2000–2009
主の力を受けて
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主の力を受けて

どのような生活環境に置かれていても,戒めを守るには自分の力以上の力が必要です。

青年時代のある時期,わたしはすばらしい地方部長の副部長として奉仕しました。彼は様々なことを教えてくれました。その中で一つ理解に苦しむ助言を受けたことを覚えています。それは,「だれか人に会ったら,その人が重大な問題を抱えていると考えて接してください。…… 50パーセント以上はそれで正しいでしょうから」というものでした。

そのとき,随分と悲観的な人だ,と思ったものでした。それから40年以上が過ぎた今,彼は世の中や人生を実によく理解している人だったことが分かります。時がたつにつれて,世界はますます多くの問題を抱えるようになっています。しかも人の体力は年齢を重ねるごとにゆっくりと落ちてきます。人の力以上の力が必要になるということがよく分かってきます。詩篇の作者はそれに気づいていました。「正しい人の救すくいは主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所〔訳注――欽定訳でこの部分は「力」の意の“strength ”となっている〕である。」1

回復されたイエス・キリストの福音は,逆境に直面したときに主の力を受けるにふさわしくなるにはどうしたらよいかを教えています。福音はまた,どうして人生には試練が付き物なのかを説明しています。さらに大切なことに,主から守りと助けを受ける方法を明らかにしています。

試練に遭うのは,天の御父に愛されているからです。人が御父と御子イエス・キリストの御前みまえで,栄光を受け,家族と一緒に永遠に住むという祝福を受ける資格を得られるように助けること,それが御父の目指しておられることです。そのような祝福を受けるには死すべき体を受けなければなりません。死すべき体を受けることで誘惑と苦難により試されることを,わたしたちは理解していました。

回復された福音は,なぜ試練を受けなければならないかを教えているだけでなく,試練とは何かを明らかにしています。預言者ジョセフ・スミスは一つの説明を与えています。ジョセフは啓示により,世界が創造されたときに語られた御言葉みことばを記録することができました。それはわたしたち,すなわちこの世に来ることになっていた天の御父の霊の子供たちに関する事柄です。これがその御言葉です。

「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」2

この言葉は,人はなぜこの世で試練を受けるのかを理解する助けとなります。試練は,神に忠実であることを証明する機会を与えてくれているのです。人生には実に様々な苦難が降りかかってくるため,自分の力ではとうてい堪え忍べないと感じることがあるかもしれません。聖典には「最後まで堪え忍ば〔なければならない〕」と記されています。3 わたしが初めてこの聖句を読んだときも「自分は堪え忍べるだろうか」と感じました。とても厳しい要求だという印象を受けたのです。たとえて言うなら,だれかに歯を引き抜かれている間,いすに座り,ひじかけにしがみついてじっとしているようなことでした。

それは穀物の収穫を当てにしている家族にとって,雨が降らずに困っている日々にたとえることができます。「いつまで耐えたらよいのだろうか」と思うことでしょう。堕落と誘惑という洪水にさらされている青少年にたとえることもできます。妻子を養うために苦労しながら職業訓練を受けている青年にたとえることもできます。また,会社が次々に閉鎖されて仕事が見つからない人や失業した人にもたとえることができます。さらに,

自分自身か愛する人々が若くして,あるいは年老いてから健康を害した場合や体力の減退に苦しんでいる場合にたとえることもできます。

しかし愛にあふれる神が与えておられる試練は,苦難に耐えられるかどうかを試すものではなく,苦難に耐えながらも,義にかなった生活をするかどうかを試すものなのです。わたしたちは神を覚え,神から与えられた戒めを守ると証明することによって試練を乗り越えるのです。立派に堪え忍ぶには,どのような反対に遭っても,どのような誘惑を受けても,どのような問題に取り囲まれても,神の戒めを守らなければなりません。わたしたちがこのように明確な理解を持っているのは,回復された福音が幸福の計画を非常に分かりやすく説明しているからです。

この明確な説明から,わたしたちにはどのような助けが必要かが分かります。どのような生活環境に置かれていても,戒めを守るには自分の力以上の力が必要です。ある人は貧しい環境に,ある人は豊かな環境に置かれているかもしれません。年齢から来る衰えを感じている人もいれば,若さゆえに物事に熱中しすぎてしまう傾向にある人もいるでしょう。試練とそれが続く期間は,天の御父の子供たちそれぞれに違います。一つとして同じ試練はありません。けれども,人生を通じて常にまたあらゆる人が試しを受けるという点においては同じです。わたしたちは主なる神の命じられることを何でも行うという気持ちを抱いているでしょうか。

なぜ試しを受けるのか,そして試しとは何かを知ると,助けを受けるにはどうしたらよいかが分かってきます。神の御前に行かなければなりません。神は戒めを与えておられます。戒めを守るためにわたしたちは自分の力以上の力を必要とします。

