2000–2009
贖罪と一人の価値
2004年4月


贖罪と一人の価値

もし主イエス・キリストの贖罪が真に理解できれば,人は皆,神の息子や娘の一人がいかに貴いかを理解することでしょう

今年の1月,わたしたち家族は孫のネーサンを飛行機事故で失いました。ネーサンはロシア語圏にあるバルト諸国伝道部で働きました。彼は人々を愛し,主に仕えることを特権と思っていました。事故死したのは,わたしが彼と彼の愛するジェニファーの永遠の結婚を執り行ってから3か月後のことでした。ネーサンがあまりに突然取り去られてしまった後,わたしたち家族一人一人の心と思いは主イエス・キリストの贖罪へ向けられました。わたしにはキリストの贖罪のすべての意味を言い表すことはできませんが,主の贖罪がわたしと家族に,また皆さんと皆さんの家族にどのような意味を持つかを説明できるよう祈っています。

救い主の貴い降誕,生涯,ゲツセマネの園での贖罪,十字架上での苦しみ,ヨセフの墓への埋葬,そして栄えある復活,そのすべてが,わたしたち家族にとって新たな現実となりました。救い主の復活により,人は皆いつの日か主のように復活すると保証されています。全人類の救い主,贖い主であるイエス・キリストの愛にあふれる恵みによって与えられたこの大いなる賜物は,何という平安,何という慰めでしょう。主のおかげで,再びネーサンに会えると確信しています。

神の御子によって行われた雄々しい贖罪ほど,大いなる愛の表現はありません。世の始まる前に設けられた天の御父の計画がもしなかったならば,過去,現在,未来のすべての人類は,永遠に進歩するという希望を持ち得なかったことでしょう。アダムの背きの結果として神から引き離されたわたしたち人間は(ローマ6:23参照),死の縄目に打ち勝つ方法が見いだされないかぎり,永遠にその状態にとどまることになりました。死の縄目を解くのは容易ではありませんでした。全人類の罪を負うには,罪のない人物による身代わりの犠牲が必要だったからです。

感謝すべきことに,イエス・キリストは勇敢にも古代エルサレムにおいてこの犠牲となられました。静かで孤独なゲツセマネの園で,救い主は節くれ立ったオリーブの木々の間にひざまずき,人間には完全に理解することのできない途方もない方法で,世の罪を受けられました。主は清く罪のない生涯を送られたにもかかわらず,皆さんとわたしと,かつて生を受けた全人類の罪に対する究極の罰を受けられました。その精神的,情緒的,霊的な苦痛はあまりに激しく,すべての毛穴から血が流れ出たほどでした(ルカ22:44;教義と聖約19:18参照)。しかしイエスは進んでその苦しみを受けられたのです。それはすべての人が,主を信じ,罪を悔い改め,正しい神権の権能によってバプテスマを受け,確認の儀式を通して聖霊の清めの賜物を受け,救いに不可欠なほかのあらゆる儀式を受けることによって,洗い清められる機会を得るためです。主の贖罪がなければ,その祝福のどれ一つも得ることはできず,神の御前に住むにふさわしくなく,その備えもできないのです。

救い主はさらに,侮辱的な尋問,残酷な鞭打ち,カルバリにおける十字架の刑と死に耐えられました。最近,このことに関する注解が数多く出ていますが,救い主の命を奪う力はだれにもなかったという重要な点を明示したものは一つもありません。主は御自分から命を捨ててわたしたちを買い取られたのです。神の御子である主には状況を変えることもおできになりました。それでも聖文には,主は人の子らに対する大いなる愛のゆえに,鞭打ちや屈辱,苦しみ,ついには十字架上の死にさえ身をゆだねられたと,はっきり記されています(1ニーファイ19:9-10参照)。

イエス・キリストの贖罪は,地上における御子の使命と,人の救いに関する御父の計画の中で,欠くことのできない事柄でした。御父が愛する御子を救うために手を伸べたいという父親の情を抑えられたことに,わたしたちはどれほど感謝すべきでしょうか。皆さんやわたしに対する永遠の愛のゆえに,御父はイエスが予任されたとおりに贖い主となられるのをお許しになりました。復活と不死不滅の賜物はイエス・キリストの愛にあふれる恵みによって,あらゆる時代のあらゆる人間に,行いのよしあしを問わず,無料で与えられます。そして主を愛することを選び,戒めを守り,贖罪の完全な祝福を受けるふさわしさを身に付けていきながら,主への愛と信仰を示す人々には,神とその愛する御子の御前に永遠に住むという祝福,すなわち昇栄と永遠の命というさらなる約束が与えられているのです。

