2010–2019
愛ある奉仕を通じて喜びを見いだす
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愛ある奉仕を通じて喜びを見いだす

家庭や教会,地域社会において兄弟姉妹に簡単な思いやりのある奉仕の行いをすることによって,救い主の贖罪の犠牲に対する愛と感謝の気持ちをわたしたちが示せますように。

兄弟姉妹の皆さん,ソルトレークを訪れている方は,テンプルスクウェアの美しい春の花々の色と香りを堪能する機会があることと思います。

春が来ると新たな光がさして人生も一新します。季節の移り変わりを通してわたしたちは再びわたしたちの主なる贖あがない主イエス・キリストの生涯と犠牲と復活を思い起こします。それは,「すべてのものが〔贖い主〕のことを証あかしする」からです(モーセ 6:63)。

この美しい春の風景とそれが象徴する希望とは裏腹に,世の中は不安定で,複雑で,混乱しています。わたしたちは学校や仕事,子育て,教会の管理と召し,世の中の活動といった日々の生活に追われ,挙げ句の果てには予期せぬ病気や思わぬ悲劇に見舞われて,疲れ果ててしまうことがあります。問題の渦と不安から抜け出して,心の平安と幸せを見いだすにはどうすればよいのでしょうか。

わたしたちは,1849年にカリフォルニアのゴールドラッシュに取りつかれたボストンの若い商人に似てはいないでしょうか。この商人はカリフォルニアの川で一山当てるために,持ち物を全部売り払いました。その川には,持ち上げられないほど大きな金塊がごろごろしていると聞いたのです。

この若者は,来る日も来る日も金をふるい分けるなべで川底をさらいましたが,金は引っかかりません。石の山がどんどん大きくなるだけでした。やる気もお金もなくなり,もうやめようと思っていると,ある日,老練の金鉱採掘者から声をかけられました。「お若いの,大した石の山ですな。」

若者は答えました。「ここには金などない。ぼくはもう国に帰るところだ。」

この老いた金鉱採掘者は石の山に近づくと,「やあ,金があるぞ。目の付けどころが分かりさえすればいいんだ」と言います。そして石を二つ拾い上げると打ち合せました。すると片方の石が割れて,小さな金の粒が太陽の光にきらきらと輝きました。

金鉱採掘者がいっぱいになった革の袋をウエストに結びつけているのを見て,若者は言いました。「ぼくが探しているのはその袋に入っているような金塊だ。小さな粒などではない。」

年老いた金鉱採掘者が袋を目の前に差し出したので,大きな金塊が入っているだろうと期待しながら若者は中をのぞきました。すると驚いたことに,中は無数の金の粒でいっぱいでした。

老いた金鉱採掘者は言いました。「おまえさんは大きな金塊を探すのに忙しくて,こういった貴重な金の粒を袋に入れていなかったようだ。わたしはこうして小さな粒をこつこつとためて大きな富を築いたのだよ。」

この話は,アルマが息子ヒラマンに教えた霊的な真理を説明しています。

「小さな,簡単なことによって大いなることが成し遂げられるのである。・・・

また,ごく小さな手段によって,主は・・・多くの人を救われる。」(アルマ37:6-7)

兄弟姉妹の皆さん,イエス・キリストの福音は人がどんなに複雑にしようとしても,簡単なものです。わたしたちも同じように生活を簡単にするべきです。救いに無関係なものに左右されずに,最も大切なことに心を向けましょう。

人生に明快な答えと目的を与えてくれる福音の貴くて簡単な教えとは何でしょうか。わたしたちが生涯こつこつと蓄えると,究極の宝である永遠の命という貴い賜物たまものが得られる,福音の金の粒とは何でしょうか。

わたしは,イエス・キリストの福音全体を包括する,簡単で深遠で,崇高な原則があると信じています。この原則を心から受け入れて,それを生活の中心にするならば,わたしたちは清められ,聖なる者となって,再び神のみもとに住むことができるようになるのです。

