2000–2009
贖いーーすべてを受けるためにすべてをささげる
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贖 あがな い――すべてを受けるためにすべてをささげる

救い主のすべてとわたしたちのすべてが一つとなったとき,罪のしを受け……「御子に似た者となれる」のです。

近年,末日聖徒は以前よりもさらに救い主イエス・キリストについて教え,歌い,証しています。民の喜びが増していることをうれしく思います。

「〔もっと〕キリストのことを話」1 すなら,福音の教義がもっと明らかになるでしょう。例えば友人の中には,贖いへの信仰と天の御父に似た者となることへの信仰の関係が分からない人がいます。また,憐あわれみと信仰の関係について,教会はプロテスタント的な考えに近づいているのではないかと誤解している人もいます。それらの誤解を解くために,今日きょうは贖いに関する回復された教会独自の教義について考えたいと思います。

背教が続いた後,主はジョセフ・スミスを通して御自身の福音を回復されました。5世紀以来,キリスト教会はアダムとエバの堕落を悲劇的な過ちだと教え,人は生来邪悪であるという考えを人々に植え付けてきました。堕落や人の性質,また人生の目的についてのそのような考えは間違っています。

堕落は災いではありません。過ちでも,不慮の出来事でもなく,救いの計画の一部として初めから意図されていたのです。人は神の霊の「子孫」2 として,アダムの背きに対して「罪のない」3 状態で地上に来ました。しかし御父の計画により,人は真の喜びを知るために,堕落したこの世で,誘惑や苦難を経験することになっています。苦さを知らなければ,甘さを知ることができないからです。4 御父に似た者となるため,また「進歩するための一歩」として,現世での訓練と精錬が必要なのです。5しかし,進歩すると,それに伴い苦痛も大きくなります。それはまた,救い主の恵みによって開かれた道を「最善を尽く〔して〕」6 歩む過程で,失敗から学んでいくという意味でもあります。

アダムとエバは,困難から絶えず学びました。カインとアベルの一件で家族の悲劇も経験しました。しかし贖いのおかげで,その件で罪に定められることはなく,経験から学ぶことができたのです。キリストの犠牲は,二人の選択を白紙撤回し,罪なきエデンへ連れ戻すことはしませんでした。この物語には初めから成長という筋書きがあったのです。主は人が,教えに教え,恵みに恵みを受けて,一歩ずつ成長するよう計画されました。

ですから,問題があっても,自分が悪いのだと決めつけないでください。問題に遭うことは,根本的な人生の目的だからです。神に近づくにつれ,人は神から弱さを示され,それによってさらに賢く,強くなれるのです。7 自分の弱さがたくさん目に入るのは,神から離れているからではなく,少しずつ近づいているからかもしれないのです。

オーストラリアの初期の改宗者がこう言いました。「これまでの人生は,一輪の花もない,雑草だらけの荒れ野〔でした〕。〔でも〕今は,雑草は消え失せ,花が咲き乱れています。」8

成長するには,雑草を取り除き,花を育てなければなりません。もしも自分の役割を果たすなら,救い主が祝福してくださいます。まずは根気よく,罪や誤った選択という雑草の根を抜き取ります。草刈りをするのではなく,根っこから完全に悔い改めて,憐れみを受けるための条件を満たすのです。しかし,赦しを受けるのは成長の一部にすぎません。借金の返済とは違うからです。目標は日の栄えの人となることなのです。心の土地を整えたら,神の特質の種を植え,絶えず雑草を抜き,養い育てるのです。やがて努力と自己修養が実を結び,主の賜物たまもの,つまり希望や柔和さという「恵みの花」9 が開きます。心の庭には,命の木さえ生長し,やがて甘い実をつけ,「神の御子の喜びによって」10 重荷がすべて軽くなることでしょう。そして心に慈愛の花が咲くとき,キリストのような愛の力で人を愛せるようになるでしょう。11

罪の雑草を抜き,神々しい花をつけるには,恵みを受ける必要があります。人の力だけではできません。しかし恵みを受けるための代価は非常に高いものです。一体幾らするのでしょう。「キリストを信じる」だけでよいのでしょうか。高価な真珠を見つけた人は,そのために「持ち物をみな売り払い」12 ました。「〔御父〕が持っておられるすべて」13 を求める人に,神はすべてを求められます。それほどの宝を手に入れるには,「いかに激しいか,あなたは知らない。まことに,いかに堪え難いか,あなたは知らない」14 と言われたキリストのように,何であれ最後の一滴までささげなければなりません。パウロは「苦難をも共にしている以上,キリストと共同の相続人なのである」15 と言っています。心をすべて差し出された主のように,わたしたちも心をすべて差し出す必要があるのです。

主と人にそれほどの代価を支払わせる真珠とは何でしょう。人のふるさとは地球ではありません。地球は「偉大な幸福の計画」16 の課題を果たすための学校であり,人はここでふるさとに帰ることの意味を学んでいるのです。主と人がこの計画に自らをささげる理由を,主は繰り返し教えられました。エバはそれを「贖いの喜び」17 と呼び,ヤコブは「聖徒たちのために用意されているあの幸福」18 と呼びました。必要があって,この計画は主と人にとげと涙を与えます。しかし,主とともにあらゆる反対のものを克服するとき,主と完全に一つとなるという「計り知れない喜び」19 を味わうことができるのです。

