2016年
主の御心と時期を受け入れる


主の御心と時期を受け入れる

2013年3月3日,テキサス大学アーリントン校で行われた教会教育システムディボーショナルで話された「……身を引くこと〔のないように〕」と題する説教から。

救い主を信じる強い信仰とは,人生における主の御心とそれが行われる時期を従順に受け入れることです。たとえそれが自分の期待や要求と異なっていてもです。

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「ゲツセマネにおけるキリスト」の一部,ハリー・アンダーソン画

ニール・A・マックスウェル長老は主イエス・キリストの愛弟子であり,十二使徒定員会の会員として,1981年から2004年までの23年間奉仕しました。彼の教えから発せられる霊的な力と忠実な弟子としての模範は,回復された救い主の教会の会員と世界中の人々を驚くべき方法で祝福してきました。それは,今日のわたしたちをも祝福しています。

1997年10月,妻のベドナー姉妹とわたしはブリガム・ヤング大学アイダホ校(旧リックスカレッジ)にマックスウェル長老夫妻を迎えました。マックスウェル長老は,学生と教職員に向けてディボーショナルで話すことになっていました。

その同じ年の初め,マックスウェル長老は白血病のために,46日間にわたって昼夜を問わず,体力を消耗させてしまう化学療法を受けました。春から夏の間にかけて行われたリハビリと継続的な治療が功を奏したとはいえ,レックスバーグまで旅をするには,マックスウェル長老の体力とスタミナには限界がありました。妻とわたしは空港でマックスウェル長老夫妻を迎えてから,二人を車に乗せて自宅に向かいました。一休みして,ディボーショナルの前に軽い昼食を取ってもらうためでした。

わたしは,マックスウェル長老がこの病気からどんな教訓を得たのか尋ねてみました。彼の明確で魂に突き刺さるような答えは,決して忘れません。長老は言いました。「デーブ,身を引かないことは生き延びることよりも重要だってことだよ。」

わたしの問いに対する長老の答えは,彼が化学療法を受けていたときの大変な個人的経験から得た原則です。1997年1月,1期目の治療の開始予定日が来ました。マックスウェル長老は妻の方を見ると,その手を握って,深くため息をつき,こう言いました。「絶対にここで身を引くわけにはいかないんだ。」

マックスウェル長老は,1997年10月の総大会の話の中で,非常に誠実に次のように教えました。「……試練や苦難に遭うとき,わたしたちも,イエスがされたように,御父に助けを求めることができます。『身を引く』すなわち逃げ出すことがないように祈るのです(教義と聖約19:18)。身を引かないことは,生き延びることよりも重要です。さらに,恨みを抱かずに苦難を経験するのは,イエスの行為に倣うことでもあるのです。」1

救い主が無限で永遠の贖いの犠牲をささげられたときの苦しみに関する聖文は,さらにわたしの心を打ち,一層意義深いものになりました。

「見よ,神であるわたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。

しかし,もしも悔い改めなければ,彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。

その苦しみは,神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは,その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。

しかしながら,父に栄光があるように。わたしは杯を飲み,人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」(教義と聖約19:16-19

救い主は,ゲツセマネでもゴルゴタでも,身を引くことはなさいませんでした。

マックスウェル長老も,身を引くことをしませんでした。この力強い使徒は確固として歩みを進め,祝福として地上にとどまる時間を長くされ,愛し,仕え,教え,証しました。長老が人生の最期の数年間に言葉と行いとで示した献身的な弟子としての模範は,驚嘆すべきものです。

わたしたちのほとんどは,マックスウェル長老のような高い霊性と経験を持つ偉大な人物になって神の幸福の計画を理解し,確信と品格を身につけて重い病や死に堂々と立ち向かえるようになれたらよいのに,と思っているはずです。しかし,わたしが証したいのは,そのような祝福は中央幹部やわずかばかりの選ばれた教会員に限って与えられるのではないということです。

わたしは十二使徒定員会の召しを頂き,割り当てを受けて旅をする中で,世界中の忠実で勇気ある優れた末日聖徒と知り合うことができました。その中で,わたしの人生に祝福を与えてくれた一組の若い男女についてお話ししたいと思います。彼らは身を引かないことについて,また個人的な思いを「御父の御心にのみ込ま〔せる〕」(モーサヤ15:7)ことについて霊的に不可欠な教訓を,わたしに教えてくれました。