わたしたちがよく歌う賛美歌に,わたしが救い主の優しさと贖いの犠牲について思うときに抱く感情が表現されています。

主イエスの愛に ただ驚く

恵みの深きに  われ惑まどう

罪人つみびとのため   十字架にて

流されたる血に 身は震ふるう

(「主イエスの愛に」『賛美歌』109番)

全人類の救い主,贖い主であるイエス・キリストは,死んではおられません。生きておられるのです。復活した神の御子は生きておられる,それがわたしの証です。今日主は御自分の教会を導いておられます。

1820年の春,一筋の光の柱がニューヨーク州北部の小さな森を照らしました。天の御父とその愛する御子が,預言者ジョセフ・スミスに御姿を現されたのです。この出来事により,何世紀にもわたって失われていた真実の教義の力強い回復が始まりました。背教の闇によって隠されていた教義の中には,人は皆,神すなわち愛にあふれた御父の霊の息子・娘であられるという感動的な事実も含まれています。人は神の家族の一員です。神が父親であることは寓話ぐうわや詩などではありません。文字どおり人の霊の父親であられるのです。御父はわたしたち一人一人を心にかけておられます。この世は人を過小評価しがちですが,実際は,人は皆高貴な存在であり,神の血統に属する者なのです。御父と御子の聖なる森への来臨という空前の出来事の中で,全人類の御父が最初に発せられた言葉は「ジョセフよ」という個人の名でした。御父と人間との個人的な関係とはそのようなものなのです。御父は個人の名を御存じで,わたしたちがふさわしくなって戻って来るのを切に願っておられます。

預言者ジョセフ・スミスによって福音が回復されました。主イエス・キリストは,御自分の選ばれた預言者によって,信じるすべての人の救いのために,儀式そのものと,儀式を執り行うために必要な神権の権能を再び明らかにされました。

別の時代の預言者は,「地のすべての民族」を見ました(モーセ7:23)。「主はエノクに,まことに世の終わりに至るまですべてのことを示された。」(モーセ7:67)エノクはまた,サタンが「手に大きな鎖を持ち,それ〔が〕地の全面を闇で覆〔い,〕サタン〔が〕見上げて笑〔っている〕」のを見ました(モーセ7:26)。

エノクが目にしたすべてのもののうち,何にも増して注意を引いたと思われるものがあります。エノクは,神が「民の残りの者を見て泣かれ〔る〕」のを見たのです(モーセ7:28)。神聖な記録によると,エノクは神に何度もこう尋ねています。「どうして泣くことがおできになるのですか。……どうしてあなたは泣くことがおできになるのですか。」(モーセ7:29,31)

主はエノクに答えられました。「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。……わたしはあなたの兄弟たちに……互いに愛し合うように,また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。ところが見よ,彼らは愛情がなく,自分の血族を憎んでいる。」(モーセ7:32-33)

エノクはこの末日の状態を見ました。彼や昔の預言者たちは,試練に対処し,平安と喜びを得て幸福になるには,贖罪を受け入れて,福音に従うよう努める必要があることを知っていました。この大いなる賜物を理解することは,神の子供一人一人が個々に行うべき仕事なのです。

兄弟姉妹,わたしはこう信じています。もし主イエス・キリストの贖罪が真に理解できれば,人は皆,神の息子や娘の一人がいかに貴いかを理解することでしょう。御自分の子供たちに対する御父の永遠の目的は,一般に,人が互いに行う小さくて簡単なことによって成し遂げられます。英語で「贖罪」に当たる“atonement ”という言葉の中心には“one ”すなわち一人という言葉があります。もし全人類がこのことを理解したなら,年齢や人種,性別,宗教,または社会的,経済的な地位にかかわらず,すべての人を気にかけるようになるでしょう。救い主を見習うようになり,不親切や無関心,無礼や無神経な態度がなくなることでしょう。

