2010–2019
イエスの教え


イエスの教え

イエス・キリストは,確かに神の独り子,神の愛あい子しです。……主は……罪と死からわたしたちを救ってくださる救い主です。これが地上における最も大切な知識です。

「なたがたはキリストをどう思うか。」(マタイ22:42)イエスのこの御み言こと葉ばは,当時のパリサイ人を困惑させました。末日聖徒の皆さんとほかのクリスチャンの方々に同じ質問をします。皆さんがイエス・キリストについて心から信じているのはどのようなことですか。また,その信条のゆえにどのようなことを行っていますか。

これから引用する聖句のほとんどは,大半のクリスチャンに親しみのある聖書から取ったものです。もちろん,解釈は現代の聖典,特にモルモン書をよりどころとしています。モルモン書は,あいまいなために様々なクリスチャンが異なる見解を持つ聖書の聖句の意味を教えてくれるものです。わたしは,信者の皆さんだけでなく,そうでない方々にもお話しします。タッド・R・カリスター長老が今朝説いたように,クリスチャンであると自称する人の中には,イエスを偉大な教師としてたたえながらもイエスの神性を認めるのを避ける人がいます。このような人に話す際,わたしはこれまで,イエス御自身の御言葉を使って話してきました。主がどういう御方で,何をするために地上に送られたかについて,主御自身が語られたことを,わたしたちは皆深く考える必要があります。

独り子

イエスは,御自分が独り子であるとお教えになり,こう言われました。

「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御み子こを信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。

神が御子を世につかわされたのは,世をさばくためではなく,御子によって,この世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17

父なる神は,このことを肯定されました。変へん貌ぼうの山での神聖な出来事の絶頂で,御父は天から次のように宣言されたのです。「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である。これに聞け。」(マタイ17:5

イエスはさらに,御自分の御み姿すがたが御父の御姿と同じであると教えられました。使徒にこのように語っておられます。

「『もしあなたがたがわたしを知っていたならば,わたしの父をも知ったであろう。しかし,今は父を知っており,またすでに父を見たのである。』

ピリポはイエスに言った,『主よ,わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば,わたしたちは満足します。』

イエスは彼に言われた,『ピリポよ,こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに,わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は,父を見たのである。』」(ヨハネ14:7-9

後に,使徒パウロは御子を「〔父なる〕神の本質の真の姿」と表現しています(ヘブル1:32コリント4:4も参照)。

創造主

使徒ヨハネは,イエスを「言ことば」と呼び,イエスが「初めに神と共にあった。すべてのものは,これによってできた。できたもののうち,一つとしてこれによらないものはなかった」と記しています(ヨハネ1:2-3)。このように,イエス・キリストは御父の計画の中であらゆるものの創造主なのです。

イスラエルの主なる神

イエスはパレスチナの民の中で務めを果たしておられたときに,御自分がエホバすなわちイスラエルの主なる神であるとお教えになりました(ヨハネ8:58参照)。その後,復活した主はアメリカ大陸の御自分の民を教え導かれました。そのときにこう宣言されました。

「見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証あかしした者である。

……わたしがイスラエルの神であり,全地の神である……。」(3ニーファイ11:10,14

主はわたしたちのために何をしてくださったか

何年も前のあるステーク大会で,一人の女性と会いました。何年もの間教会から離れていて,教会に戻るよう勧められたものの戻るべき理由が見つからない,と女性は言いました。わたしはこのように励ましました。「救い主がわたしたちのためにしてくださった数々のことを考えれば,教会に戻って主を礼拝し主に仕える理由はたくさんあるのではないですか。」彼女の答えには驚きました。「救い主はわたしのために何をしてくださったのですか。」救い主がわたしたちのために何をしてくださったかを理解していない方々のために,主御自身の御言葉とわたし自身の証をもって,その質問に答えましょう。

世の命

聖書には,イエスがこう説かれたと記されています。「わたしがきたのは,羊に命を得させ,豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)後に,主はアメリカ大陸でこう宣言されました。「わたしは世の光であり命である。」(3ニーファイ11:11)主は創造主であられ,主の復活を通してわたしたちは皆確かに再び命を得られるようになったのですから,主は世の命です。主がわたしたちに下さる命はこの世限りのものではありません。主はこのように教えておられます。「わたしは,彼らに永遠の命を与える。だから,彼らはいつまでも滅びることがなく,また,彼らをわたしの手から奪い去る者はない。」(ヨハネ10:28ヨハネ17:2も参照)