これは実話であり,登場する人物は実在しますが,実名を使うのは控えたいと思います。彼らの日記から幾つか読み上げますが,許可は得ています。

「わたしの思いではなく,父のみこころが成るように」

ジョンはふさわしい神権者で,専任宣教師として忠実に働きました。そして伝道から帰ると,義にかなったすばらしい若い女性のヘザーと交際して結婚しました。ジョンが23歳でヘザーが20歳のとき,二人は主の宮でこの世と永遠にわたって結び固められました。

神殿結婚から約3週間後,ジョンは骨肉腫と診断されました。がん細胞は肺にも見つかり,見通しはよくありませんでした。

ジョンは日記にこう記録しています。「生涯で最も恐ろしい一日だった。がんの宣告を受けたからばかりでなく,結婚して間もないのに夫として失格だと感じたからだ。新しい家族を養い,守るはずが,たった3週間でこの有様だ。自分はだめなやつだと思った。」

ヘザーはこう記しています。「とんでもない知らせだった。ばら色の将来が一変してしまった。ジョンの検査結果を待つ間,病院の待合室で結婚祝いの礼状を書いていた。でも,ジョンががんだと分かってからは,電気調理器もお鍋もどうでもよくなった。生涯最悪の日だった。それでも,その晩床に就く前に,二人が神殿で結び固められていることに感謝の祈りをささげたことを覚えている。病院ではジョンが治る見込みはわずか30パーセントだと言われたけれど,わたしたちが忠実でいる限り,100パーセントわたしたちは永遠に一緒にいられる。」

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イラスト/ベン・ソワーズ

約1か月後にジョンの化学療法が始まり,ジョンはそれについて次のように書いています。「化学療法のために今まで味わったことのないほど具合が悪くなった。髪は抜け落ち,体重は19kg減り,体がばらばらになったような感じだった。化学療法は情緒面にも,精神面にも,そして霊的な面にも影響を及ぼした。化学療法を受けている期間は,まるでジェットコースターに乗っているかのように気持ちの浮き沈みが激しかった。しかしその期間中ずっと,ヘザーとわたしは,神がわたしの体を癒やしてくださるという信仰を持ち続けた。きっとそうだと信じていたから。」

ヘザーは自分の考えや気持ちをこう書いています。「ジョンを夜,病院で独りにすることには耐えられなかったので,わたしは毎晩病室の小さなソファで寝た。日中はたくさんの友人や家族が見舞いに来てくれるけれど,夜は一番つらかった。病室の天井を見詰めては,天の御父はわたしたちにどんな計画をお持ちなのだろうかと考えた。悪いことばかり考えてしまうこともあり,ジョンを失う恐怖に打ち負かされそうになることもあった。でも,こういう思いは天の御父から来るものじゃないことは分かっている。慰めを求めて祈ることが多くなってくると,主は耐える力をわたしに与えてくださった。」

3か月後,ジョンは足の大きな腫瘍を取り除くための外科手術を受けました。手術から2日後,わたしは病院にジョンとヘザーを訪ねました。わたしたちは伝道中にわたしがジョンと初めて会ったときのことや,彼らの結婚について,がんについて,それから現世の試練から学ぶ永遠にわたって大切な教訓について語り合いました。訪問を終えて帰ろうとすると,ジョンは神権の祝福をしてくれないかとわたしに頼みました。喜んでそうすると伝えましたが,その前に幾つか質問をする必要がありました。

それからわたしは,自分でも思いがけない,しかもこれまでに一度も考えたことのない質問を投げかけたのです。「ジョン,君は病が癒やされなくても信仰を保っていられるかい。もしもその若さで亡くなって活動の場が霊界に移り,そこで務めを果たすことが天の御父の御心だとしたら,御心に従って癒やされないことをよしとする信仰が持てるかな。」

