2000–2009
戦争と平和
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戦争と平和

異なる政府や団体に対してどのような忠誠心を持っていようと,主の民が困難のときにあって互いに友好関係を保つことができるよう,わたしは願っています。

兄弟姉妹の皆さん,先週の日曜日,書斎に座ってこの場で何を言おうかと考えていたとき,合衆国海兵隊の二等軍曹,ジェームズ・W・カウリーがイラクで戦死したことを知らせる電話を受けました。41歳で,妻と二人の幼い子供を後に残していきました。

20年前,カウリー長老は教会の宣教師として日本で働きました。ほかの多くの人と同様,教会の中で育ち,小学校の年代にはよく遊び,執專として聖餐せいさんのパスをし,そして伝道に出るふさわしさを認められて,日本の人々に平和の福音を教えました。帰還後は海兵隊で任務を果たし,結婚し,警察官になり,その後また現役軍務に召集されました。その求めに対し,彼は躊躇ちゅうちょすることなく応じました。

彼の人生,彼の伝道,彼の軍務,彼の死には,福音という平和と,戦争という暴力の矛盾が表れているように思われます。

そこでわたしは,戦争とわたしたちの教えている福音について少しお話ししてみたいと思います。このことについては,2001年10月の大会で多少お話ししました。当時この説教台に立ったときには,ちょうどテロリズムとの戦いが始まったところでした。現在の戦争はまさにあの戦いから生まれたものであって,あの戦いの延長です。これから,終結に向かうよう願っています。

この問題についてお話しするに当たって,わたしは聖なる御霊みたまの導きを求めています。大いに祈り、深く考えてきました。わたしたちと信仰を異にする人々を含め,世界中でこの大会に参加している人々にとって非常にデリケートな話題であることは分かっています。

現在の情勢について,世界の国々では意見が分かれてきました。感情は高まりを見せ,賛成や反対のデモが行われてきました。今では世界的な教会となっているわたしたちの教会には,この問題を論じているほとんどの国々に会員がいます。会員たちもそれぞれに意見を持ち,また,不安を抱いてきました。

もちろん戦争は新しいことではありません。武器は変わります。殺傷能力や破壊能力には絶えず磨きがかけられています。しかし歴史を通じて,基本的に同じ問題について戦いが行われてきました。

黙示録には,神の子らの思いと忠誠心にとってひどい戦いであったに違いないものについて簡潔に述べられています。読み返す価値のある話です。

「さて,天では戦いが起おこった。ミカエルとその御使みつかいたちとが,龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが,勝てなかった。そして,もはや天には彼らのおる所がなくなった。

この巨大な龍,すなわち,悪魔とか,サタンとか呼ばれ,全世界を惑わす年を経たへびは,地に投げ落され,その使たちも,もろともに投げ落された。」(黙示12:7-9)

イザヤはその大いなる戦いについてさらに語っています(イザヤ14:12ぎ20参照)。現代の啓示はさらなる光を与えており(教義と聖約76:25-29参照),モーセ書も同様で(4:1-4参照),そこでは人の選択の自由を滅ぼすサタンの計画が語られています。

わたしたちは時々,オスマン帝国やローマ帝国,ビザンチン帝国,さらに最近では巨大な大英帝国など,過去の偉大な帝国を賛美する傾向があります。しかしそれらには,どれも暗い側面があります。残虐な征服,支配,抑圧,そして人命およびけた金銭面での桁けた外れの犠牲という,残忍で悲劇的な側面です。

イギリスの偉大な随筆家トーマス・カーライルは,かつて皮肉を込めて次のように語っています。「神は御自分の驚くべき創造物がこの地上で行っていることを見て笑っておられるに違いない。」(SartorResartus〔1836年〕,182で引用)御自分の子供たちが何世紀にもわたって情け容赦なく滅ぼし合い,自分たちの神聖な生得権を無駄にする様子を天から御覧になって,天の御父は涙を流してこられたとわたしは思います。

歴史を通じて,時々暴君が現れて自らの民を虐げ,世界を脅かしてきました。多くの人々が現在はまさにそのような状況であると判断しており,その結果,高性能で恐怖を覚えるような武器を備えた,大きくて恐るべき軍隊が戦いを行っています。

