2010–2019
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証あかし

イエス・キリストの福音に対する証を得て保つための基本原則は分かりやすく明白で,すべての人が証を得ることができます。

わたしの長年にわたる人生でのすばらしい祝福の一つは,教会の若い人々に囲まれ,一緒に活動する機会があったことです。このような交流と友情は,人生で最も麗しく,最も価値あることだと考えています。それらはまた,わたしが教会と社会と世界の将来を楽観視している大きな理由でもあります。

このような交流の中で,証について様々な疑問を抱いたり,チャレンジに直面したりした人々と語り合う特権もありました。その詳細は様々で,時折独特なものもありましたが,疑問や混乱の原因の多くは非常に類似していました。さらに,これらの問題や懸念は,特定のグループや年齢層に限られたものではありません。家族が何世代も教会員である人々,比較的新しい教会員,またつい最近末日聖徒イエス・キリスト教会を知るようになった人々もそれらの問題で悩むことがあるかもしれません。通常彼らが疑問を抱くのは,誠実な探究心や好奇心の結果です。これはわたしたち各人にとって非常に大きく,重大であるため,わたしたちの証について考えるのが適切であると思われます。わたしたち末日聖徒は,イエス・キリストの福音が真実であるという確固たる証として自分の証を述べます。その証は聖霊を通して啓示によって得られるものです。

この明確な宣言における証は簡潔で明瞭めいりょうですが,この宣言から幾つかの疑問が出てきます。例えば,証を持つ権利のある人はだれでしょうか。どうすれば人は必要な啓示を受けられるでしょうか。証を得るステップはどのようなものでしょうか。証を得ることは1回限りのことでしょうか,それとも継続することでしょうか。このような疑問やほかの疑問には,それぞれに伴う疑問もあります。しかし,イエス・キリストの福音に対する証を得て保つための基本原則は分かりやすく明白で,すべての人が証を得ることができます。

人々が考えそうなこれらの疑問を短く採り上げます。その後,気心の知れたヤングアダルトの友人たちが最近話してくれた見識を幾つか紹介します。彼らは個人的な経験からその証を得ました。また,信仰や信念の幾つかの点についてチャレンジや困難に直面していた人々を教え導く機会もありました。

第1に,証を持つ権利のある人はだれでしょうか。進んでその代価を払う人,すなわち戒めを守る人は皆,証を持つことができます。「それゆえ,主の声は,聞こうとするすべての人が聞けるように地の果てにまで及ぶ。」(教義と聖約1:11)福音が回復された基本的な理由は,「すべての人が主なる神,すなわち世の救い主の名によって語るため,信仰もまた地に増すため」です(教義と聖約1:20-21)。

第2に,どうすれば人は必要な啓示を受けられるでしょうか。啓示を受ける基本的なステップはどのようなものでしょうか。その方法は簡単であり,いつの時代も同じです。モルモン書の証を得るために与えられた約束も広く当てはまります。

「また,この記録を受けるとき」,すなわち,皆さんが聞き,読み,学び,疑問に思うことについて深く考えるとき,「これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問〔い〕」,すなわち,皆さんが祈りの答えに従うという固い決意をもって,よく考え,具体的に,畏敬いけいの念をもって祈り,「もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。

そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:4-5)

第3に,証を得ることは1回限りのことでしょうか,それとも継続することでしょうか。証は,適切に扱うときに成長し育つ生き物に似ています。生き物は成長し育つために一定の栄養と世話と保護が必要です。同様に,証を軽んじたり,保つ方法を守らなかったりすれば,失われたり,弱くなったりします。聖文は,神の戒めに背いたり破ったりすると,御霊みたまを失い,さらにはかつて得ていた証を否定する者になったりする可能性があると警告しています(教義と聖約42:23参照)。

ここで,わたしの大切な,信仰篤あつい若い友人たちが気づいたことと彼らの提案の中から10の事柄を紹介します。彼らが述べている事柄は,その考えや経験に共通点があります。ですから,恐らくそれらの事柄に驚く人はだれもいないでしょう。残念なことに,特に自らが苦しみ悩んでいるときには,これらを自分自身に当てはめることを一時的に忘れたり,無視したりすることがあります。