聖文ではしばしば,救い主やその僕が癒やしの霊的な賜物を行使し(1コリント12:9教義と聖約35:946:20参照),本人に癒やされる信仰があることを見抜いておられます(使徒14:93 ニーファイ17:8教義と聖約46:19参照)。しかしこの夫婦とわたしはともに話し合い,これらの質問と苦闘するうち,もしもこの善良な若者が癒やされることが神の御心なら,この勇気ある夫婦がまず,癒やされないことについての信仰を持って初めてその祝福が与えられるということが,次第に理解できるようになりました。別の言葉で言えば,ジョンとヘザーは主イエス・キリストの贖いを通して,誰もが持っている「生まれながらの人」(モーサヤ3:19)の性癖を克服する必要があるのです。その性癖とは,自分が欲しいと思ったり,もらって当然だと思い込んだりしている祝福を性急に,しかも絶えず要求してしまうことです。

わたしたちは,献身的な弟子に必ず当てはまる一つの原則があることを知っています。すなわち,救い主への強い信仰によって,人生における主の御心とそれが行われる時期が,たとえ自分の期待や要求と異なっていても従順に受け入れるということです。もちろんジョンとヘザーも勢力と思いと力を尽くして,癒やされることを願ってやみませんでした。しかし,それ以上に重要なのは,この夫婦が「子供が父に従うように,主が〔彼ら〕に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従う」ことなのです(モーサヤ3:19)。実際彼らは進んで「〔彼ら〕自身をキリストへのささげ物としてささげ」ようとしており(オムナイ1:26),謙遜に「父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」と祈りました(ルカ22:42)。

初めは,わたしたち3人にとって理解しにくい質問であったものが,実は一見矛盾したように見える福音の原則であることが分かってきました。救い主の次の勧告を考えてみてください。「自分の命を得ている者はそれを失い,わたしのために自分の命を失っている者は,それを得るであろう。」(マタイ10:39)また,次のようにもおっしゃっています。「しかし,多くの先の者はあとになり,あとの者は先になるであろう。」(マタイ19:30)そして主は末日の弟子たちにもこう勧告されました。「あなたの言葉によって多くの高い者が低くされ,またあなたの言葉によって多くの低い者が高くされるであろう。」(教義と聖約112:8)ですから,癒やされないことについて信仰を持つということは,知識と知力を増すためには求め,捜し,たたくことが必要であるという一見矛盾した福音の原則と,見事に調和しているように思われました(3ニーファイ14:7参照)。

ジョンは,わたしの問いについてじっくり考え,妻ともよく話した後にこう言いました。「ベドナー長老,わたしは死にたくありませんし,妻を残してこの世を去るのも嫌です。それでもわたしを霊界へ連れて行くことが主の御心なのであれば,それでいいのではないかと思います。」

この若い夫婦があらゆる霊的苦悩の中でも最も過酷と言える,神の御心に自分の意思を従わせるという決断を下す様子を見て,わたしの心は感謝と称賛の気持ちでいっぱいになりました。この夫婦が癒やされたいという自分たちの強い,しかも無理からぬ願いが「御父の御心にのみ込まれてしま〔っても〕」よいと考えるようになる様子を見て(モーサヤ15:7),わたしの信仰は強められました。

ジョンは,わたしたちの会話の結果自分が取った行動と受けた祝福について,このように書いています。「ベドナー長老は,身を引かないことは生き延びることよりもすばらしいというマックスウェル長老の言葉を教えてくれた。それからベドナー長老にこう尋ねられた。『癒やされる信仰を君が持っていることは分かるけれど,癒やされないことについての信仰はあるかい。』これは意外だったが,要するに,癒やされないことが神の御心だとしたら,それを受け入れるだけの信仰があるかどうかを聞いていたのだ。死んで霊界へ行く時が自分に迫っているのだとしたら,それを従順に受け入れる備えが自分にはできているだろうか。」

ジョンは続けてこう書いています。「癒やされない信仰を持つということは矛盾しているようにも思えたが,そのおかげでわたしたち夫婦の物の見方が変わり,妻とわたしは御父が用意してくださった計画に全幅の信頼を寄せるようになった。何が起ころうとも主が責任を持ってくださり,今いる場所から,行くべき場所へと主が導いてくださるという信仰が必要だということが分かった。妻と祈るときは,『健康にしてください』ではなく,『主が用意しておられる結末がどのようなものであっても,それを受け入れる信仰をお与えください』と願うようになった。