この戦いにはわたしたちの教会の会員が大勢参加しています。テレビや新聞で,わたしたちは戦場へと向かう軍服姿の父親に涙を浮かべてしがみつく子供たちを見てきました。

今週,ある母親から,海兵隊にいる自分の息子について書いた,胸を打つ手紙を受け取りました。彼が中東での戦争に行くのは,これで2度目となります。彼女はこう言っています。初めての派遣のとき,「息子は休暇で帰宅すると,わたしに散歩に行こうと言いました。……わたしの肩に腕を回し,戦争に行くことについて話してくれました。息子は……言いました。『お母さん,ぼくはお母さんや家族が自由でいられるように,思いのまま自由に礼拝できるように,行かなければいけないんです。……そしてもし自分の命が求められるなら……それは自分の命をささげる価値のあることなんです。』」今彼は再びその地にいて,最近家族に次のような手紙を書いています。「ここで自分の国と自分たちの生き方のために働けることを誇りに思っています。……天父がともにいて

くださると知っているおかげで,とても安らかな気持ちです。」

ほかにも母親がいます。罪のない一般市民です。恐怖の中で子供たちをしっかりと守り,地が足もとで揺れ,ものすごい破壊力のロケット弾が鋭い音を立てながら暗い空を飛んで来る中,必死に天を見詰めて嘆願しているのです。

この恐ろしい戦いでは犠牲者が出ており,これからさらに出るでしょう。一般市民の抗議は続くと思われます。ほかの国々の指導者たちは,はっきりと連合軍の戦略を非難しています。

そして質問が出てきます。「この問題に関して教会はどのような立場を取っているのか。」

最初に,わたしたちはイスラム教徒の人々やほかのいかなる信仰の人々にも非難の気持ちを抱いていないことを理解しておいていただきたいと思います。わたしたちは,地上のすべての人々は神の家族の一員であると認識し,そう教えています。そして,神はわたしたちの父ですから,人は互いに家族としての義務を持つ兄弟姉妹なのです。

しかし市民として,わたしたちは全員それぞれの国の指導者から指示を受けます。国の指導者は一般の人より多くの政治的および軍事的な情報を入手することができます。軍隊にいる人々は,それぞれの政府に対して,最高権威の意志を実行する責務を負っています。兵役に就いたときに結んだ契約によって義務を負っており,それに忠実にこたえています。

わたしたちの教義を言い表した信仰箇条の一節には,次のようにあります。「わたしたちは,王,大統領,統治者,長官に従うべきこと,法律を守刀,尊び,支えるべきことを信じる。」(信仰箇条1:12)

しかし現代の啓示は,わたしたちは「戦争を放棄して,平和を宣言」しなければならないと言っています(教義と聖約98:16)。

民主主義において,わたしたちは戦争を放棄して平和を宣言することができます。反対する機会があります。多くの人々が自由に意見を述べ,力強く述べてきました。それは特権です。合法的に行われるかぎり,権利なのです。しかし,わたしたちは皆,さらに重要なもう一つの責任を心に留めなければなりません。現在の状況において,このもう一つの責任がわたし個人の感情を支配し,わたし個人の忠誠心を促しているものである,と付け加えたいと思います。

ニーファイ人とレーマン人の問で戦争が激しくなったときのことについて,記録には次のように書かれています。「ニーファイ人はもっと良い動機に励まされていた。彼らは……権力のため〔に戦ったのでは〕なく,自分たちの家と自由と,妻子と,自分たちのすべてのもののために,特に礼拝の儀式と教会のために戦っていた。

彼らは,神に義務を負っていると感じていたことを行っていたのである。」(アルマ43:45,46)

主はニーファイ人に次のように勧告されました。「血を流してでも自分たちの家族を守りなさい。」(アルマ43:47)

そしてモロナイは「自分の衣を裂いて,その一片を取り,それに『我々の神と宗教,自由,平和,妻子のために』と書いて,竿さおの先にしっかりとくくり付けた。

それから,彼は自分のかぶとと胸当てと盾をしっかりと身に着け,よろいを腰にまとい,先端に裂いた衣を付けた竿を取って(彼はそれを自由の旗と呼んだ),地にひれ伏し,そして……自分の同胞はらからに自由の祝福をとどめてくださるようにと,熱烈に神に祈った。」(アルマ46:12-13)

ほかの文書からも,国家が家族と自由のために独裁政治や脅威,抑圧に対して戦うことが正当とされる,あるいはむしろそうする義務が生じる時や状況があることは明らかです。

最終的には,この教会の会員であるわたしたちは平和の民です。平和の君である贖あがない主,主イエス・キリストに従う者です。しかしその主でさえも次のように言われました。「地上に平和をもたらすために,わたしがきたと思うな。平和ではなく,つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34)

