔さをもって,主を認め,受け入れます。人の理解を超える驚きと畏敬の念をもって主に近づき,神の慈しみに感謝をもって驚嘆します。このようにして,希望を抱くのです。

神の御言葉について深く考えると,わたしたちの魂は光と真理で満たされます。聖霊の光を通してのみ見ることのできる霊的な展望を理解します。10このようにして,信仰を抱くのです。

礼拝するとき,魂は精錬され,わたしたちは愛する救い主イエス・キリストに従って歩むことを決意します。その決意によって,慈愛を抱くようになります。

礼拝するとき,わたしたちの心は朝も昼も夜も絶えず,恵みあふれる神への賛美で満たされます。

集会所,家庭,神殿,すべての働きにおいて,わたしたちは常に神を神聖な御方としてあがめ,尊ぶのです。

礼拝するとき,わたしたちはイエス・キリストの贖いがもたらす癒しの力に心を開きます。

わたしたちの生活は,礼拝の精神を表す証拠,しるしとなります。

兄弟姉妹の皆さん,霊的な経験はわたしたちの周りで起こる出来事にはあまり影響されません。わたしたちの心の中で起こることにこそ,強く影響されるのです。真の礼拝により,いつもの教会の集会が,特別な霊の晩餐会に変わることを証します。真の礼拝は生活を豊かにし,理解力を広げ,証を強めてくれます。かつて詩篇の作者が述べたように,心を神に向けるとき,わたしたちは「感謝しつつ,その門に入り,ほめたたえつつ,その大庭に入〔り,〕主に感謝し,そのみ名をほめまつ〔り〕」ます。

「主は恵みふかく,そのいつくしみはかぎりなく,そのまことはよろず代に及ぶから」です。11

誠心誠意,心から礼拝することによって,わたしたちは希望,信仰,慈愛を身につけ,育むことができます。その過程を通して魂に天の光を集め,その光が神聖な意義と尽きることのない平安,永続する喜びを生活に注ぎ込むのです。

これこそ,礼拝が人生にもたらす祝福です。このことをイエス・キリストの聖なる御名により,へりくだり証します,アーメン。