2000–2009
再び生まれる
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再び生まれる

霊的に再び生まれることは,イエス・キリストを信じる信仰を持つことから始まり,わたしたちはキリストの恵みによって変わります。

15年前,支持されたばかりの新しい七十人として,初めてタバナクルの壇上に立ちました。当時48歳で,髪もまだ濃くこげ茶色でした。わたしは自分の力不足を痛感しているつもりでした。5分間の話の後,シャツは汗でびっしょりでした。すべてが大変な経験でした。しかし,今と比べれば,まだ気楽なものだったと思います。

ディーター・F・ウークトドルフ管長とデビッド・A・ベドナー長老が十二使徒定員会の会員として初めて支持されたとき,それが神からの召しであるという証あかしを部会の中で得ました。またそのとき,この召しの並外れた神聖さと主イエス・キリストの使徒として奉仕することの意味を理解しました。それは御霊みたまから霊に,言葉によらずに伝えられたため,そのときの理解を言葉で表すことはできません。そのことを思うと,かつてないほど低くへりくだった気持ちにさせられます。これまでと同様に御父の支えを受け,自分の能力をはるかに超えるこの責任にふさわしくなれるよう,また周りの人に目を向け,皆さんに仕えることに専心できるよう天の御父に嘆願します。わたしは御父を信頼しています。御父の恵みは十分です。ですから,わたしはためらうことなく,持てるすべてと自分自身を神と愛する御子にささげる決意です。また,大管長会と十二使徒定員会の兄弟たちに,わたし自身,わたしの忠誠心と奉仕と愛をささげます。

13歳のときに愛する祖父から受けた祝福師の祝福にはこうあります。「あなたは,善良で義にかなった両親が交わした新しくかつ永遠の聖約の下に生まれるために,最後の栄えある神権時代に〔天の御父によって〕送られたのです。」これが人生のあらゆる祝福の土台となっていることに心の底から感謝します。両親に敬意を表し,これまでたくさんの恩を受けてきたことを,両親と祖父母,先祖に愛をもって伝えます。七十人に召されてすぐ,わたしが生まれるずっと前に亡くなった先祖の墓の前に立つ機会がありました。回復されたイエス・キリストの福音を受け入れたために,この先祖や家族が払った犠牲について深く考えると,あふれるばかりの感謝の念に満たされ,彼らの犠牲や,彼らの後で同じように神と福音の聖約に忠実だった先祖の犠牲を忘れまいと固く決意しました。

また,今日きょうこの場に集っているわたしの兄弟とその伴侶はんりょも,わたしにとって祝福です。妻とわたしは4人の息子と1人の娘がいますが,皆すばらしい伴侶と結ばれ,末の息子も間もなくすばらしい女性と結婚する予定です。わたしたちは子供や孫たちを愛し,救い主と主の福音に忠実であることを感謝しています。彼らの忠実さは,わたしたちの人生を大いに祝福しています。最も大いなる祝福である妻のキャシーは,すばらしい主婦であり,わたしの人生の光です。堅実で賢い伴侶であり,霊的洞察に優れ,すばらしいユーモアを持ち,善意と慈愛に満ちています。言葉では表せないほど愛しています。また,これからの歳月の中で,これまで以上にしっかりと愛を示すことができればと思います。

若いころ,卓越した二人の伝道部会長,ロナルド・V・ストーン会長とリチャード・G・スコット会長,またそれぞれの伴侶であるパトリシア姉妹とジーニー姉妹のもとで専任宣教師としてアルゼンチンで奉仕できたことは祝福でした。伝道後も続いた彼らの影響力を神に感謝しています。法科大学院を卒業後,わたしとキャシー,そして子供たちは,メリーランド州,テネシー州,バージニア州,ノースカロライナ州,そして現在はユタ州へと移り住みました。メキシコで特別な3年間を過ごしたこともあります。そのすべての場所において,わたしたちは教会の内外を問わず,すばらしい友人たちに恵まれてきました。彼らは,わたしたち夫婦と子供たちに愛を示し,教え,親交を深めてくれ,その友情は今も続いています。彼らすべてに,この場を借りて感謝を伝えます。

七十人の兄弟たちと管理ビショップリックへの愛と感謝は計り知れません。引き続き奉仕することで,彼らと近くあれることをうれしく思います。ともに働く機会は度々あることでしょう。主の末日の業における歴史の中で,教会に七十人を置くと定めた現代の啓示は,最も深遠で,最も見過ごしにされがちな奇跡の一つです。七十人は,現在と将来における業の成功の鍵かぎであり,この定員会の一員として奉仕できたことを心から誇りに思います。皆さんのうえに神の祝福がありますように。

