2010–2019
決して独りで歩いているのではない
2013年10月


決して独りで歩いているのではない

つらかった日々を振り返る時がいつか来ます。そのとき皆さんは,天の御父がいつもそばにいてくださったことを知るのです。

愛する姉妹の皆さん,今晩わたしたちはすばらしい気持ちを感じています。それは,皆さんの強さと,献身と,善良さからもたらされる気持ちです。主の御言葉を借りれば,「あなたがたは,地の塩……あなたがたは,世の光」1です。

皆さんにお話しするこの機会について深く考えていたとき,心に浮かんだことは,愛する妻フランシスが扶助協会を愛していたということです。妻は生涯を通じて扶助協会の様々な責任で奉仕しました。妻もわたしも31歳になったばかりのころ,わたしはカナダ伝道部の会長に召されました。その責任に就いていた3年の間,フランシスは,あの広大な地域にある全ユニットの扶助協会を管理しました。その範囲はオンタリオ州からケベック州にまで及びます。彼女の最も親しい友人の何人かとはこの責任を通して知り合いました。また同じように,その後わたしたち自身のワードの扶助協会で果たした多くの召しを通しても,彼女は親しい友人を得ました。彼女は天の御父の忠実な娘であり,わたしの愛する同僚であり,最も親しい友でした。彼女がいない寂しさは言葉で表すことはできません。

わたしも扶助協会を愛しています。扶助協会が霊感によって組織されたものであり,この地上における主の教会の中で欠くことのできない部分を構成していることを証します。この組織からこれまでもたらされてきた善い行いや,この組織によって祝福を受けてきた人々をすべて数え上げることは不可能なことでしょう。

扶助協会は様々な女性によって構成されています。皆さんの中には,独身の人,恐らく学生または社会人で,それでも満ち足りた豊かな生活を送っている人がいるでしょう。あるいは子育てに忙しい母親もいることでしょう。さらに,中には離婚や死別によって夫を失い,夫や父親の助けのない中で子供を育てることに奮闘している人もいます。また,子供は大きくなっても親の助けが必要なことには変わりがないと実感している人もいます。皆さんにしかできない愛に満ちた世話を必要としている年老いた親のいる人もいます。

人生のどの段階であろうと,わたしたちは皆,困難や葛藤を経験します。困難や葛藤は一人一人異なっていますが,すべての人が直面するという点では共通しています。

わたしたちが直面する問題の多くは,ありとあらゆる人が住む,この死すべき世で生活していることが理由で起こります。時にわたしたちは投げやりになってこう尋ねるかもしれません。「この星の栄えの世界を歩むときに,どうしたら日の栄えの世界に固く目標を定めることができるのだろう。」

いばらがまかれ,問題が山積する道を歩くこともあるでしょう。あらゆる良い贈り物を下さる御方から遠く離れてしまった,あるいは絶たれてしまったと感じるときもあるかもしれません。自分は独りで歩いているのではないかと心配になります。恐れが信仰に取って代わってしまうのです。

皆さんが,自分は今そのような境遇にあると感じたら,祈りを思い出してくださるよう心からお願いします。わたしは祈りについて語ったエズラ・タフト・ベンソン大管長の言葉が大好きです。彼はこのように言いました。

「これまでの人生を通じて,祈りに頼りなさいという勧告は,わたしにとってほかのどのような助言よりも貴重なものでした。祈りはわたしにとって欠くことのできないものであり,頼みの綱であり,絶えざる力の源であり,また聖なる事柄に対する知識の基盤となるものです。……

……たとえ……災難が来ようとも,わたしたちは祈ることによって安心感を得ることができます。神がわたしたちの心に平安を下さるからです。この平安,つまり平静な心は人生における最高の祝福です。」2

使徒パウロは次のように勧告しています。

「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあって守るであろう。」3

何という輝かしい約束でしょうか。平安こそわたしたちが求めるもの,切望するものなのです。

わたしたちは独りで歩くようにこの地上に置かれたのではありません。実に驚くような力の源,強さの源,慰めの源が一人一人の手の届く所にあります。わたしたち自身よりもわたしたちのことを御存じの御方が,また,はるかに広い視野をお持ちで,初めから終わりまでを御存じの御方が,わたしたちが求めさえすればわたしたちのためにそばにいて助けると約束しておられるのです。わたしたちにはこのような約束があります。「常に祈り,そして信じていなさい。……万事があなたがたの益となるようにともに働くであろう。」4