第1に,すべての人は神の子ですから価値があります。神はわたしたちを御存じで,愛しておられ,成功してみもとに戻って来てほしいと思っておられます。わたしたちは時折感じる性急で不完全な欲望よりも,神の愛と神の時間を信頼するようにしなければなりません。

第2に,聖文で述べられている「大きな心の変化」を十分に信じながら(モーサヤ5:2;アルマ5;12-14,26参照),それは直ちに,あるいは一度に起こるものではなく,しばしば徐々に起こるということを理解しておかなければなりません。そして研究と祈りによるだけでなく,特定の質問,経験,また関心事に応じて起こるのです。

第3に,人生の基本的な目的は,試練を受けて試されることであるということを覚えておく必要があります。したがって,試練により成長し,安易な方法では得られない教訓に感謝するようにならなければなりません。

第4に,確信がないとき,あるいは苦闘している問題があるときに支えとなるよう,わたしたちが信じているまたは知っている事柄を信頼するようにならなければなりません。

第5に,アルマが教えているように,証を得ることは通常,望み,信じ,最後に特定の原則や教義,あるいは福音そのものの真理を知るという一連の流れに添った成長です(アルマ32章参照)。

第6に,自分が知っていることをほかのだれかに教えることにより,ほかの人の証を築きながら自分自身の証も強めることができます。お金や食べ物はほかの人に与えると少なくなります。しかし証を分かち合うと,述べる人と聞く人の両者にとって証は強くなり,増します。

第7に,わたしたちは毎日,また定期的に,ささいなことでも必要なことを行わなければなりません。祈り,聖文と福音の学習,教会の集会への出席,神殿礼拝,家庭訪問やホームティーチングやそのほかの割り当てを果たすことはすべて,わたしたちの信仰を強め,生活の中に御霊を招きます。これらの特権のいずれかをなおざりにすると,証を危険にさらすことになります。

第8に,わたしたちは自分の基準よりも高い基準をほかの人々に当てはめてはなりません。ほかの人々,特に指導者や教会員の間違いや失敗を見て,それが自分自身や自分の証に対する感性に影響するのを許してしまうことが多々あるかもしれません。ほかの人々の困難を自分の欠点に対する言い訳にはできません。

第9に,真の悔い改めが必要なときにあまりにも無頓着むとんちゃくな場合と同様,間違いを犯したときに自分に厳しすぎることは好ましくないということを覚えておくとよいでしょう。

第10に,キリストの贖罪しょくざいの力は,わたしたちがそれを受け入れるときに完全に効力を発揮し,その力を持ち続けます。そのことを,常にはっきり理解しておかなければなりません。そうすれば,ほかのすべてのことは,多少の細かい事柄,習慣,あるいは一見失われたかのような信仰に苦闘するときでさえ,落ち着くところに落ち着きます。

わたしは多くの模範的な若い友人や仲間の洞察力,強さ,証に感謝しています。彼らと一緒にいると強められます。また,彼らがほかの人々と一緒にいるとき,彼らが礼拝し,従うように努めている主に代わって善をなし,奉仕を行っていることを知っているので励まされます。

人々は証があるので,善いことや大切なことを行います。これは真実であるのと同時に,わたしたちも自分が行う事柄により証を得ます。イエスは言われました。

「わたしの教おしえはわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。

神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:16-17)

「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)

昔のニーファイやモロナイと同様,「わたしはノノすべてのことの意味を知っているわけではありません。」(1ニーファイ11:17;モルモンの言葉1:7も参照)しかし,知っていることを皆さんにお伝えします。

わたしは天の父なる神が生きていて,わたしたちを愛しておられることを知っています。御父の唯一の特別な御子イエス・キリストはわたしたちの救い主,贖あがない主,また主の御名を持つ教会の頭かしらであられます。ジョセフ・スミスがこの時代における福音の回復に関して語り,教えたすべてのことを経験したということを知っています。わたしたちは今日こんにち,使徒たちと預言者たちに導かれており,またトーマス・S・モンソン大管長はわたしたちの生活に祝福をもたらし,主の業を進めるために必要な神権の鍵かぎをすべて保持しています。わたしたちは皆,このことを知る権利があります。そして,もし皆さんが苦闘しているならば,この大会でこの説教台から語られる真実の証に頼ることができるのです。わたしはこれらのことを知っており,証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。