わたしは,神の御子であるイエス・キリストと,その無限の贖あがないの犠牲による力について証したいと願っています。証をするに当たり,テネシーに住んでいたころの経験を紹介します。ある晩,一人の男性から自宅に電話がかかってきました。面識のないこの男性は,自分はある宗派の牧師を最近退任したばかりだと言いました。そして,次の日曜日にわたしと会いたいと言うのです。面会すると,「あなたの魂の救いに関心があればこそ,こうして出かけて来ました」と率直に告げられました。彼は書類かばんから新約聖書の聖句を集めた長いリストを取り出しました。そして,「一緒にこの聖句を勉強して,あなたの救いのお手伝いができればと考えています」と言うのです。わたしはその率直さに多少驚きましたが,彼の誠実さがよく伝わり,心から関心を寄せてくれていることに感動しました。

わたしたちは1時間以上話し合いました。彼も心を開いて,わたしが自分の信仰について説明するのを聞き,また彼にとってはなじみのないモルモン書に書かれている教えを幾つか一緒に読みました。そして,互いの信仰には共通点が多々あること,また相違点も若干あることが分かりました。わたしたちは友情を感じ,彼が我が家を去る前には,一緒に祈りをささげました。今も心に残っているのは,「再び生まれる」ということについて話し合ったことです。わたしがこれから証するのは,イエス・キリストにより霊的に再び生まれるということです。

神の王国に入るためには新しく生まれなければならない,すなわち,水と霊とから生まれなければならない,と言われたのは主御自身でした(ヨハネ3:3-5参照)。肉体的にも霊的にもバプテスマを受けなければならないと言われた主の教えから,この再び生まれるという変化,つまり生まれながらの人から聖徒に変わるためには,わたしたち自身の行いと,神聖な力が間に入ることの両方が必要であると知ることができます(モーサヤ3:19参照)。パウロは新しく生まれることを次のような簡潔な聖句で表現しています。「だれでもキリストにあるならば,その人は新しく造られた者である。」(2コリント5:17

モルモン書の中から二つの例を考えてみましょう。キリスト降誕の約1世紀前に,ベニヤミン王は救い主の降臨と贖罪しょくざいについて民に教えました。主の御霊が民に大きな変化を生じさせたために,民は「悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように」なりました(モーサヤ5:22)。民は,キリストを信じる信仰により次のように言いました。「わたしたちは,残りの全生涯,神の御心みこころを行い,……神の戒めに従うという聖約を交わします。」(モーサヤ5:55,強調付加)それに対して王はこうこたえます。「あなたがたが交わした聖約のために,あなたがたはキリストの子と呼ばれ,キリストの息子および娘と呼ばれる。見よ,それは,今日こんにちキリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。あなたがたは,キリストの御名みなを信じて心が改まったと言う。」(モーサヤ5:7教義と聖約76:24も参照)

アルマの話からも多くを学ぶことができます。アルマは仲間とキリストの教会を滅ぼそうと画策していたとき,一人の天使から叱責しっせきされます。その後の3日3晩にわたる状態をアルマは次のように描写しています。「永遠の苦痛に責めさいなまれた。……まことに,わたしは自分のあらゆる罪と不義を思い出し,そのために地獄の苦しみを味わった。」(アルマ3 6:12-13)こうして,アルマが言うように「死ぬほどの悔い改めをした」ところ(モーサヤ27:28),イエス・キリストとその贖罪に関する麗しい教えを思い出し,アルマはこう嘆願します。「おお,神の御子イエスよ,苦汁の中におり,永遠の死の鎖に縛られているわたしを憐あわれんでください。」(アルマ36:18)赦ゆるしがもたらされ,アルマは立ち上がり,人前でこう告白します。

「わたしは自分の罪を悔い改め,主に贖われました。まことに,わたしは御霊によって生まれました。

主はわたしに言われました。『全人類,すなわち男女を問わず,すべての国民,部族,国語の民,民族が再び生まれなければならないことを不思議に思ってはならない。まことに,人は神から生まれ,肉欲にふける堕落した状態から義の状態に変わって,神に贖われ,神の息子や娘にならなければならない。

このようにして,彼らは新たな者となる。』」(モーサヤ27:24-26

この二つの事例やほかの聖句について考えると,霊的に再び生まれることは,イエス・キリストを信じる信仰を持つことから始まり,わたしたちはキリストの恵みによって変わることがはっきりと分かります。さらに明確に言うなら,それは贖いの主であるキリスト,すなわち罪を清め,聖なる者とする力をお持ちの贖い主を信じる信仰なのです(モーサヤ4:2-3参照)。