キリストの贖いはこの計画の中心を成します。主の貴い犠牲なしには,故郷に帰る道も,一つとなる道も,主のようになる道もありません。主は御自分のすべてを与えてくださいました。ですから,たとえ一人でもそれを受け取り,雑草から目を上げて御子を見るなら,そのときに「主の喜びはいかに大きいこと」でしょう。20

回復された福音にのみ,この完全な真理があります。悪魔は史上最大の隠蔽いんぺい工作を謀り,教会は何も理解していないと宣伝していますが,この教会は人とキリストとの関係がどのように真のクリスチャンを作るのかということを最も深く理解しています。

すべてをささげるとは「ほとんどすべて」をささげるということではありません。完全に戒めを守らなければ,完全な祝福は受けられません。例えばこういうことです。罪の泥の中をうろつきながら,伝道や神殿の面接の直前に悔い改めのシャワーを浴びればよいと考えている若者がいます。背きのさなかに悔い改めの計画を立てているのです。このような態度は真の悔い改めに対して与えられる憐れみの賜物を侮辱しています。

片手を神殿の壁につけながら,もう一方の手でこの世の「清くないもの」21 に触れている人がいます。両手を神殿に付けて貴い人生を送らなければなりません。片手ではほとんど十分であるとさえも言えないのです。

裕福な青年はほとんどすべてをささげました。すべてを売り払うようにとの救い主の勧めは,単に富だけを指していたのではありません。22 望むなら人は永遠の命を得ることができますが,ほかの何よりもそれを得たいと望む人にしか与えられないのです。

だからこそ進んですべてをささげなければならないのです。なぜなら,成長する意志のない人や,すべてをささげようとしない人を成長させることは,神でさえおできにならないからです。しかしながら,たとえすべてをささげたとしても,人は自らを完成させることはできません。それは神の仕事なのです。「〔信仰〕の完成者」23 である主の完全が加わるまでは,人が幾らすべてをささげようとしても,それは結局ほとんどにすぎません。主の完全が加わって初めて,心からささげた不完全なほとんどが十分となるのです。

友人のドナには若いころ,結婚して大家族を持つ夢がありましたが,実現することはありませんでした。その代わり,彼女は思いやり深くワードの人々に仕え,大きな学校区で情緒に問題のある児童のカウンセラーとなりました。関節炎のため憂ゆううつな日々を過ごしながらも,ドナは常に友人や家族を励まし,またいつも彼らの励ましを受けていました。あるとき,リーハイの夢について教えていたドナは,ユーモアを込めて穏やかにこう言いました。「鉄の棒に沿って細くて狭い道を行く途中で,疲れて倒れる自分が見えるの。」ドナが亡くなる直前,ホームティーチャーは霊感に満ちた祝福の中で,主は彼女を「受け入れてくださった」と告げました。ドナは泣きました。生涯独身であったことをずっと受け入れられなかったからです。しかし主は「犠牲を払って自分の聖約を……守ろうとする……者は,わたしに受け入れられる」24 と言われました。主が命の木の道を歩いて来られ,喜びながらドナを抱き上げ,ふるさとに連れて帰られる様子が目に浮かびます。

ドナのように自らを完全に奉献し,そのためたとえほとんどであっても十分な人々がいます。

例えば,ヨーロッパや同じような場所で多くの人に拒まれながらも,傷ついた心をささげ続ける多くの宣教師たち。

極限状態に追い込まれて神を知った手車隊の開拓者たちもそうです。彼らにとって,主を知るために支払った代価は,特権でした。

最善を尽くしながらも,娘の選択を変えることのできなかった父親。彼はアルマが息子にしたように,必死で主に近づき,懇願しました。

夫の弱さにもくじけず長年励まし続け,ついに夫の心に悔い改めの兆しを見ることのできた妻。彼女は「キリストが自分を見てくださっているように,夫を見ようとしました」と言いました。

長年心身の障害に苦しむ妻に寄り添い,それを「彼女の病気」ではなく「二人の小さな試練」と呼んでいる夫。彼は結婚の領域において,妻の苦難を自分の苦難としたのです。25 それはちょうどキリストが無限の領域で人々の「苦難を自分の苦難と」26 されたのと同じでした。

第三ニーファイ第17章で,破壊,疑い,暗闇くらやみを耐え抜いた人々は,イエスとともに神殿に集まりました。大いなる驚きの中,何時間も主に耳を傾けた民は疲れ果て,主の言葉を理解できなくなりました。イエスが去ろうとされたとき,民は涙を流して主を見詰め,とどまって悩める者や子供たちを祝福してくださるようにと懇願しました。御言葉みことばは理解できなくても,何よりも主とともにいたいと望んだのです。主はとどまられました。彼らのほとんどは十分だったのです。

どんなに不完全であっても,それが救い主の犠牲に倣ならうものである場合は特に,ほとんどで十分なのです。主が人々のためにお受けになった苦しみを多少なりとも味わわなければ,キリストの愛である慈愛を心から感じることはできません。愛と苦難は表裏一体だからです。人の苦難を自分のものとして苦しむとき「その苦難にあずかって」27 キリストと共同の相続人になることができます。

主の賜物を受けるための代価がどんなに高くとも,ひるまず進めますように。救い主のすべてとわたしたちのすべてが一つとなったとき,罪の赦しを受け,さらに「ありのままの御姿みすがたの御子にまみえ……御子に似た者となれる」のです。28 主を愛しています。主とともにいたいと願っています。イエス・キリストの御名みなによって,アーメン。