ベドナー長老は使徒なのだから,わたしの体が元どおりになるよう彼が祝福してくださったら,わたしはベッドから飛び起きて踊り始める,そんな劇的なことが起こるに違いないと思っていた。しかし,彼がその日わたしを祝福したとき,その口から出た祝福の言葉が,わたしの父や義父,それに伝道部会長が述べた言葉とほとんど同じだったことに驚いた。誰の手が頭に置かれようと,関係ないことが分かったのである。神の力は不変であり,その御心はわたしたち一人一人に,権威ある僕を通して知らされるのだ。」

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ヘザーはこう記しています。「今日は複雑な気持ちでいっぱいだった。ベドナー長老がジョンの頭に手を置いたとき,がんは完全に癒やされると確信していた。神権の力によって夫が癒やされることは分かっていたし,そうなるよう必死に願っていた。ベドナー長老から,癒やされないことへの信仰について教えられてからは,怖くてたまらなかった。そのときまで,結婚したばかりの夫を失うことが主の計画の一部なのかもしれないという事実と向き合ったことなど一度もなかったから。わたしの信仰は,自分の望む結果に左右されていた。言ってみれば薄っぺらな信仰だったのだ。初めのうちは茫然自失だったが,癒やされないことに信仰を持つという言葉のおかげで,結局は不安から解放された。その言葉のおかげで,天の御父はわたし以上にわたしのことを御存じで,わたしとジョンにとって最善のことをしてくださるということが分かり,主に完全にお任せできるようになったからだ。」

祝福が与えられてから,数週間,数か月,そして数年が過ぎました。ジョンはがんから奇跡的に回復し,大学を終え,高収入の職業に就くことができました。ジョンとヘザーは引き続ききずなを強め合い,喜びの多い結婚生活を送りました。

それからしばらくして,ジョンとヘザーから手紙が来ました。がんが再発したそうです。化学療法が再開され,手術の予定が組まれました。ジョンはこう説明しています。「この知らせにヘザーとわたしは落胆したばかりか,混乱してしまいました。最初の試練で何か学び損ねたことがあったのだろうか。それとも主はわたしたちにもっと何か期待しておられるのだろうか。

そこで,はっきりさせるために祈り始めました。そして,がんがどうして再発したのか理解できるよう,主に尋ねました。そしてある日,新約聖書を読んでいるときに答えを受けたのです。読んでいたのは,キリストと使徒たちが海上におられたときに暴風が起きた場面でした。船が転覆しそうになったのを恐れて,弟子たちは救い主のところへ行き尋ねました。『先生,わたしどもがおぼれ死んでも,おかまいにならないのですか。』まさにこの気持ちです。わたしががんになっても,おかまいにならないのですか。子供を産み育てたいのに,おかまいにならないのですか。しかし,その話を読み進んでいくうちに答えが見つかりました。主は弟子たちを見てこうおっしゃいました。『信仰の薄い者たちよ。』それから主は手を伸ばし,海を静められました。

その瞬間,こう自問せざるを得ませんでした。『わたしはこの出来事を本当に信じているだろうか。その日主が海を静められたことを本当に信じているだろうか。それとも,読めばためになる程度のことだろうか。』その答えは,確かに信じているというものでした。主が海を静められたことを知っているので,わたしを癒やしてくださることが瞬時に分かりました。そのときまでわたしは,変わることのない主の御心に,キリストを信じる自分の信仰を合わせようと必死に努めていました。主が癒やしてくださるという信仰を持つことと主に信頼を置くこととは関連がないように思え,時には互いに相反するように感じることもありました。『最終的に主の御心が実現するのであれば,なぜ自分には信仰が必要なのですか』と尋ねました。この経験の後,少なくとも自分の場合,信仰を持つということは必ずしも主が癒やしてくださるかどうかを知ることではなく,主はわたしを癒やす力を持っておられると知ることなのだと分かりました。主はその力をお持ちであり,それが起こるかどうかは主にお任せする以外になかったのです。

それら二つの考えがわたしの中で共存するようになり,イエス・キリストへの信仰を強めることと,主の御心に完全に従うことに焦点を当てるようになると,これまで以上に大きな慰めと平安が訪れました。生活の至る所に主の御手があることを見るのは,すばらしいことです。物事が落ち着くべきところに落ち着き,奇跡が起き,神の計画が展開していくのを見るたびに,いつもへりくだる思いがします。」