救い主がこの原則についてお語りになったのは,パリサイ人がこう問いかけたときでした。「先生,律法の中で,どのいましめがいちばん大切なのですか。」

「イエスは言われた,『「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。」

これがいちばん大切な,第一のいましめである。

第二もこれと同様である,「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」』」(マタイ22:36-40)

わたしたちがこの愛を隣人に伝えることができるのは,心と精神と思いを尽くして,親切な行いと奉仕を通じて,神とキリストを愛する場合のみです。救い主が今ここにおられたらなさるような方法ですべての人を愛し,すべての人に奉仕して,愛を伝えるのです。

このキリストの純粋な愛,すなわち慈愛に満たされると,わたしたちの考え方,感じ方,行いは,天の御父とキリストに似てきます。動機も心からの望みも救い主に似たものになります。救い主は十字架におかかりになる前の晩,この望みを使徒たちにお語りになりました。

「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互たがいに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。

・・・それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:34-35)

救い主がおっしゃった愛は行いで表す愛です。この愛は大がかりな英雄的行為ではなく,親切な行いと奉仕という簡単なことで表します。

人に奉仕し,人を愛する方法や状況は幾らでもあります。幾つか挙げてみましょう。

まず,慈愛は家庭から始まります。すべての家庭で基準とするべき最も大切な原則は,黄金律の実践です。つまり,「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」という主の教えです(マタイ7:12)。少し想像してみてください。あなたが思いやりのない言葉や行いを受ける側だったら,どう感じるでしょうか。互いに愛し合うことを,模範によって家族に教えましょう。

奉仕の機会にあふれるもう一つの場所は教会です。ワードや支部は,黄金律が常にお互いに対する言葉や行いの基準になっていなければなりません。お互いに親切にし,助け,励ます言葉をかけ合い,お互いが必要としていることを敏感に察知するならば,ワードの会員の間に愛と一致を生み出すことができます。慈愛があるところでは,うわさ話や思いやりのない言葉など出てきません。

ワードの会員が成人も青少年も力を合わせて価値ある奉仕を行い,ほかの人を祝福することができます。ちょうど2週間前,南アメリカ北西地域会長会の会長であるマーカス・B・ナッシュ長老から,「御霊みたまにおいて強い者が弱い者を」支えることにより,同地域の会員たちは何百人ものあまり活発でない成人や青少年たちを救助しているという報告を受けました。愛と奉仕により,彼らは「一人ずつ」戻って来ています。このような親切な行いは,助ける側も助けられる側もすべての人の間に永続する強いきずなを生み出します。このような奉仕からは大切な思い出がたくさん生まれます。

わたしが教会の管理を行ってきた多くの年月を振り返ってみると,いちばん心に深く残っているのは,ワードの会員と力を合わせてだれかを助けたときの思い出です。

例えば,わたしはビショップだったころに何人かのワードの積極的な会員と一緒にステーク福祉農場の飼料貯蔵庫を掃除したことがあります。心地よい作業ではありませんでした。何年も教会に来ていない一人の会員が,この作業に誘われ,加わってくれました。異臭の漂う貯蔵庫の中で働き,語らううちに愛と友情を感じたこの会員は,教会に戻り,後に妻子と神殿で結び固められました。奉仕を通じてフェローシップをしたことで子供と孫と,そして今ではひ孫にまで祝福が及んでいます。その多くが伝道に出て神殿で結婚し,永遠の家族をはぐくんでいます。小さな金の粒を集めるようなささいな行いによって大いなる業がなされたのです。

わたしたちが奉仕することのできる第3の場は地域社会です。わたしたちの愛と関心を純粋に表すために,わたしたちの助けを必要としている人に愛の手を差し伸べることができます。「ヘルピングハンズ」のシャツを着て休むことなく働き,困っている人を助け,地域社会の改善に努めたことのある人は,皆さんの中にたくさんいます。日本仙台ステークのヤングシングルアダルトは最近,地震と津波の壊滅的な被害の中で計り知れない価値のある奉仕をし,会員たちを捜索しました。奉仕する方法はたくさんあるのです。