世の光

イエスはさらに次のように教えておられます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがな〔い。〕」(ヨハネ8:12)また,こう宣言されました。「わたしは道であり,真理であり,命である。」(ヨハネ14:6)主の教えはこの世においてわたしたちの道を照らし,御父のみもとに戻る道を教えてくれるので,主は道であり光なのです。

御父の御み心こころを行う

イエスは常に御父を敬い,御父に従われました。すでに年若いころに地上の両親に,御自分が御父の務めを行っているはずのことを知らなかったのか,とはっきりと言われました(ルカ2:49参照)。そして,後にこのように教えられました。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38ヨハネ5:19も参照)また,次のようにも教えておられます。「だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6マタイ11:27も参照)

わたしたちは御父の御心を行うことを通して御父のみもとに戻ります。「わたしにむかって『主よ,主よ』と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御み旨むねを行う者だけが,はいるのである。」(マタイ7:21)主は次のように説明されました。

「その日には,多くの者が,わたしにむかって『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また,あなたの名によって悪霊を追い出し,あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

そのとき,わたしは彼らにはっきり,こう言おう,『あなたがたを全まったく知らない。不法を働く者どもよ,行ってしまえ。』」(マタイ7:22-23

では,天国に入るのはどのような人なのでしょうか。主の御み名なによって多くの力ある業を行った人ではなく,「天にいますわが父の御旨を行う者だけが,はいるのである」と主は教えておられます。

偉大な模範

イエスはそのためにはどうすればよいかを示されました。主は,御自分に従うよう繰り返しお招きになりました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており,彼らはわたしについて来る。」(ヨハネ10:27

神権の力

主は使徒たちに神権の力をお授けになりました(マタイ10:1参照)。主は先任使徒のペテロにこう言っておられます。「わたしは,あなたに天国のかぎを授けよう。そして,あなたが地上でつなぐことは,天でもつながれ,あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」(マタイ16:19マタイ18:18も参照)

ルカは次のように記しています。主は七十人を選び,「行こうとしておられたすべての町や村へ,ふたりずつ先におつかわしになった。」(ルカ10:1)その後,この七十人は喜びながらイエスに言いました。「主よ,あなたの名によっていたしますと,悪霊までがわたしたちに服従します。」(ルカ10:17)わたしはこの神権の力についての証人です。

聖霊の導き

地上での務めの終わりに,イエスは使徒たちに次の教えを授けられました。「助け主,すなわち,父がわたしの名によってつかわされる聖霊は,あなたがたにすべてのことを教え,またわたしが話しておいたことを,ことごとく思い起させるであろう。」(ヨハネ14:26)「あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16:13

戒めによる導き

主はまた,戒めによりわたしたちを導かれます。そのため,主はニーファイの民に教義の要点について今後論争しないように命じて次のように言われました。

「争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく,争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。

見よ,互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは,わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが,わたしの教義である。」(3ニーファイ11:29-30

永遠の命に目を向ける

主はまた,この世のものではなく主に目を向けるよう求めておられます。イエスは命のパンに関する偉大な説教の中で,物質的な食物と永遠の食物の違いを説明しておられます。「朽ちる食物のためではなく,永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。」(ヨハネ6:27)救い主は,御自身が命のパンであり永遠の食物の源であると教えられました。イエスは,荒れ野にいたイスラエルの子らを養うためにエホバが送られたマナという食物を含め,世が提供するこの世の食物について語り,これらのパンに頼った者たちが死んでしまったことを教えられました(ヨハネ6:49-50参照)。一方,主がお授けになった食物は「天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう」とお教えになりました(ヨハネ6:51)。

弟子たちの中には,これは「ひどい言葉だ」と言う者もあり,このとき以降多くの弟子たちが「去っていって,もはやイエスと行動を共に」しませんでした(ヨハネ6:60,66)。彼らは,すでに与えられていた教え,すなわち「まず神の国……を求めなさい」(マタイ6:33)という教えを受け入れていなかったようです。現代でも,自分はクリスチャンだと公言する人の中には,地上での生活の足しにはなっても永遠の命の糧とはならないこの世のものに,より引き寄せられている人たちがいます。あるいは,今も主の御言葉を「ひどい言葉だ」ととらえて,イエス・キリストに従わない人たちがいます。