以上のことから,わたしたちは平和を切に望み,平和について教え,平和のために働きますが,同時に,国民でもあり政府の法律に従うべき立場にあることになります。さらに,自由を愛する民であり,自由が危機にあるときにはいつでもすべてをささげてそれを守ります。わたしは軍服姿の男女が自分たちに課せられた合法的な義務を実行するときに,その政府の代理人として神が彼らに責任を負わせるようなことはなさらないと信じています。さらに,もしわたしたちが悪と抑圧の力との戦いに参加する人々の道を妨げたり遮ったりしようとするなら,神はわたしたちに責任を負わせられることでしょう。

さて,これらの危険な時期にあってわたしたちにできること,しなければならないことはたくさんあります。自分たちの理解するままにこの状況が持つ様々な側面について意見を述べることができますが,決して両方の側の様々な国にいる兄弟姉妹に関して,非合法なまたは不適切なことを言ったり行ったりすることのないようにしましょう。政治的な違いによって憎しみや敵意が正当化されることは決してありません。異なる政府や団体に対してどのような忠誠心を持っていようと,主の民が困難のときにあって互いに友好関係を保つことができるよう,わたしは願っています。

それぞれの政府から兵役に召集されている人々のために祈り,天の守りがあって,無事に愛する人々のもとへ戻ることができるように願い求めましょう。

命を危険にさらしている兄弟姉妹,わたしたちは皆さんのために祈っています。主が皆さんを見守り,皆さんを負傷から守ってくださるように,また皆さんが家に戻ってこれまでの生活を取り戻すことができるように祈っています。皆さんが砂嵐すなあらしと猛暑の中にいるのは,戦争というゲームが好きだからではないことを知っています。皆さんの決意の強さは,信じるもののために命さえも進んでささげる姿で分かります。

わたしたちは,この激しい命がけの戦いの中で命を落とした人々や,これから命を落とすかもしれない人々がいることを知っています。愛する人を失った人々に慰めと祝福を与えられるように全力を尽くす必要があります。嘆き悲しむ人々が,贖いキリストからのみもたらされる慰めによって慰められますように。主は愛する弟子たちに次のように言われました。

「あなたがたは,心を騒がせないがよい。神を信じ,またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には,すまいがたくさんある。もしなかったならば,わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために,場所を用意しに行くのだから。……わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」(ヨハネ14:1-3,27)

わたしたちは戦いに終結を,すなわち結果として当事者全員がより良い生活を得られるような終結を見るために,偉大な強さと無限の力を持っておられる主に請い願います。主は次のように宣言しておられます。「主なるわたしは,上は天で治め,また地の軍勢の中でも治めているからである。」(教義と聖約60:4)

わたしたちは預言者イザヤの預言した栄えある日を望み,祈らなければなりません。その日には人々が「そのつるぎを打ちかえて,すきとし,そのやりを打ちかえて,かまとし,国は国にむかって,つるぎをあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない」のです(イザヤ2:4)。

たとえ邪悪な世の中にあっても,わたしたちは天の御父の保護を受けるにふさわしい生活をすることができます。ソドムとゴモラの悪事の中で暮らした義人のようになることができます。アブラハムは義人のために町が災いを免れるよう嘆願しました(創世18:20-32参照)。

そして何より,主イエス・キリズトの救いをよく理解し,それを心から望み,その救いを世界に宣言することができます。主の贖いの犠牲によって,確かに人生は死の幕を超えて続くのです。従順な者の昇栄をもたらす福音を教えることができます。

たとえ戦争の武器が死のセレナーデを鳴り響かせ,暗闇くらやみと憎しみが一部の人々の心を支配しているときでも,そこには確固として,安心と慰めに満ち,どこまでも及ぶ愛をお持ちの,世の贖い主,神の御子の静かな御姿みすがたがあるのです。わたしたちはパウロとともに宣言します。

「わたしは確信する。死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも,力あるものも,

高いものも深いものも,その他どんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)

父の永遠の計画の中で,この人生はほんの1章にすぎません。そこには戦いと,一見福音に調和しないように思われるものが満ちています。若くして死ぬ人もいます。長生きする人もいます。それはわたしたちには説明できません。しかし,主の贖いの犠牲によってすべての人が生き続けるという知識をもって,また主の計り知れない愛による慰めに満ちた確信をもって受け入れます。

主はこう言われました。「わたしに学び,わたしの言葉を聴きなさい。わたしの御霊の柔和な道を歩みなさい。そうすれば,あなたはわたしによって平安を得るであろう。」(教義と聖約19:23)

兄弟姉妹,わたしたちはそこに信仰を置きます。どのような状況であっても,救い主,贖い主,生ける神の,生ける御子キリストの慰めと平安があるのです。主の聖なる御名みな,イエス・キリストの御名により証あかしします。ア∵メン。