心からの親切と奉仕を通して,それを受ける側の人との間に友情が生まれます。このような友情から,福音に対する献身への理解と,教会についてもっと学びたいという気持ちが生まれます。

良き友であったジョセフ・B・ワースリン長老は,この原則が持つ力について次のように述べました。「思いやりは,偉大さの本質であり・・・扉を開く鍵かぎであり,友情を築きます。また,心を和らげ,生涯にわたる関係を作り出します。」(「思いやりという美徳」『リアホナ』2005年5月号,26)

天の御父の子供たちに奉仕できるもう一つの方法は,伝道です。専任宣教師になることだけではなく,友人や隣人としての伝道です。教会の将来の発展は,見知らぬ人の家のドアをノックするだけでは始まりません。会員が宣教師と力を合わせ,神とキリストに対する愛に満たされて必要を見極め,慈善奉仕の精神でその必要を満たしていくときに教会は発展するのです。

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちがこれを行うならば,正直な心で求めている人はわたしたちの誠実さと愛を感じます。多くの人がわたしたちに興味を持つでしょう。このようにしてのみ,教会は発展し,全地を満たすのです。これは,宣教師だけで達成することはできません。すべての会員が関心を持ち,奉仕する必要があります。

奉仕するときには必ず聖霊のささやきに敏感に従う必要があります。静かな細い声が自分の助けを必要としている人がだれか,どう助けたらよいかを教えてくれます。

スペンサー・W・キンボール大管長はこう言っています。「ですから,王国で互いに仕え合うことがきわめて大切なのです。・・・奉仕の行い・・・は,誠意を込めた励ましや,日常の仕事の簡単な手伝いであることがほとんどです。しかし,簡単な行いから,そして小さいながらも思慮深い行いから,どれほどすばらしい結果が引き出されることでしょう。」(『歴代大管長の教え─スペンサー・W・キンボール』,82)

そして,トーマス・S・モンソン大管長はこのように勧告しています。

「困っている人はいつでもおり,わたしたちはそれぞれ,だれかを助けるために何かすることができます。

・・・自分を捨てて人に奉仕しなければ,自分自身の人生の目的などほとんどない〔のです。〕」(「今日きょうわれ善きことせしか」『リアホナ』2009年11月号,84-85)

兄弟姉妹の皆さん,もう一度強調させてください。天の御父とその愛する御子の特質の中で,わたしたちが生活の中で身に付けるよう望み求めるべきものは慈愛の賜物,つまり「キリストの純粋な愛」(モロナイ7:47)です。この賜物から,救い主がなさったように人を愛し人に奉仕するという能力がわたしたちの中にはぐくまれるのです。

預言者モルモンは,この賜物が非常に大切だと教え,どのようにすればこれが得られるのかを告げています。「したがって,わたしの愛する同胞はらからよ,あなたがたは,御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,また神の子となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。また,御子が御自身を現されるときに,わたしたちはありのままの御姿みすがたの御子にまみえるので,御子に似た者となれるように,またわたしたちがこの希望を持てるように,さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう,熱意を込めて御父に祈りなさい。」(モロナイ7:48)

簡単で小さなことによって偉大なことが成し遂げられます。金の小さな粒も時間をかけて蓄えれば大きな宝になるように,小さくて簡単なわたしたちの親切な行いや奉仕も,積もり積もって,天の御父への愛に満ちた人生,主イエス・キリストの業への献身的な働きに満ちた人生,互いに助け合う度に感じる平安と喜びに満ちた人生になるでしょう。

復活祭の時期が近づくに当たり,家庭や教会,地域社会において兄弟姉妹に簡単な思いやりのある奉仕の行いをすることによって,救い主の贖罪の犠牲に対する愛と感謝の気持ちをわたしたちが示せますように。このことをイエス・キリストの御名みなによりへりくだり祈ります,アーメン。