山を動かそうとするならば,正義と信仰は確かに必要です。ただし,その場合,山を動かすことが神の目的を成就することであって,御心にかなっていなければなりません。病の人や,耳の聞こえない人,足の不自由な人を癒やそうとするときも同様で,正義と信仰はその手段です。ただし,その癒やしが神の目的を成就するものであり,御心にかなっていなければなりません。したがって,どんなに強い信仰があっても,多くの山は動かないでしょう。それに,病気の人や体の弱い人が全員癒やされるわけではありません。あらゆる反対勢力が消滅したり,弊害が全て取り去られたりするとしたら,御父の計画の第一の目的は果たされません。

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現世でわたしたちが学ぶべき教訓の多くは,経験したり,時には苦しんだりすることによってしか学ぶことができません。そして神は,わたしたちが神の助けを借りて一時的な現世の困難に立ち向かうことを望み,わたしたちにはそれができると考えておられます。そうしてわたしたちは学ぶべきことを身につけ,最終的には来世で,なるべき姿になるのです。

全てのことの意味

ジョンとヘザーのこの話は,平凡であると同時に,きわめて類いまれな話です。この若い夫婦は,世界中の何百万人もの,忠実で聖約を守る末日聖徒を代表しています。こういった人々はキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ちながら,細くて狭い道に沿って歩みを進めています(2ニーファイ31:19-20参照)。ジョンとヘザーは教会で非常に目立つ指導的な立場で奉仕していたわけではありませんし,親族に中央幹部がいるわけでもありませんでした。疑問や恐れを抱くこともあったことでしょう。こういった多くの点から見れば,これはまったくどこにでもある話と言えます。

しかし,この若い男女は類いまれな方法で祝福を受け,心身の苦痛と困難を通して永遠にわたる最も重要な教訓を学んだのです。この話を紹介した理由は,皆さんの多くと何ら変わるところのないジョンとヘザーが,身を引かないことは生き延びることよりも重要だということを理解することができたからです。つまり彼らの体験談は,そもそも生きるか死ぬかの問題ではなく,学び,生き,ふさわしくなるという話です。

多くの皆さんにとって,この夫婦の話は現在経験している話かもしれませんし,経験したことのある話かもしれません。または,これから経験することになる話かもしれません。皆さんは,ジョンやヘザーと変わらぬ勇気と霊的な視点をもって,人生で同様の試練を現在経験しているかもしれませんし,過去に経験したかもしれません。また,将来経験することになるのかもしれません。試練や苦痛を通して永遠の教訓を学ぶ人がいる一方で,救いや癒やしを通して同様の教訓を学ぶ人がいます。その理由は,わたしには分かりません。わたしには全ての理由や目的が分かるわけではありませんし,主がいつそれを成就なさるのかを全て知っているわけでもありません。ニーファイと同様,皆さんもわたしも「すべてのことの意味を知っているわけではありません」となら言うことができます(1ニーファイ11:17)。

しかし,間違いなく知っていることが幾つかあります。わたしたちは愛に満ちた天の御父の霊の息子,娘です。永遠の御父は幸福の計画を作られました。イエス・キリストはわたしたちの救い主であり,贖い主です。イエスは御自身の無限で永遠の贖罪を通して,御父の計画を可能にしてくださいました。主は「寂しき丘に世を去れど」2「御自分の民を彼らの弱さに応じて」救い,強めることがおできになります(アルマ7:12)。そして,現世の最も偉大な祝福の一つは,身を引かないでいられること,そしてわたしたち一人一人の思いが「御父の御心にのみ込まれて」もよいと考えられるようなることです(モーサヤ15:7)。

このような祝福がどのようにして,いつ,どこで,なぜ起こるのかが全て分かるわけではありませんが,実際に起こることは知っています。皆さんが人生においてキリストに確固たる信仰をもって歩みを進めるとき,身を引かないでいることができるようになると知っています。

  1. ニール・A・マックスウェル「キリストの贖いの血の効力を及ぼす」『聖徒の道』1998年1月号,26参照

  2. 「ナザレ出しわが主よ」『賛美歌』100番