回復された福音はまた,わたしたちが行う必要のあるのは単純な事柄であることを明らかにしています。そして,危機が訪れるずっと前からそうしたことを確実に実行しているならば,必要な助けが必ず与えられることを約束しています。

まず最初に,そして途中で,さらに最後に行うべきことは祈りです。救い主はその方法を教えてくださいました。最も分かりやすい指示の一つが第三ニーファイにあります。

「見よ,まことに,まことに,あなたがたに言う。あなたがたは誘惑に陥らないように,常に目を覚ましていて祈らなければならない。サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願っているからである。

だからあなたがたは,わたしの名によって常に父に祈らなければならない。

与えられると信じて,わたしの名によって父に求めるものは,正当であれば,見よ,何でもあなたがたに与えられる。

あなたがたの妻子が祝福を受けるように,あなたがたの家族の中で,わたしの名によって常に父に祈りなさい。」4 このように,わたしたちは常に祈らなければならないのです。

神から力を頂くために行うもう一つの簡単なことは,神の御言葉をよく味わうことです。つまり,教会の標準聖典と生ける預言者の言葉を読み,深く考えることです。毎日それを実行するならば,神の助けを受けると約束されています。聖文を熱心に研究することによって,聖霊の訪れを受けます。この約束は,モルモン書に記されています。この約束は神が与えてこられた命の言葉,また預言者を通して今後与えられるあらゆる命の言葉に当てはまるものです。

「見よ,わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが,神の知恵にかなうようであれば,あなたがたはこれを読むときに,アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで,主が人の子らにどれほど憐あわれみをかけてこられたかを思い起こし,それを心の中で深く考えてほしい。

また,この記録を受けるとき,これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。

そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」5

この約束が一度だけでなく何度も,またモルモン書だけでなくすべての聖文について果たされるよう願い求める必要があります。この約束は確かに果たされます。聖霊の力は現実に存在します。繰り返し与えられるものです。そして聖霊が常に証してくださる最も大切な真理は,イエスがキリストであられることです。

その証によって,救い主に近づき,この世の過酷な試練を受けているすべての人に主がお与えになる助けを得ることができます。救い主は幾度となく,めんどりが羽の下にひなを集めるように,わたしたちを集めようと言われました。主はまた,柔和な心と主への信仰をもって主の御前に行き,「十分に固い決意をもって」6 悔い改めなければならない,とおっしゃっています。

そのように行う一つの方法は,主の教会で聖徒たちとともに集まることです。たとえ難しいと感じても,集会に出席してください。そう決意していれば,主は実行する力を得られるよう助けてくださいます。

イギリスに住むある会員から,手紙を受け取りました。彼女は監督から,早朝セミナリーの教師の召しを受けてほしいと言われ,引き受ける前に祈るように勧められました。彼女はそのとおりに実行し,召しを引き受けました。初めて親たちの前に立ったとき,監督は彼女とともにいました。彼女は,セミナリーは週に5日行わなければならないと考えていると言いました。何人かの親は戸惑った様子でした。ある人は言いました。「子供たちは来ないでしょうね。出席するかどうかで彼らの気持ちが分かるでしょう。」

その意見は半分当たっていました。生徒は文字どおり出欠状況で気持ちを示しました。しかし現在,朝のまだ寒く暗い時間に開かれているそのクラスの出席率は,90パーセントを超えています。もし出席し始めたら,生徒たちは自分の力以上の力によって励ましを受けることを教師と監督は信じていました。その力が与えられたのです。自分たち以外に末日聖徒がいない場所へ行くことがあっても,彼らはその力によって守られることでしょう。彼らは孤独でもなく,無力でもないのです。決して易しいことではなくても,聖徒たちとともに集まるという呼びかけに応じたからです。

この力は年配の人にも若い人にも同様に与えられます。わたしは夫を亡くし90歳を超えたある女性を知っています。彼女は車いすの生活を送っています。皆さんと同じように祈り,自分の力では解決できない問題を解決する力を願い求めています。答えを心で感じています。そして「見よ,あなたがたはしばしばともに集いなさい」7 という戒めを守ろうとする思いが強まりました。やがて集会に出席する方法を見つけました。そこに集う人々はこのように話してくれました。「彼女が来てくれることをほんとうに喜んでいます。すばらしいスピリットをもたらしてくれます。」

彼女は聖餐せいさんを受け,聖約を新たにしています。救い主を覚え,戒めを守るために努力しています。こうして常に主の御霊みたまを受けているのです。抱えている問題は解決しないかもしれません。ほとんどの問題は他人の選択の結果として降りかかってきたものです。天の御父は祈りに耳を傾け,愛してくださいますが,ほかの人たちに善を選ぶよう強制することはなさいません。けれども天の御父は,救い主の守りを与え,御霊を授けるという約束を果たすことはおできになります。聖徒たちとしばしば集まるという戒めを守っているので,彼女は主の力を受けて,直面する試練を乗り越えられることを,わたしは確信しています。教会に集っていることは,彼女が立派に堪え忍んでいることの証拠であり,行く手に立ちはだかる試練を乗り越える力の源となっています。