もし贖罪と一人一人の永遠の価値を真に理解したならば,わたしたちは不従順な少年や少女,そして神の不従順な子供たちすべてを探し求めるでしょう。彼らがキリストからどれほど愛されているかを理解できるよう助け,福音の救いの儀式に彼らが備えられるように,できるすべてのことを行うでしょう。

キリストの贖罪がワードや支部の指導者の思いの大部分を占めるなら,新しい会員や再び教会に集うようになった会員を放っておいたりはしないでしょう。一人一人が非常に貴い存在なので,指導者たちはイエス・キリストの福音の教義が一人一人に教えられるようにともに評議することでしょう。

ネーサンがわたしたちにとっていかに貴い存在であるかを思うとき,天の御父がそのすべての子供たちに抱いておられる感情をはっきりと理解し,感じることができます。わたしは神が涙を流されるのを見たくはありません。ですから,全力を尽くして福音の真理を伝えたいのです。わたしは教会のすべての青少年が贖罪の祝福を知り,伝道に出て主に仕えるにふさわしくなるための努力をするよう祈っています。主イエス・キリストによる贖いの犠牲の意味を深く考えるならば,必ずやもっと多くの年配の夫婦や健康的に可能な人々が,宣教師として主に仕えることを熱望するでしょう。イエスは次のように言っておられます。「あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし,一人でもわたしのもとに導くならば,わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。」(教義と聖約18:15,強調付加)さらに,その人が悔い改めるとき,主の喜びは大きいことでしょう!主にとってその一人が貴いからです。

兄弟姉妹,天の御父は救い主の贖罪によって手を差し伸べておられます。御父は「イスラエルの聖者であるキリストのもとに来て,キリストの救いと,キリストの贖いの力にあずかるよう」すべての人を招いておられます(オムナイ1:26)。福音の原則を忠実に守り,回復された救いの儀式を受け,絶えず奉仕を行い,最後まで堪え忍ぶことによって,聖なる御父の御前に戻れるということを,御父が自ら教えてくださっています。これほど重要な知識が一体この世界のどこにあるでしょうか。

悲しいことに,今日の世の中では,観衆をどれだけ集められるかによって,人の価値が判断されることがあります。メディアやスポーツ番組の評価も,時には会社の名声も,そしてしばしば政治上の地位も,観衆の多さで決まります。「父親」「母親」「宣教師」などに万雷の拍手が送られないのは,恐らくそのためなのでしょう。父親,母親,宣教師が「その役割を果たす」のは,とても小さな観衆の前だからです。しかし主の目から見て永遠に重要な観衆の数はただ一つ,たった一人なのです。つまりあなたやわたし,そして神の子供たちの一人一人がその観衆なのです。贖罪は無限にして永遠でありながら,個人的に一人ずつ適用されるという点で,二面性を持っています。

子供の賛美歌「神の子です」には永遠の真理が歌われています(『賛美歌』189番)。わたしたちは神の子です。忠実であるならば,全能の主なる神に満ちみちる喜びを,不忠実であれば涙をもたらすほど,一人の人間の存在は貴いものなのです。

復活した救い主がニーファイ人に言われた言葉は,今の人々にも向けられているのでしょう。

「『あなたがたは信仰があるので,幸いである。見よ,わたしの喜びは満ちている』……。

そして,イエスはこれらの御言葉を語ると,涙を流された。群衆はそのことを証した。また,イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。」(3ニーファイ17:20-21,強調付加)

兄弟姉妹,一人がどれほど貴いかを決して,決して過小評価しないでください。次の主の簡潔な勧めを常に覚えていてください。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)主イエス・キリストの贖罪の神聖で完全な祝福にふさわしく生活するよう,常に努めてください。愛するネーサンとの別離の悲しみの中で,わたしたち家族は救い主,贖い主だけから頂ける平安を得ています。一人一人が主に頼りました。そして今,より大きな感謝と理解をもって歌うことができます。

ああ,わがため主は死にたもう

奇くしきみ業

ああ,奇くすしき主のみ業

(「主イエスの愛に」『賛美歌』109番)

愛する兄弟姉妹,主イエス・キリストが差し出された贖罪のすべての祝福を人に与え,自分も受けられるように,イエス・キリストの御名によってへりくだり祈ります。アーメン。