この真の信仰が心に根付き始めるとき,人は必然的に悔い改めへと導かれます。アミュレクは,救い主の犠牲は「その御名を信じるすべての人に救いをもたら〔す〕。この最後の犠牲の目的は,憐れみの心を成し遂げることであり,この憐れみは正義に打ち勝ち,また人々が悔い改めを生じる信仰を持てるようにするその道を設ける」と教えました(アルマ34:15,強調付加)。

しかしながら,悔い改めを完全なものとするためには,従順になることを聖約する必要があります。ベニヤミンの民が言う「神の御心を行い,……神の戒めに従う」という聖約です(モーサヤ5:5)。その聖約を交わす証拠として,水によるバプテスマを受けます(モーサヤ18:10参照)。これは時に,聖文の中で「悔い改めのバプテスマ」あるいは「悔い改めに至るバプテスマ」と呼ばれているもので,わたしたちの悔い改めの最終段階,および最高地点に当たるものです(例として,使徒19:4アルマ7:149:27教義と聖約107:20参照)。

その後,主は約束のように「火と聖霊による」バプテスマをわたしたちに施してくださいます(3ニーファイ9:20)。ニーファイはそれを次のように表現しています。「あなたがたが入らなければならない門とは,悔い改めと,水によるバプテスマである。そうすれば,火と聖霊によって罪の赦しが与えられる。」(2ニーファイ31:171このように,「人を救う力を備えておられるこの御方の功徳に」頼るなら(2ニーファイ31:19),わたしたちは「内なる人において生かされた者」となり(モーセ6:65),まだ十分に再び生まれていないのであれば,霊的再生の道に確実に戻るのです。

主は注意するようわたしたちに警告しておられます。「人が恵みから落ち〔る〕こともあり得る」からです(教義と聖約20:32)。聖きよめられた人であっても同じです(32-34節参照)。ニーファイが勧告したように,「あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして,キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。」(2ニーファイ31:20

皆さんは,こう尋ねるかもしれません。「なぜその大きな変化はもっと早くわたしに起きないのでしょうか。」ベニヤミン王の民やアルマ,聖文に登場するほかの人々の目覚ましい例もありますが,それは驚くべきことであり,すべてがそうではありません。2多くの人にとって,その変化は少しずつ時間をかけて起こります。再び生まれるとは,肉体的な誕生とは異なり,一つの出来事ではなく一連の過程です。その過程を踏むことが,現世における最も大切な目的なのです。

また同時に,いいかげんな努力を正当化しないようにしましょう。悪を行おうという性癖をいささかでも持つことのないようにしましょう。毎週,聖餐せいさんを頂くにふさわしい者となり,心の中に汚れた部分が少しでもあるなら根絶できるよう引き続き聖霊に頼りましょう。霊的に再び生まれるという道を歩み続けるときに,イエス・キリストの贖いの恵みが皆さんの罪と罪の汚れを取り去り,誘惑はその力を失うことを証します。そしてキリストにより,皆さんはキリストや御父が聖なる御方であられるように,聖くなることができると証します。

わたしはイエス・キリストが生きておられ,復活された神の御子であることを知っています。

「また,〔わたしは〕知っている。すなわち,わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みによる義認は,正しく,かつ真実である。

〔わたしは〕また知っている。すなわち,わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みによる聖めは,神を愛し,勢力と思いと力を尽くして神に仕えるすべての人にとって,正しく,かつ真実である。」(教義と聖約20:30-31モロナイ10:32-33も参照)

わたしは人生を通じて,これからもキリストとキリストの良い知らせを全世界に宣言できることをうれしく思います。神が実在し,わたしたちを愛しておられることを証します。イエスは天の御父にすべての栄光を帰されました。ジョセフ・スミスを愛しています。またジョセフ・スミスが預言者であったことを証します。ジョセフは主と親しく交わり,モルモン書を翻訳,出版し,殉教の血によって自身の証を結び固めました。ジョセフ・スミスは,聖なる贖い主であるイエスの真の特質を伝える卓越した啓示者となりました。ジョセフ・スミスほどイエスに対する偉大な証人,友としてイエスに献身した人はいません。トーマス・S・モンソン大管長がこの時代の預言者であり,イエス・キリストの教会の大管長であることを証します。大管長会に託された神聖な務めにおいて,大管長と二人の顧問に忠誠を誓います。神の祝福がわたしたちすべての者のうえにありますように。イエス・キリストの御名により,アーメン。