わたしたちの祈りが天に向かうとき,救い主が教えられた御言葉を忘れないようにしましょう。ゲツセマネと十字架上での堪え難い苦痛に直面された救い主は御父にこう祈られました。「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。」5御父を信頼することが難しいときがあるかもしれません。しかしわたしたちも天の御父を信頼し,御父が,どのように,いつ,どの方法でわたしたちの求める助けを与えるのが最も良いかを御存じの御方であることを信じなくてはなりません。

わたしは次の詩人の言葉を大切にしています。

いかなる方法でこたえられるのか,わたしは知らない

ただ,分かること,それは神が祈りにこたえたもうこと

神は約束を賜わった

祈りは必ず聞き届けられると

遅かれ早かれこたえられると

だからわたしは祈り,静かに待つ

祝福が求めるままにもたらされるのか

わたしには分からない

だが祈りの答えは神にのみゆだねよう

神の思いはわたしの思いよりもはるかに優れている

神は必ずわたしの求めにこたえて

はるかに祝福された答えを賜わるだろう6

もちろん,祈りをささげるのは困ったときだけではありません。わたしたちは聖文の中で,「絶えず……祈〔る〕」7ように,そして心の中で祈り続けるようにと,繰り返し教えられています。8わたしたちの愛唱する賛美歌が,毎日問いかけるべき質問を投げかけています。「部屋を出る前に 祈りしか」と。9

祈りとともに,困難の多いこの世で対処できるようわたしたちを助けるものが聖文の研究です。4冊の標準聖典に書かれている真理と霊感の言葉は,わたしにとって非常に価値あるものです。聖文を読むことに飽きることは決してありません。聖文を調べているときはいつも霊的に高められます。真理と愛のこれらの聖なる言葉は,わたしの人生を導き,永遠の完成に向かう道を指し示してくれます。

聖文を読んで深く考えるとき,御霊が優しくささやきかけてくださるのを経験します。疑問に対する答えを見つけることができます。神の戒めを守ることからもたらされる祝福について学びます。天の御父と救い主イエス・キリストについて,そして御二方がわたしたちに寄せられる愛について確かな証を得ることができます。さらに祈りが加われば,イエス・キリストの福音が真実であることを確かに知ることができます。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長は次のように言いました。「わたしたち一人一人のうえに主の祝福があって,主の聖なる御言葉を味わい,主が約束された『人知ではとうてい測り知ることのできない』(ピリピ4:7 )力と平安と知識を得ることができますように。」10

祈りを忘れず,時間を取って聖文を調べるなら,わたしたちの生活ははるかに祝福され,重荷は軽くされます。

ある一人の女性の祈りと願いを天の御父がどのようにして聞き届け,彼女が心の底から求めていた平安と確信を下さったのか紹介したいと思います。

ティファニーの問題は昨年,感謝祭と,次にクリスマスに家に客を迎えたことをきっかけに始まりました。夫は医学部を卒業し,研修医2年目でした。夫は長時間働かなければならず,最初に二人が望んでいたほどティファニーを手伝う時間が取れない状態でした。4人の幼い子供の世話に加え,休暇中にしなければならないことの大半がティファニーの肩にのしかかっていました。彼女の気持ちは次第に滅入ってきました。さらに,親しい友人が癌と診断されたということも分かったのです。ストレスと不安が重くのしかかり始めました。こうして彼女は意欲を失い,うつになってしまったのです。医師の助けを求めましたが改善しませんでした。食欲の減退と体重の減少で,彼女の小さな体は対応し切れなくなっていました。聖文を研究して平安を求め,襲いかかる暗闇から解放してほしいと祈りました。しかし,平安も助けも受けられそうにないと思われたとき,神に見捨てられたと感じるようになりました。家族も友人も彼女のために祈り,懸命に助けようとしました。肉体的な健康だけは保たせようと,彼女の大好きな食べ物を届けました。しかし,彼女はほんの一口か二口食べるだけで,全部を食べることはとてもできませんでした。

特に苦しかった日のこと,一人の友人が,何とか元気になってもらいたいとティファニーの好きな食べ物を持って来ましたが,結局は無駄でした。どんなことをしてもうまくいかなかったとき,その友人が言いました。「おいしそうだと思うものが何かあるはずよ。」