贖しょく罪ざい

救い主の地上における務めは,主の復活と世の罪のための贖罪によって絶頂を迎えました。バプテスマのヨハネはこのことを預言して次のように言っています。「見よ,世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)後にイエスはこのように教えられました。「人の子がきたの〔は〕……仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである……。」(マタイ20:28)マタイの記録によれば,イエスは最後の晩餐ばんさんで,御自分が祝福されたぶどう酒は「罪のゆるしを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である」と説明されました(マタイ26:28)。

復活された主はニーファイの民に現れ,進み出てわきの傷と手足の釘くぎの跡に手を触れるようお招きになりました。主はその理由をこう説明されました。「わたしがイスラエルの神であり,全地の神であること,そして世の罪のために殺されたことを知りなさい。」(3ニーファイ11:14)さらに話は続きます。群衆は「イエスの足もとに伏して,イエスを拝し」ました(17節)。贖罪のゆえに,全世界は最終的に主を礼拝するようになるのです。

イエスは贖罪に関するさらに貴い真理を教えられました。救い主の教えの詳細と,主の使命に関する最良の説明を収めたモルモン書には,この教えについてこのように記されています。

「父は,わたしが十字架に上げられるようにと,わたしを遣わされた。……わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。

……彼らが各々の行いに応じて裁かれるようにするのである。

さて,悔い改めて,わたしの名によってバプテスマを受ける者はだれであろうと,満たされるであろう。そして,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,わたしはその者を,わたしが立って世の人々を裁くその日に,わたしの父の御み前まえで罪のない者としよう。……

清くない者は,決して父の王国に入ることができない。したがって,信仰を持ち,罪をすべて悔い改め,最後まで忠実であることによって,わたしの血により衣を洗われた者のほかには,父の安息に入る者はいない。」(3ニーファイ27:14-16,19

このように,イエス・キリストの贖罪は,罪がもたらす霊の死を克服し,神聖な聖約を交わし守ることを通して永遠の命の祝福にあずかる機会を与えてくれることが分かります。

課題と証

イエスは次のような課題をお与えになりました。「あなたがたはキリストをどう思うか。」(マタイ22:42)使徒パウロはコリント人に次のような課題を与えています。「あなたがたは,はたして信仰があるかどうか,自分を反省……するがよい。」(2コリント13:5)わたしたちは皆,自分でこれらの課題に答える必要があります。突き詰めるとわたしたちは何に忠実なのでしょうか。わたしたちはニール・A・マックスウェル長老が印象深い表現で語ったようなクリスチャン,すなわち,シオンに家を移しながらも,バビロンの別荘を手放そうとしないクリスチャンとなってはいないでしょうか。1

中立の地というようなものはありません。わたしたちはイエス・キリストの弟子です。わたしたちは主の教会の会員であり,常に主の福音に従う者です。休暇を取ってバビロンに足を踏み入れたり,バビロンの民のように振る舞ったりするわけにはいかないのです。わたしたちは主の御名を敬い,主の戒めを守り,「この世のものを求めないで,まず,神の王国を築き,神の義を打ち立てることを求め〔る〕」べきなのです(ジョセフ・スミス訳マタイ6:38)。

イエス・キリストは,確かに神の独り子,神の愛子です。主は確かにわたしたちの創造主であり,世の光であり,罪と死からわたしたちを救ってくださる救い主です。これが地上における最も大切な知識であり,わたしが自分で知ったように皆さんも自分でそのことを知ることができます。御父と御子について証し真理へと導く聖霊が,これらの真理をわたしに明らかにしてくださいました。皆さんにも明らかにしてくださいます。そのためには,望みを持ち,従順でなければなりません。願いについて,イエスはこう教えられました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)従順について主はこう説かれました。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教おしえが神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:17)これらのことが真実であることを,イエス・キリストの御名みなにより証します。アーメン。

  1. ニール・A・マックスウェル,A Wonderful Flood of Light(1990年)47参照