もう一つ,なすべき簡単なことがあります。この教会は回復された主の教会なので,教会で奉仕する召しは,主に仕える召しを意味します。先ほどのイギリスの監督はとても賢明な人でした。監督はその姉妹に自分の召しについて祈ってみるように言いました。彼女がどのような答えを受けるかを知っていました。それは御父とその愛される御子からの招きとなるでしょう。監督は主からの召しにこたえることによって彼女が何を学ぶかを知っていました。全力を尽くして召しを果たす人に,聖霊は伴侶はんりょとなって訪れてくださいます。彼女は親たちの前に立ったとき,そして生徒たちがセミナリーに出席することで自分たちの気持ちを示したときに,きっとそれを感じたことでしょう。難しいと思われたこと,自分の力ではほとんど不可能だと思われたことが,主の力を受けて喜びへと変わったのです。

彼女は聖文を読み,深く考え,レッスンを準備するために祈るとき,救い主が聖霊を遣わしてくださるよう御父にお願いしてくださったことを知っています。それは主が最後の晩餐ばんさんの席で弟子たちに約束されたことでもありました。主は弟子たちを試練が待ち受けていること,しかも彼らを後に残していかなければならないことを御存じでした。主は弟子たちを慰める者のいないまま放置するようなことはされませんでした。主は,弟子たちに与えた聖霊を遣わすという約束を,主の業に働くわたしたちにもお与えになっています。ですから,奉仕する機会が与えられたら,受け入れてください。そうすれば,召しによって出遭う試しよりもはるかに大きな試練をも克服する力が得られるでしょう。

すべての人が教会の正式な召しを受けるわけではありません。けれども,すべての弟子は証を述べることによって,また人に親切にすることによって主に仕えます。わたしたちは皆そうすることを,バプテスマの水に入るときに約束しました。そして神への献身を続けるならば,すべての人が御霊を伴侶とすることができるでしょう。

主に奉仕することによって皆さんは主を知り,主を愛するようになります。祈りと奉仕を忠実に続けるならば,聖霊がともにおられることに気づくようになります。わたしたちの多くはそのような奉仕を行った時期があり,そのとき聖霊が伴侶となってくださっていると感じたことでしょう。当時のことを振り返ってみるならば,皆さん自身の中で変化が起きたことを思い出すでしょう。邪悪な行いへの誘惑が弱まったと感じたことでしょう。善を行う望みが高められたことでしょう。皆さんを愛し,よく知る人々はこう言ったことでしょう。「以前にも増して親切で,忍耐強くなりましたね。まるで別人のようです。」

イエス・キリストの証贖あがないの効力が実際に及んだため,皆さんはすっかり変わったのです。わたしたちが新しい,変化を遂げた,より善い人になることができるという約束は真実です。人生の試練に立ち向かえるようもっと強くなれます。そして,主の力をもって働くのです。それは主の奉仕の業にあって培われる力です。主は一緒に歩んでくださいます。そしていつの日かわたしたちは,試しを乗り越えた,力ある弟子となるのです。

そして皆さんは自分の祈りに変化が起きていることに気づくでしょう。以前よりも熱意を込めて,しばしば祈るようになります。祈りの中で語る言葉は以前とは別の意味を持つようになります。わたしたちはイエス・キリストの御名みなによって常に御父に祈るようにとの戒めを受けています。御父に祈るときに,自分が信頼されている,正真正銘のイエス・キリストの弟子として,御父の御前へ通じる道を歩んでいるという確信が深まるでしょう。また,御父はこの世でいっそう大きな平安と力を与えてくださいます。さらに,この試しの生涯を終えるときに次のような言葉をかけていただけるという喜ばしい期待をも与えてくださるでしょう。「良い忠実な僕しもべよ,よくやった。」8

わたしは父なる神が生きておられることを知っています。神はあらゆる祈りを聞き,そしてこたえてくださることを証します。御子イエス・キリストはわたしたちのすべての罪の代価を支払われたこと,みもとに来るよう望んでおられることを知っています。御父と御子はわたしたちに人生の試練を乗り越えるよう望んでおられることを知っています。御二方はわたしたちのために道を備えておられることを証します。終わりの時に福音が回復されたことにより,道がはっきりと示され,わたしたちは主の戒めを知ることができました。イエス・キリストのまことの教会にいるわたしたちは,聖霊を伴侶とするという約束がかなえられるよう求めることができます。それによって,苦難に耐えながらも,義にかなった生活をすることができるのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。