ティファニーはしばらく考え,こう言いました。「一つだけ,おいしそうだと思うのは手作りのパンなの。」

でも,手近にはありませんでした。

翌日の午後,ティファニーの家のベルが鳴りました。夫がたまたま家にいて応対しました。戻って来た夫は手作りのパンを1斤抱えていました。ティファニーは,そのパンが二人のあまりよく知らないシェリーという女性から届いたことを聞いて,ほんとうに驚きました。彼女はティファニーの妹ニコルの友人でした。ニコルはコロラド州のデンバーに住んでいます。数か月前,ニコルが感謝祭のお祝いに家族でティファニーの家に滞在していたとき,姉夫婦に簡単に紹介したのが友人シェリーでした。オマハに住んでいたシェリーは,ニコルに会いにティファニーの家まで訪ねて来たのです。

それから数か月後,こうしてティファニーはおいしそうなパンを持ったまま,妹のニコルに電話をしました。思いやりあることづてをシェリーに頼んでくれたことを感謝するつもりでした。ところが,その訪問はニコルの依頼ではなく,ニコル自身知らなかったことが分かりました。

ニコルがシェリーに,どうしてパンを届けようと思ったのかを尋ねたことで謎が解けました。ニコルが知ったこと,それはニコルへの霊感であり,ティファニーへの霊感であり,シェリーへの霊感でした。そして,わたしにとっての霊感です。

パンが届けられたあの朝,シェリーは,予定していた1斤ではなく 2斤のパンを焼くようにという促しを受けていました。そして理由は分からないまま,2斤目はその日,車に乗るときに持って行かなくてはという強い気持ちが起きたと言うのです。友人の家で昼食を終えると,1歳の娘が泣き始めました。家に帰って,昼寝をさせなければならなくなったのです。シェリーは,あのパンをニコルの姉のティファニーのところへ持って行かなければならないとはっきりと感じたとき,ためらいを覚えました。ティファニーの家は町の反対側にあって30分もかかるうえ,よく知らない人です。持って行かなくてもいい理由を考えました。疲れ切った娘を家へ連れて帰りたいと思いましたし,ほとんど初対面の人にパンを届けることが恥ずかしくもあったからです。しかし,ティファニーの家へ行かなければならないという思いは強く,それで促しに従って行くことにしたのです。

彼女が家に着くと,ティファニーの夫が出て来ました。シェリーは,自分はニコルの友人で,感謝祭のとき少し会ったことがあると言ってパンを渡し,帰りました。

こうして主は,町の反対側から初対面に近い人を送られました。欲しかった手作りのパンを届けるためだけでなく,ティファニーへの愛をはっきり伝えるためでした。彼女に起こったことは,ほかの方法では説明がつきません。ティファニーは,自分が独りでないことをどうしても感じる必要がありました。神が彼女の状況を御存じで,決して見捨ててはおられないと感じる必要があったのです。彼女が必要としていたまさにそのパンは,あまり知らない人から,また,彼女に何が必要なのかまったく分からない人から,しかし,御霊の促しに耳を傾けその促しに従った人から,届けられました。それは,ティファニーにとって,天の御父が彼女の必要としているものを御存じであり,助けを送ってくださるほどに彼女を愛しておられることを示す明らかなしるしとなりました。助けを求める彼女の叫びに天の御父はおこたえになったのです。

愛する姉妹の皆さん,天の御父は皆さんを,皆さん一人一人を愛しておられます。その愛は不変です。その愛は,皆さんの外見や持ち物,あるいは銀行口座にある金額に左右されるようなものではありません。皆さんの才能や能力でも変わりません。その愛はただそこにあるのです。皆さんが悲しんでいるとき,喜んでいるとき,落胆しているとき,希望に満ちているとき,皆さんのために存在しています。神の愛は,皆さんがその愛にふさわしいと感じているかどうかにかかわらず,皆さんのために存在しています。いつもそこに存在しているのです。

切実な真心からの祈りによって,そして真剣で熱心な聖文の研究によって天の御父を求めるとき,証は強められ,深く根付きます。神がわたしたちを愛してくださっていることが分かり,決して独りで歩いているのではないことを理解します。わたしは皆さんに約束します。つらかった日々を振り返る時がいつか来ます。そのとき皆さんは,天の御父がいつもそばにいてくださったことを知るのです。わたしの永遠の伴侶,フランシス・ビバリー・ジョンソン・モンソンが亡くなって,それが真実だと分かります。

わたしの祝福を皆さんに残します。皆さんの善い行いすべてに,そして皆さんの生き方に感謝します。皆さんがあらゆる良い賜物に恵まれるように祈っています。わたしたちの救い主であり贖い主であられる,主イエス・キリストの御名により,アーメン。